一度でいい。
あの人のことを名前で呼んでみたい。
三沢先生でもなく。
三沢さんでもなく。
和宏先生でもなく。
和宏さん、と。
それが叶うなら他には何も望まない。
窓の外は、雨だ。
静かな教室の中に、三沢先生のやわらかな声が響く。
「その時、彼は確かに……」
本を読むとき、先生は少し伏せ目がちになる。いつもはまっすぐで強い光を宿す瞳が、このときは少し優しく見える。私は授業をそっちのけにして、先生の声に聞きほれていた。
説明の合間に時折、先生はちょっときつそうな咳をしている。風邪をひいているらしい。
「では、次の段落に進みます。えー、三十六ページの五行めから」
そう言って先生が顔を上げた瞬間、ぱっと目が合った。体に甘い電流のようなものが走る。
ふっとかすかに笑って、先生が私の名前を呼んだ。
「相原さん、相原透子さん、三十六ページの五行めから、次のページの二行目まで、読んでください」
「あ、はい」
耳が少し赤くなっているのがわかる。髪が長くてよかった。声が少し震えそうになるのを抑えて、私は言われたところから読み始めた。
終業を告げるチャイムが鳴り響いて、私が堂々と三沢先生を見つめていられる時間は終わってしまった。次の現国は二日後だから、それまで先生と会うのはおあずけだ。
ため息をついてのろのろと片づけをしていると、あっという間に片付けを終えた先生が思い出したように言った。
「先週出した、今日までの宿題がありましたね。列の後ろの人、ノートを集めて前に持ってきてください」
がたがたと後ろの人たちが立って、ノートを集めて前に持ってきた。全員分集めると結構な量だ。先生はちょっと考えてから言った。
「すみませんが、日直の方」
「はい、私です」
「ああ、相原さん。すみませんが、このノートを一緒に国語準備室までお願いします」
「わかりました」
日直なんてめんどくさいものだと思っていたけれど、三沢先生とまだ一緒に入れるなら大歓迎だ。現国の宿題のある日は他の人と代わってあげてもいいくらい。
先生の後ろをついて教室を出ようとすると、ドアのすぐそばの席にいた優樹くんが私に声をかけた。
「透子さん、重たくない?僕が一緒に持っていこうか?」
眼鏡越しに優しげな瞳でこっちを見ている。
「ううん、平気だよ。ありがとう」
いつも親切な優樹くんには悪いけど、先生と二人で廊下を歩く幸せを逃すわけにはいかない。
「そっか。落とさないように気をつけて」
「うん、大丈夫」
ちょっとだけ微笑んで優樹くんに言葉を返すと、私は三沢先生のあとを追いかけた。
最終更新:2006年07月23日 18:22