彼は、「ルート」と呼ばれていた。
 もちろん本名は別にあったが、彼の友人はみな彼をそう呼んでいたし、何より彼がそう呼ばれることを望んでいた。

 ルートと出会ったのは、大学二年生の後期だった。
 必修の英語の授業でグループが一緒になったことで仲良くなった。
 四人一組のグループだったのだが、残りの二人は学業よりもどちらかといえばアルバイトに忙しかったので、必然的に課題は二人でやることになった。
 大学に入ってすぐに事故でひざを壊すまで、小学生のころから野球をやっていたというルートは、かなりの大柄だったが、不思議に威圧感を与えなかった。それはおそらく、彼のもっている物静かな雰囲気や、穏やかな話し方、他人にたいする物柔らかな態度によるものだったのだろう。

 打ち合わせを兼ねて学食でお昼ご飯を食べているときに、彼のあだ名について触れたことがあった。
 「どうして、ルートなの?」
 私がそう尋ねると彼は、自分の頭に手をやって
 「僕の頭は、平べったいんだ」
 といった。
 「…だから、ルートなの?」
 つながりがわからず妙な表情をする私に、彼は笑って言った。
 「だからというか……このあだ名は、僕の大切な友達がつけてくれたんだけど……この頭の形があの平方根の記号、ルートを連想させたらしいんだ」
 「あ、あのルートなんだ。へええ……それにしても面白い考え方する人なんだね。その友達って」
 「まあね。でも気に入ってるんだこのあだ名」
 「そっか。いいね」
 そのときは、その話はそれで終わってしまったのだが、一瞬彼がとても懐かしそうなそしてわずかに切なそうな表情をしたのが印象に残った。
 そのルートの大切な友達、「博士」の話を聞いたのは、彼と付き合ってからだった。


 博士と初めて会ったとき、僕はまだ10歳だった。
 母さんが博士の家で家政婦をしていたんだ。 
 母さんに言われて、しぶしぶ行ったけど僕ははじめは気が進まなかった。普通母さんの仕事場に行くなんてありえないことだったからね。
 玄関のドアをあけて中に入ると、博士は僕を出迎えてくれた。
 あのときの博士の表情を僕はたぶん一生忘れない。
 僕の姿を認めたとたん、博士は僕と会えたことが嬉しくてたまらないというふうに、笑顔を浮かべて、腕を伸ばして僕を抱きしめた。そして、
 「遠いところよく来てくれた。ありがとう、ありがとう」
 そう言った。それから、僕がかぶっていた帽子を取って頭をなでながら、
 「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる実に寛大な記号、ルートだ」
 そう言ったんだ。
最終更新:2006年07月26日 11:51