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カウンセラーのコラム

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カウンセラーのコラム


こころむすんでひらいて

2011年6月26日 細井八重子

私は人に対してこころがむすんだりひらいたりしている様だと気がつきました。
皆さんはいかがでしょうか。
 わたしのこころって生まれていつごろから動き出したのか、それは忘れてしまっていることのほうが多いらしくはっきりしません。生まれたての赤ちゃんには、おなかがすいたとか、眠いとか暑いとか五体で感じるものを泣いたりして知らせてくるのが観察されます。時に微笑みも見られてほんとうにかわいらしさをおぼえます。でもその赤ちゃんのこころがはっきりと見て取れるのは、母親なり近づく人の区別をして泣く、あるいは抱かれたりあやされたりして笑うという表情によってということでしょう。
 ところで生まれたてのころに身近な人間関係にやすらぎというこころよさを繰り返しもらえたはずだということを私も皆さんも忘れてしまっているかもしれません。いや忘れたのは、そのやすらぎをいつどこで誰によってもたらせられたかという具体的なことだけでしょう。人に理解されることによって得られる安心感を求め、ほっとするそのひとときの快さを深いところで記憶しているようには思いませんか。人はその快さを回復するために、こころをむすんだりひらいたりしているのではないでしょうか。
 人生はすすみ、子ども時代を過ぎ、青年期、熟年期、あるいはシニアの時代を迎えた皆さんにはどのようにこころがむすんだりひらいたりしているでしょうか。親しい家族や職場でこころを開くことができているでしょうか。わたしは最近、童謡「むすんでひらいて」の歌詞に惹かれています。このメロディーは1874年前後は賛美歌にも使われていたそうですが、童謡として知られ、誰もが歌ったことのある歌詞です。
 このコラムをお読みになるあなたは、傷ついたこころをずっと閉じたまま重苦しく、何も感じられない状態になっていたり、あるいは開いたまま怒りや悲しみの感情の洪水に押し流されていたりしてはいないでしょうか。適度に呼吸をするようにごく自然に閉じたり開いたりできるといいし、そうすることがこころをリ・フレッシュすることであるような気がしています。しかしこれがなかなかむずかしい、、、。
 私は今日もこころを開いて人に出会い、再びこころをむすんで一日を振り返ります。
 そうしますと、今、私たちのこの命があるのはノアの洪水ならぬ東日本大震災の洪水を逃れられた生き残りサヴァイバーだからということに思い至ります。
 これからは、震災に会われた人の境遇を思いやりつつ、3・11後の生活を真剣に考えねばならない時代に入ったように思います。こうした日々のなかで、この世の命を生きるかぎり「こころ むすんでひらいて」を繰り返し、自分らしい生きかたを創っていくことではないかという思いが続いています。



答えのない問いを抱えて

2015年1月10日 南河 恭子

「私はどうしたらいいのでしょう?」
カウンセリングで、一番多く聞かれる言葉は何だろう?と考えていたときに、すっと浮かんだのがこの言葉です。当たり前かもしれません。どうしたらいいかわからず、一人で考えることにゆきづまり、思いあぐねてカウンセリングルームの扉をたたく人が多いとしたら、目の前にいるカウンセラーに、この問いをぶつけるのは、自然なことです。
例えば・・・・
「息子が、朝学校に行き渋って、泣いていやがるのです。無理に連れていった方がいいのでしょうか?休ませた方がいいのでしょうか?」とか・・
「子供とゲームの時間を約束したのに守れず、注意すると逆ギレされます。とにかく反抗的で手を焼いています。」とか・・
「最近、何事につけてやる気が起きません。前はこんなではなかったのに。生きていても楽しいと思えません」などなど・・・
これらのあとに続いて、決まってさきほどの「どうしたらいいでしょうか?」との問いが続きます。
でも、これらに答えるのは、容易なことではありません。同じような問いでも、状況は千差万別。ひとつひとつの問いの背景にある暮らしや、相談者の思いを知らないと、答えることはできません。いや、仮に知っても、何が正解かを見つけるのは至難の業なのではないでしょうか?
最近はカウンセリングというものがどんなものか、ある程度知っておられる方も増えたせいか、この問いのあとに、こんな言葉が続くこともあります。
「答えを求めてもだめですよね。自分で考えるのがカウンセリングですものね」
そんなときでも、相談の経過の中で、やはり何度も尋ねられます。「私はどうしたらいいのでしょう?」

忘れられない経験があります。
まだ私が駆け出しの心理臨床家だったころ、もう数十年前(!)の話です。当時、かけもちでアルバイトをしていた仕事先でのことです。1才半や3才の子どもの心身の発達をチェックする場ですが、子供の心にまつわる相談をしたい人は、個別に心理相談を利用できるようなシステムになっています。そこでは、「少し言葉が遅い」とか「お友達とうまく遊べない」などの相談がほとんどでした。
ある時、一組の親子が心理相談の部屋をのぞきました。真面目で素朴な感じのお母さんと可愛い女の子。女の子は、すぐに絨毯の上に広げられたおもちゃで遊び始めました。それを横目に見ながら、お母さんは、ちょっとひそやかな声で話し始めます。細かいことは覚えていないのですが、お母さんの訴えはこうでした。
「うちは母子家庭です。夫とは娘が赤ちゃんのときに別れました。今までは、娘に父親のことは話していませんでした。でも、そろそろ話さなければいけないと思います。だけど、何て話したらいいか、わからないのです。夫とは、何度も話し合って、でもどうにもならず、結局憎み合って別れてしまった。そんななので、私は娘に真実を伝えることはできません。でも嘘も言いたくないのです。どうしたらいいのでしょう?」
「真実」という言葉と、お母さんの真剣なまなざしが私の胸に迫りました。でも、たった一度きりの、短い心理相談の中で、若い私が一体何を言えるのだろう?「どうしたらいいのでしょう?」と私も誰かにすがりたいような気持ちでしたが、心がざわざわした次の瞬間には、口から言葉が飛び出ていました。
「お母さん、真実はひとつとは限りません。できごとには、たぶんいくつもの真実があるのだと思う。お母さんの中には、今は別れた夫への憎しみばかりがあるけれども、そうじゃなかったときもあるはず。お父さんだって、お母さんのことを大事に思っていたときもある。娘が生まれて嬉しい気持ちも必ずあったはず。今はどうかそれを娘さんに伝えてあげてください。お父さんとお母さんは、二人の都合で一緒に暮らせなくなったけど、お父さんはあなたのことを本当に大切に思っていたよ・・と伝えてあげてほしい。」
私はただ、子どもに、少しの間でも父親に愛されていたときがあったのだ・・と思ってほしくて必死でした。それは私の願いでした。でも、未熟な私が咄嗟に出したこの答えが、この親子にとってどうだったのか?。母親の探していた答えは何だったのか?。本当のところはわかりません。あれ以来、私はときどき自分に問いかけています。今の私なら、あのお母さんにどんな言葉をかけるのだろうか?と。
人はいつも、「真実」を求め、正しい答えを求めて生きています。でも、現実の世界は答えがわからないことで満ちています。また、仮に答えがあったとしても、それは、外から与えられるものではなく、問う人自身の中から生まれてくるもののような気がします。
あるいは、答えのない問いを抱えながらも、自分なりに折り合いをつけて生きてゆけるのなら、それでいいのかもしれません。そんなお手伝いをするのがカウンセリングの場なのではないかと思っています。 





『自分らしく生きる』を大事に

2016年5月8日 加藤 啓子

この頃、当たり前のことなのですが、人も自然の一部、生き物なのだなあとしみじみ思うようになりました。育てる、生きるという自然の営みがどこかぎこちなく、ときには流れに逆らっているのではと感じるせいなのかもしれません。課題や困難に行き詰る、あるいは無理を重ねストレスを強く感じるとき、生き物である自分を大事にするいい機会のように思います。
自分を大事にするとはどういうことなのか、ここでは人を木に重ねて考えてみたいと思います。
人は、古くから木に畏敬の念を抱き、命の象徴としてとらえてきました。季節に応じ花を咲かせ葉を繁らせる木々に物事の移り変わりを感じ、また風雪に耐える木に自分の人生を重ね、思いを深くする人は少なくないでしょう。人と木のつながりは、一本の木を描くバウムテストが心理テストのひとつとして広く用いられていることからもわかります。
慶応義塾大学精神科医の渡辺久子先生は、人を一本の木に例えて、「木には葉と枝、幹があるが、これが木のすべてではない。地面の下にある根こそが木を支える命なのだ。一般には学歴、社会的地位、容姿といった見える部分をみて、幸せそうとかお気の毒と思ってしまうが、しかし実際には、その人がどう思っているか、感じ方や考え方が大事なのだ…木が生きるためにはその根が生き生きしていなければならない…」と述べておられます。そしてよい根の条件として、活発な吸収力と排出力を持つ根、心理学の言葉でいう「自律性」をあげています。
環境に適応し、たくましく生きる木は、そのときどきの自分に適した養分を積極的に取り入れ、過剰で不必要なものは排出しています。
自律性とは自分自身の感情や考えで『こうしたい』という選択決定ですが、世間の価値観や周りからの期待に合わせ「こうあるべき」「こうしなくてはダメ」と選択決定するのを他律といいます。
他律が積み重なっていくと、心の根っこが弱ってしまいます。周りがうらやむような立場にあっても心が満たされず不安となり、希望や意欲が失われかけている人は、知らず知らずのうちに他律の割合が高くなっているといえるのでしょう。
じっとその場から動くことのない木が生きのびるには、根の自律性と枝分かれして伸びる根の自発性がきわめて重要です。育ち、生きる環境をそう簡単に変えることができない人にとっても先ず自律性、そして自発性が重要となります。
地面の下にある根と同様に人の心も見えませんが、自分の心を感じ思いやることで気づくことができますので、疲れているときなど一時的に何を避けどうしたら居心地よくなるのか、今自分の心が何を求めているのか、どうしたいのかといった気づきをもとに、自律性と自発性を大事にしてやりたいと思うのです。
人と木について思うとき、もうひとつつけ加えたいことがあります。それは木の種類は実にさまざまであるということ。常緑樹もあれば秋には葉を落とす落葉樹もあり、ミカンや桃のような果樹もあれば、きれいな花、いい香りの花を咲かせる木もあります。幼い時から桜として生きることを期待され、自分もそうなりたいと願って生きてきたけれど、「どうも違う」と人生の途中で本来の自分に気づく場合もあるのです。
このように考えると、木と同様、人も一人ひとり違っていいのだと改めて思います。

私達は、毎日を悲喜こもごもの思いで過ごしています。ときには今の自分を木に重ね、自分の心を思いやり、自律的な生き物としての自分を感じてみませんか。ありのままの自分をいとおしく大事に思えてくることでしょう。
カウンセリングは、安心できる雰囲気のなかで、来談者が自律性を取り戻し、自発性を高めて、自分らしく柔軟に環境に適応していけるよう、そのプロセスをご一緒する場であると思っております。

















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