66-178 佐々木さんのRainy Noise

 それは高校二年を前にした春休み。
 まどろみ、私は夢を見た。

 ところで人が夢を見る仕組みをご存知だろうか。
 まず睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の2種類があり、周期的に繰り返されている。
 体は眠ってるが、脳が軽く活動しているレム睡眠時に我々は夢を見るのだ。

 だから、これは私の思考の管轄外。
 思考から切り離され、混在する記憶が勝手に過去へと遡行させる。それは私が忘れるべき記憶。
 中学時代のおぼろげで不確かなメモリーズ…………。

『佐々木。おまえ、回りくどくて理屈っぽい言葉遣いを直せばさぞかしモテるだろうに』
『面白い事を言うね、キョン』

 キミが言う。私は違和感なく返答する。
 違和感? そんなものはない。これはただの日常。中学生である僕の日常。
 隣の机に肘をつき、身を乗り出して語りかける。それは僕にとってありふれた日常の一コマ。
 忘れもしない、でも忘れるべき日の一コマ。

『モテるモテないとかがこの人生において重要視される意味が解らないね。恋愛感情なんてノイズ、精神病さ』
『そうなのか?』

 彼は不思議そうな顔をする。
 くく、まあね。特殊な思考である事は熟知しているよ。

 でも僕はそれで良いんだ。
 何故なら僕の夢は「思考」の先にある。僕は思考し続けたい。
 僕は、自ら生み出した言葉、思考、なんでもいい、自らが思考した証をこの世に残したい。
 気恥ずかしいから言うつもりはないが、僕の大それた野望さ。

 だから僕の思考は「中立」でありたい。
 女には女の、男には男の言葉と思考で対等な立場を気取る。
 思考にノイズは禁物だ。情緒的な思考、特に恋愛感情なんて精神病の一種とさえ言っていい。

『おやキョン、まさか愛情がなければ結婚、子供、家族なんて作れない、なんて血迷った事は言わないだろうね。
 ならば野生動物を見てみたまえ。まれに「家庭」のようなものを作る種もあるだろう。
 しかしそれは愛情によってのことではない』

 唇の端だけを釣り上げ笑ってみせる。
 キミを誘う僕の合図。

『じゃあ何によってだ?』

 ふふ。意図を理解してくれる。好ましいよ、キョン。
 そうとも。こんな考え方だってキミは笑わずに聞いてくれる。キミは僕の「思考」を楽しませてくれる。

『本能によってさ』

 僕は思考し続けたいね。
 それが僕の夢に続く道だから。
 僕は死ぬまで考えたい。もし「思考」を止めたならそれは「僕」の死だ。動物的な生が残るだけなのさ。

 僕は「動物」ではなく僕でありたい。

 キミは「本能」が人の脳にどこにあるか知ってるかい?
 それは視床下部、人を人たらしめる大脳に覆われた下部構造に属している。
 食欲・睡眠欲・性欲という本能、そして情動の中枢もまた、視床下部にあるという。
 くく、情緒的感情、特に恋愛なんてノイズなのさ。
 本能に直結する動物的思考なのだから。

 だからモテるモテないなんて意味は無い。
 動物的に在りたい奴は勝手に動物になればいい。
 だけど僕はそうではない。誰かに好かれようとしたり、好意を振舞うなどもっての他なのさ……。

『お二人さん。これ、進路希望表。先生から預かってきたから書いて』
『この班で出してないの、あなたたちだけだから』

 また一つ声がする。
 中学時代、忘れもしない、キョンに恋愛は精神病だと豪語した日。そして「…の日」の事だ。
 クラスメート。とても可愛いオンナノコ。岡本さんの声。
 僕らは思考を中断する。

 進路希望表。

 僕の思考にノイズが走った。

『なんだか二学期になってますます仲が良くなっているみたいだね』

 今度は国木田くんだった。隣のクラスの風変わりな人。
 また同じ日、あの……の日、プールサイドで交わした会話。何故こんなにあの日を思い出すのだろう。
 それはきっとあの日が僕らの分水嶺だったからだろう………。

 彼の言葉は「僕とキョンとが仲良くなった理由」を問うていた。
 そうだね。キョンは自覚していなかった。
 僕は答えを拒否した。

 彼は「それが模範解答だね」と笑った。

 僕には僕の解答がある。そうさ、僕は僕の未だ至らぬ思考に付き合ってくれるキョンが非常に好ましかった。
 これは理性の判断。恋愛感情なんて「本能」と一緒にされてはたまらない。
 だけど国木田君の求める答えはきっと違うだろう。
 だから僕も笑い返した。

 それから僕らはキョンに語った。
 どうでもよい四方山話。他意はないよ。ただ、僕はキミに知って欲しかっただけさ。
 歌は良いよね、と。

『遠慮しとくよ。洋楽なんだろ? 日本語以外は解んねえよ』

 くく、そうだね。
 でもこれは僕と国木田くんの意見なんだが、歌詞はそこまで重視する必要はない。
 旋律の一部、音の響きと考えて心地良さに浸ってみたまえ。
 メッセージなんて伝わらなくても良い。

 そう、理解する必要なんて無い。
 心地良い旋律……心地良い空間、心地良さに、意味を求める必要なんて無いのさ。

 そうさ「理解する必要」なんて無いんだよ、僕。

 ……僕?
 思考にノイズが走る。

『参ったな。キミは雨男なのか?』

 僕の声がした。中学時代、あの忘れえぬ、けれど忘却の底に沈めた雨の日の私。
 キミと歩いた通学路。「佐々木お姉ちゃん。遊びに来てくれたのーぉ?」と笑うキミの妹。食べかけのおせんべい。
 ああ、本当にこの日は分水嶺だったのだ。キミの家に遊びに行くという話。
 あれから一年も経ったけれど、今も実現していない。

 それは、本当は大切になっていたかもしれない一年。
 僕が一年も……いや決して無為じゃない。無為なんかじゃない。僕は僕の夢の為の一年を過ごした。
 でもそれは傍らにキミがいない、そして「僕」を見てくれる人の居ない一年。
 また思考にノイズが走る。

 キミが自転車を引き出し、僕が荷台に乗る。走り出してしばらく経ってからの事だ。
 一天にわかに掻き曇り、まるで誰かの演出のようにゲリラ豪雨が降った。
 でも僕は、この時、まだ面白がっていた。
 まるで青春映画みたいだと。

『キョン、このままじゃパンツの中まで濡れ鼠だ。どこかで雨宿りしよう』

 勢いの余りまた口が滑る。
 我ながらなんてはしたない台詞。……ああ、彼の前では何故か口が良く滑っていたのは……。
 いや、先を続けよう。

 雨の中の軒先。
 シャッターを下ろした何かの店舗の前で、僕らはイモリの類似品のように軒先に張り付いてた。
 内心、ちょっと嬉しかった。それはちょっとした非日常であったし、
 このちょっとした猶予期間、モラトリアム自体も嬉しかった。
 またキミとの時間を過ごせるのだと。

 とりとめもなく語り合う。まるで歌詞の意味も知らず洋楽を聴くように、意味も解らない、けれどとても大切な時間。
 そう「理解する必要」なんてなかった。なのに僕は気付いてしまった。
 思えばこれは分水嶺。

『ところでキョン。あまりこっちを見ないでくれないか』
『何でだ?』
『……やれやれ』

 キョンの目線。
 キョンは目を合わせるように喋る。それはとても好ましいことだ。だけど、ね?

『キョン、キミは時々忘れるようだが、僕は遺伝子的に紛れもなく女なんだよ』
 さすがの僕でも、こんな姿……解りやすく言うと下着の下すら露になりかけているような、
 破廉恥な格好を人目にさらして平気な顔ができるほど無神経じゃないんだ。

 いつもと同じ目線。
 僕は、ふと、その目線と、今日、プールで岡本さんの水着姿を見ていた彼の目線を重ねた。
 それは決して同じ視線じゃなかった。

 そっか、キョンは、僕を「女」と見てはいないんだ。

『僕の貧相な胸部なんてマジマジと見たところで益にはならないだろう? 岡本さんのならまだしもさ』

 言い継ぎ、二つ目の衝撃が襲った。
 僕は今なにを言った? 待て、僕はなんで「岡本さんへの目線」でキョンに見て欲しがった?

 そうか、僕は、キョンに「女」として見て欲しかったんだ……。

『まったく、本当にやれやれだよ。この雨に対しても、僕自身にもね』

 体温すら感じあえるような距離で、僕らは黙り込んだ。僕は黙り込んでしまった。

 自嘲する。キョンは決して悪くない。
 だって僕は、再三彼に「女と見るな」とアピールしたはずだ。
 そうさ、僕は、こんな姿を見ても欲情しない、そんな人こそが「友達」に欲しかったはずだ。
 本能、性別を越えた本当の友達。「僕」という仮面を見てくれる人。
 僕に干渉しない、心を分かち合わない人。
 中立を求める僕に最高の友達。

 なのに僕は、キミに性欲を求めてしまった。
 なのに僕は、キミに本能を求めてしまった。

 僕はあの心地良さの理由を理解した。それは「動物」としての心地良さだったのだ、と。
 僕は「理性」ではなく、「本能」で彼を求めていたのだと。
 自分で気付いて愕然とした。

 それきり僕らは、生返事をし合いながらただ空を見上げていた。
 ふと、キミがちらちらと僕を見ていると気付く。その視線が岡本さんを見るそれに、近付いたように思えてしまって……

『何か?』

 ことさら冷たく言ってしまう。
 ああ、私は、キミに女として見られたいのか? それとも見られたくないのか?
 自分で自分が解らない。だから、じっと雨を見ている。
 すると、彼が困ったように呟いた。

『やれやれ』

 どきりとした。それは僕の口癖の一つだったから。
 ぐさりとした。堪らなく嬉しかった自分自身の愚かしさに。
 覚えるべきことが山のようにあった中学時代。そのおぼろげで不確かな記憶の中に、ひっそりと眠る僕の分水嶺。

『どうも自覚がないようなので、この件は追求しない方がいいのかな?』

 プール際で国木田くんは「僕に」言った。
 それは、キョンの中にも「僕と仲良くなりたい理由」が眠っている事への示唆。そして「僕」への問いかけだった。
 それは問いかけ。「佐々木さんはどうしたいの?」という問いかけ。
 僕の本質への問いかけ。

 僕はキョンに「女」として見て貰いたいのか?
 僕は、築き上げた「僕」を放棄して、いまさら「女」になるべきなのか?
 それとも「僕」は「僕」であるべきなのか?

 国木田くんに悪意なんてない。きっと彼にあったのは善意。
 僕らを後押しする為に、自覚させる為に……。

『『『なんだか二学期になってますます仲が良くなっているみたいだね』』』

 うるさい!

 それから僕は、進路希望表を提出した。
 キョンとは違う高校へ、己を高める進学校へ。
 僕が僕である為に、「思考」という僕の夢に進む為には「こんな感情」はノイズだと思いたかった。

『僕は誰かに好かれるような事はなにもしない。誰かに好意も振舞わない』

 僕は決意を新たにする。特にキョンには振舞わぬよう……。
 だからこれは封じた記憶。キミの「荷台」から勝手に降りてしまった理由。

 物事にifなんてない。

 あの晴れた日。
 もし、あの通り雨が降らなければ、きっと当分気付かなかった。
 ほんの数日だけでいい。進路希望表を書き込む間だけ。それだけでも気付かないでいたならば。

 僕は、あの心地良い猶予期間を楽しむ為に、キミと同じ学校を選んでいただろう。
 そしたら、きっと…………。

 でも、「もし」なんて思っちゃいけない。
 それは「佐々木」らしい思考じゃない。キミが知ってる「佐々木」じゃなくなってしまうから。
 キミを振り切ってまで守った僕の思考規範、パラダイムを僕は守りたいから。
 僕は僕であるべきだから。

 分水嶺を振り返るべきじゃない。
 だから、これは封じた記憶。

 中学三年のある日のメモリーズ…………。

)終わり

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最終更新:2013年03月07日 01:01
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