「キョン、落ち着きたまえよ」
「そうは言うがな佐々木」
休み時間。俺の貧乏ゆすりがそろそろ机ごと教室を揺るがすんじゃないかと思えるレベルに達し始めた頃、佐々木は落ち着き払って言った。
けどな。明日が受験ともなれば、俺みたいな赤点野郎は落ち着かないものなんだぜ?
「キミの学力は十分に北高校の合格水準に達しているよ。それに、事ここに至って焦ったところでしょうがないだろう?」
「お前はホント正しいことしか言わないんだな」
俺だって頭では解ってるんだよ。
「ん。そうすねないでくれよ」
「すねてねえよ」
だからひとの頬をつつくな。
「キョン、心の持ち方は常に変わることなきように。それがコツだと言うだろう?」
「言うのか? まあそんなもんだろうが」
隣の席から乗り出すようにし、佐々木はいつものポーズで語りだすと
「くっくっく、とある昔の兵法家の言葉さ」
「兵法家ねえ」
食いついた俺に得たりと微笑む。
ここ一年ですっかり見慣れた、佐々木得意の表情だ。
「彼は自著の中で、心の持ち方は常の心と変わることないように、常の時も、戦闘のときにも変わらずにと説いた。
まっすぐに、きつくもたるみもせず、偏らぬように、静かに、そう、静かな波間のように、常に揺るがせるのが兵法の心持ちだとね」
「受験戦争の心得ってのは解るよ」
「そりゃよかった」
「けど揺れているのはいいのか?」
佐々木は心持ち身を戻して一人頷くと、片目だけをつぶってこちらを覗きこむ。
「例えば、歩くという行為がバランスを崩しては立て直すことの繰り返しであるように。揺らぎとは「次」へ繋がる柔軟性とも言える。
或いは水が器によって形を変えるように、流動する柔軟さが大事なのさ」
「水ねえ」
「そう、水だ」
それが聞きたかった、と、目で笑っている。
「彼は密教の五大、五輪に例え、地・水・火・風・空の五書で残そうとしたからね」
「五輪?」
その言葉に引っかかると、佐々木の笑顔が破裂しそうなまでに膨らんだ。
「キョン? キミが好きそうな話題だと思ったのだが違ったかな?」
「五輪の書、だな?」
「その通り」
五輪の書と言えば宮本武蔵、それくらい俺でも知っている。
相変わらず回りくどい物言いをする奴だ。それなら最初からそう言え、と、突っ込もうとしたところでふと思い至る。
「なるほどな」
「どうしたんだい?」
「いやな、だから佐々木小次郎との決闘の逸話に繋がるわけか」
「ご名答」
ぴっと指を立てる。
「佐々木小次郎を煽り、怒らせ、心を乱し、彼の剣を乱したという逸話だね」
「せこいことするなあ、とは思わんでもないがな」
「勝負事とはそういうものさ」
だから、と続ける。
「心をまっすぐに、それでいて常に揺らめかせ柔軟性を失わない。
それこそが大事であるとするならば、逆に『勝利するため』には、相手の心を歪め、乱し、硬直させるのが手段となる。であるならば」
ポン、と俺の肩を叩く。
「キミは心乱さぬようにありたまえ。いつも通りのキミであればそれでいいのさ」
「ご忠告痛み入るよ」
まったくお前はいつも正しいことしか言わんな。
「そうでもないさ。僕とて武芸者岩流のように、佐々木小次郎のように心乱されることくらいあるよ?」
「ほう?」
興味深いが想像もつかんな。理性と冷静がお前の身上じゃないのか。
「くっくっく、でなきゃこんな教えを心に留めたりするはずないだろ?」
「なるほど、もっともだ」
佐々木の言う事はいちいちもっともだし興味深い。
いちいちもっともだとも思えるし、それでいて大きな隙がぽっかり空いているような気もする。
もちろん根拠はないが、それが佐々木の語り口なのだとなんとなく思う。
なんとなくだが、そう思うのだ。
「聞きたいのなら言って聞かせるにやぶさかではないが、さすがにキミに対してでも語るには気恥ずかしい事例なのでね」
「そうかい」
なら聞かずにおいてやるさ。
こんな俺にだって友情を感じる心くらいはあるからな。
「お気遣い感謝するよ」
佐々木は微笑む。しかし、その笑顔がどこか続きを語りたげにしていたように見えたのは気のせいだろうか。
自分の恥など語りたがる奴などいないだろうから、俺の気のせいだろうけれど。
「キョン、ラストにあたる空之巻ではこうも語られている。
兵法者には道がある。正しい道がある。けれど真実の道を知ると言うのは大変に難しいものだ。
知らないうちは「正しいつもり」になっていられるだろう。けれど客観視してみれば、それはただの自分の独りよがりだと解るんだ、とね」
両目を閉じ、胸に手のひらを当て、佐々木は続ける。
「自らの行きたい道の為の修行を怠らず、心と目を曇らせず、迷いの雲を晴らして真実の道をゆかねばならない。
独りよがりというのは、心の偏り、自分の心に贔屓目を許しているという事だ。
それが迷いの雲をもたらし、真実から目を遠ざけてしまうのさ」
目を開き、その手を、今度はそっと俺の胸に重ねる。
その手は小さく、そして温かい。
「常に修練し、まっすぐに在ろう。そういう事さ」
「そういう事、か」
手を戻し、くすくすと笑いあう。
長話だったが、ま、結論なんざシンプルなもんだな。
「そう、シンプルだ。けれど得てしてそんなものなんだろうね」
佐々木は両腕を組み、背もたれに背中を預ける。
「何事も根本にあるのはシンプルなものさ」
「シンプルか」
「シンプルだ」
面倒くさい思考回路を持った俺の友達は、何かに馳せるように目を閉じる。
それと同時に休み時間終了を告げるチャイムが鳴った。
「ま、あくまで僕の独自解釈だがね」
「台無しじゃねえか」
俺が即座に突っ込むとニヤリと偽悪的に笑み返す。こいつ確信犯か。
「キョン、キミがあらかじめ知っていれば最初にそう言えていたはずだろう? 日々の修練不足という訳だ」
「やれやれ」
「ああまったく。やれやれだよ」
俺の仕草がよほど面妖だったのか楽しげに追随する。
とても楽しそうに、けれど、目になにか別の感情を数%混ざらせて佐々木は呟く。
「心は水のように。器に合わせて形を変えてゆくように、環境に合わせる心積もりも必要だ」
それも受験の心得だろうか?
よく解らんが。
「キョン」
「なんだ佐々木」
じっとこちらを見つめ、口を数mmだけ動かして、止めた。
そのまま目が細く、笑みが深くなり、どこか、吹っ切ったような笑みに変わる。
「いや? 明日の高校受験、期待しているよって事さ」
「思い出させるなよ」
いつものように煙にまかれ、頭の中の不純物が冬の空気のようにすっきり凍り落ちていたような気分が台無しになる。
まったく、お前は俺を落ち着かせたいのか動揺させたいのかどっちなんだ?
「さてね? そう言われて見ると解らなくなってきたよ」
「んな無責任な」
「しょうがないだろ?」
先生が教室に入ってくるのを片目で認め、佐々木はひそやかに微笑む。
「人の心なんて矛盾の塊だよ? だから多くの先人が心の有り方を残したのではないかな」
「かもしれんがな」
それでも俺はシンプルな方がいい。
「そうだね」
「そうありたいものだと、僕も思うよ」
そう、佐々木はどこか遠くを見るような目で微笑んでいた。
)終わり
最終更新:2012年06月10日 02:27