「はい、藤原です」
夕食後、お風呂に入り、そのあと臨時に花の注文があったので、ラウンジに花を届けにいったあと、家に戻ると同時に
携帯電話がなった。
『こんばんは、藤原君』
愛らしい、ふわっとしたような声。間違えるわけもない。
「こんばんは、朝比奈さん」
『ごめんなさい、夜遅く。藤原君、突然なんだけど、今度の土曜日、なにか予定がありますか?』
「いや、何もないですけど」
『もしよかったら、その日、生花の大展覧会が あるのだけど、一緒に見に行きませんか?』
彼女の言葉に、僕は驚いた。なぜなら、こっちも彼女を誘おうかと思案していたからだ。
「はい、是非に」
『良かった。待ち合わせは展示会場でいいですか?』
異論はない。僕は返事をすると、電話を切り、壁にかかったカレンダーの日付に丸をつけた。
土曜日。
会場は駅に直結した大型百貨店の催事場だった。
広々とした展示場に飾られた、生花の各流派がその歴史と技の誇りをかけて活けた花の芸術。
花を扱う家の息子としては、身震いするほどだ。
「藤原くん」
僕の名を呼ぶ声に振り返り、そこで目にしたものに、僕の目が点になる。
着物姿の朝比奈さん。派手さはなく、しっとりと落ち着いた雰囲気の中にも、美しさが光る、彼女を際立たせる着物
を見にまとっていて、思わずその姿の見とれてしまった。
「こんにちは藤原くん」
天使のような笑顔で話しかけられて、何故か僕は深々と頭を下げてしまった。気分的に言えば、お姫様に頭を下げる
従者と言った感じだ。
「朝比奈さんて、青山方丈流の家元の娘さんだったんですか?」
「はい。父が18代目の青山方丈を名乗っています。私はその次女なんです」
青山方丈流は血縁でなく、弟子で一番優れた人物に流派の指導者としての地位を譲るそうだ。ただし、完全に血縁を
排しているワケではなく、縁者でも、優れた才能であれば、総元締になれるとのことだった。
朝比奈さんのお父さんは、先代の青山方丈に認められ、後継者に指名され、18代目を継いだという。
「それじゃ、朝比奈さんも後継者をめざしているわけですか?」
「ううん。私は好きだから父に習っているだけなんです。私の姉は花は好きだけど、習うのは苦手とか言って、全然
やっていないんですよ」
朝比奈さんに案内され、各流派の師範代、高弟達が活けた作品を見て回る。各流派がこれだけ勢ぞろいして合同で展示
するのを見れる機会は少ない。それに、思いもよらない使い方で、隠れた花の美しさを引き出す技術は、大いに参考にな
る。
青山方丈家元作品、すなわち朝比奈さんのお父さんの作品の前で、足が止まった。
他の作品を圧倒するような存在感。迫力がありながら、繊細さと優雅さを併せ持ち、花の魅力と生命力を全面に引き出
した生花。
「すごい・・・・・・」
思わず、その言葉が口に出る。
「みくる」
青山方丈市の作品に見とれていた、僕と朝比奈さんに、誰かが声を掛けた。
「ここにいたのね。お父さん、もう帰る、て言っていたから、あなたも帰っていいわよ」
朝比奈さんに声をかけた女性は、朝比奈さんにソックリで、朝比奈さんを10年ぐらい大人にしたような、すごくスタイ
ルの良い美人だった。
「あら、そちらはお友達?」
「うん。姉さんに紹介しておくね。こちらは北高の藤原みつる君。家はお花屋さんなの。藤原くん、こちらは私の姉さんで
朝比奈みちる。普段は父の秘書をしているの」
「藤原です、始めまして」
そう言ってあいさつして顔を上げた時だった。
”?”
僕の視線に、朝比奈さんのお姉さんの、強ばったような表情が一瞬だけ写った。
展示場を出て、待ち合わせの場所に朝比奈さんが指定した百貨店地下の「甘味処 雅風庵」の席に座っていると、
洋服に着替えた朝比奈さんがやって来た。
着物姿も美しいが、普段着もとてもおしゃれで、ごく自然な感じがしながら、彼女の美しさを引きたてている。あ
の展示場にあった、青山方丈流の別作品を思い起こさせるようだ。
男性客のみならず、他の女性客も、朝比奈さんに視線を向けている。最も、彼女はそれを気にする様子もなく、笑顔
を僕に向けて来る。
「藤原君、ご飯食べる前に、軽くお茶を飲んでおきましょう。」
日本中の銘茶を飲ませるこの店は、朝比奈さんのお気に入りだそうだ。
朝比奈さんが選んでくれたのは、福岡八女星野村と言うところの八女茶水出し煎茶。それに添えられた菓子は、巻き干
し柿を薄く切った物に、煮切り古式味醂を少量、霧吹きでふりかけた「菓祖霧風露」というお菓子。
「美味しい……」
思わず、そんな言葉が口を付いた。
そんな僕を見て、朝比奈さんが楽しそうに笑顔を浮かべた。
昼食は朝比奈さんの好物だと言う蕎麦にした。春の息吹蕎麦と言い、香りのよい、夏の来る前のこの時期に収穫される物
をつかう店だと言うことで、朝比奈さんのお姉さんも、そして父親の青山方丈氏もお気にいりだそうだ。
こちらの知識では、さっき食べた干し柿の菓子も、蕎麦も旬ではない様な先入観があったが、固定観念を打ち砕くような
美味しさと、それを知っている朝比奈さん達に尊敬の念すら覚える。
「それにしても、朝比奈さんのお姉さんて、朝比奈さんにそっくりですね」
まるで、10年後の朝比奈さんを見ている様な、朝比奈さんのお姉さんの朝比奈みちるさん。
「昔からそう言われるんです。小さい頃から、よく姉と私を『朝比奈さん(大)』、『朝比奈さん(小)』とかいう人、
がいて、それを他の人もマネする人がいたりして、からかわれた事もありました」
おかしくて思わず蕎麦を喉に詰まらせそうになった。
”それにしても……”
一つだけ、気になる事がある。
“お姉さんの、僕を見た時のあの表情は、何だったんだろう?”
ほんの一瞬だけだったが、何か引っ掻かっる。
その後、僕たちは色々な店を廻った。
朝比奈さんは雑貨に興味があった様で5件ほど梯子して行き、気に行ったカップを手に入れてご満悦の様だった。
道行く男共の視線が、甘味茶屋の時と同じように朝比奈さんに集中する。
そいつらにとって、その横にいる僕はどの様に写ったのだろうか?
日はまだ高かったが、時計は5時を過ぎていた。
「今日は楽しかった。ありがとう、藤原君。色々付きあってもらって」
「とんでもない。お礼を言うのは僕の方です。とても楽しかった」
「また連絡しても良いですか?」
僕は勢い良く首を縦に振っていた。
「今度また何処かに出かける時に、藤原君を誘いますね。それと、今日のお礼にこれを受け取ってもらえますか?」
そう言って朝比奈さんがくれた物は、雑貨屋で買ったカップが入った箱。確か、ウサギの絵が付いたペアのカップの
片一方。
”え?それって……”
「よかったら使って下さい」
そういった朝比奈さんの顔が、薄く朱色に染まっていた。
こでまりの花は姿を消し、中庭には梅雨の雨水を受けて咲き誇る色彩々の紫陽花の花々と橙朱色の凌霄蔓を
中心に、鮮やかな花景色を見せている。
休日。あいにくの雨ではあるが、そんなことは関係なかった。
時計の針は午前10時半。約束の待ち合わせの時間まで、一時間以上時間がある。
毎週ではないが、休みの日に、朝比奈さんと出かけることが多くなった。
”藤原君と出かけるの、とても楽しいですよ”
可愛らしい笑顔で言われると、こちらとしても胸が高まるのを止められない。
「藤原。随分充実してるんじゃねーか」
谷口からそう言われたが、谷口自身も周防という女の子とつきあってうまくいっているようだ。
「この前、朝比奈さんとタルジェビルにいたよね」
「国木田、なんでそのことを知っている?」
「僕も鶴屋さんとタルジェ近くのレストランにいたからね。偶然見かけてさ」
国木田も朝比奈さんの親友である鶴屋さんとかなりうまくいっているようだ。
”最近、鶴屋さんは国木田くんとばかり出かけるんですよ。でも彼氏とかできたら、そちらを優先するのが
当たり前なんでしょうね”
朝比奈さんは少し残念そうに、でも微笑ましいというように笑っていた。
時々考えるのだが、”彼女”、あるいは”彼氏”て、一体どう言う意味があるのか。
僕たちは子供と大人の狭間にいる。大人になる過程として、そのような存在が必要なのか?
小さい頃、男女を意識することなく一緒に遊べた。成長するにつれ、男は男、女は女と固まって(全部が全
部じゃないが)行き、ある種の集団を作る(友人関係とか色々な形態がある)。これは男と女を分けるための
本能的行動が根底にあるのではないのか?
”異性”として意識する前提として性的欲求があると仮定すれば、”大人”としての体の成長に伴い、そう
いう意識が出てくるのは必然なのだろう。
”でも、あの女の子を好きになったときは・・・・・・”
夢に時々出てくる、フワッとした女の子。顔はよく覚えていないが、優しい感じの、遠い日の思い出。
”幼い初恋。浅き夢みし我が想い。花虚ろ、遠い時の彼方の夢の跡・・・・・・”
この前読んだ華道界の会員誌に載っていた詩の一節を思い出す。
小さい日の思い出。あの時の思い。
朝比奈さんと一緒にいるとき、不思議と僕は小さい頃のあのときのような気持ちを思い出すのだ。
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「”花ほころび、香り溢れ、界に咲く”やねえ」
叔母の言葉に、私は落ち着かない気持ちになる。
「みくるちゃん、最近ますますべっぴんさんになってるわねえ」
「そうですか?」
「私は半年ぶりに会(お)うたけど、そう思うわ。みちるちゃんは毎日顔を会わせるわけやから、気づかん
のかもしれへんけど」
実を言うと、私はみくるの――妹の変化に気づいている。
少女から大人の女性へと変化していく過程――蛹から紋白蝶へ脱皮するように――にみくるはいるのだ。
そのきっかけは、展覧会で会ったあの少年――藤原みつる。
そして、そのことが私を落ち着かない気持ちにさせていた。
男女の出会いは天の采配。運命か偶然か。
みくると藤原。
”二人が出会うなんて” ,,,
同じ土地とはいえ、二人に接点はない。学校は別だし、あの日以来、私たちは会うことはなかった。
二人共覚えてはいないだろう。もう10年以上前の話だ。
”だけど・・・・・・”
断ち切れたと思った絆の糸は、二人を繋いだ。
”その先に待つのは・・・・・・”
早めに私は動かなければならないようだ。
蔓棚に咲いた凌霄花の橙朱色の花弁が、雨風に煽られて庭にたくさん落ちているのに私は気づき、小さくため息を付いた。
”――さん”
昔の夢。幼い頃の何も知らない頃の思い出。
あの時の少年。私の後を付いてきた少年。
やわらかい髪も、微笑みも、全て大好きな、私の宝物。
ふと目を覚ますと、あたりはまだ真っ暗で、静寂の闇の世界だった。
枕元のデジタルアラ-ムを見ると、午前2時53分。草木も眠るなんとやらだ。
私の隣にあるぬくもり。火のように熱いかと思えば、氷のように冷めることもある心の持ち主だけど、快楽を分け合うときは、
お互い炎になる。
”全て燃えてしまえばいいのに、ね”
一樹の母親は私のところに息子が入り浸るのを、快くは思っていない。関係に気づいているわけではないが、それとは別の感情――
ある種の劣等感に基づく感情が、私にたいする嫌悪感につながるらしい。
”それなら夫婦仲良くすればいいのにね”
私の口からは、その言葉は絶対に言えないが、あの母親に言えれば、さぞかし気持ちがいいような気がする。一樹の父親でも構わない
けど。
一樹の唇に私の唇を重ねて、私は再び夢の世界へ戻ることにした。
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「おはよう、古泉くん」
「おはようございます、涼宮さん、おや?」
光陽学園への道を歩く僕に涼宮さんが声をかけてくれ、僕は挨拶を返した。
その涼宮さんの横に、佐々木さんの姿があることに気づき、僕は少し驚いた。
「お二人が一緒とは珍しいですね」
「昨日、佐々木さんの家に泊めてもらったのよ。それで荷物を取りに家まで戻って、一緒に来たのよ」
「へえ。どこかでかけられたのですか?」
「そう。ほら、この前知り合った北高のキョン。あいつとあたしと佐々木さんと、キョンの友人の長門て娘と四人で遊びに行ったのよ。
最後は佐々木さんの家でゲ-ムやっていたんだけど、少し遅くなったので、あたしは泊めてもらったわけ」
なかなか興味深い組み合わせだと思った。
”ん?だけど、彼はあの時佐々木さんとかなり親しく話していたようだが”
そのあともまんざらでもないというようなことを小耳に挟んだ。
”その長門とかいう娘も含めて三人か。見かけより彼はモテるようだな”
「おはよう、皆早いわね」
僕の思考は森さんの挨拶で中断した。
三〇分程前まで、僕は森さんと一緒にいた。そんな様子を今の森さんは微塵も感じさせない。
僕らの関係は、同じサ-クル「SOS」に所属している、仲のいい先輩後輩。
マンションのあの部屋――僕等二人だけの、お互いの本性をさらけ出す――にいるとき以外は、僕等は仮面をつけ
ている。
「涼宮さん、今度は清雅高校の知り合いから、”会合”をやらないか、て連絡があったけど、どうする?」
森さんの言葉に、ここ最近、サ-クルの”会合”、要は合コンだが、SOSは活動休止状態であることを思い出した。
SOSの中心人物の一人である鶴屋さんは、北高の国木田君と付き合っているようだし、鶴屋さんの友人の朝比奈さん
は、これまた北高の藤原君と仲が良い。
”そういえば、北高生と光陽の組み合わせが多いな”
周防さんと谷口君。そして涼宮さん、あるいは佐々木さんと”彼”。
「う~ん、そうね。森さん、今回はあたしは辞退する。しばらくSOSの活動も休止してもいいかも」
「そう言うと思ったわ。何となく一段落したみたいな感じがあるから。向こうには連絡しておくわね」
サ-クル・SOSのトップ(?)は森さんだが実質的に物事を決めているのは、涼宮さんだ。
サ-クルを立ち上げた涼宮さんの発想力と行動力の根底にあるのは、退屈を嫌う心で、それは本能行動に近い。脈絡も
なく、こちらが驚くような行動を起こす時もあるが、それも涼宮さんの無意識下における心がそうさせている。
”それでは、彼女の心が満たされれば?”
当然、涼宮さんの行動は落ち着いたものになる。今みたいに、SOSの活動を辞退するような発言をするのだ。
”彼”は涼宮さんをおとなしくさせる”鍵”とも言えるわけだ。だけど・・・・・・
佐々木さん、そして”彼”の友人という北高の女生徒の長門さん。
涼宮さんは明らかに”彼”に好意を持っている。それは佐々木さんや、長門さんとやらも同じだろう。
”どうなるのかな、実際”
人の心はわからない。未来のことはさらにわからない。
”彼”は涼宮さんを選ぶのだろうか?それとも佐々木さん、あるいは長門さん?
いずれにしろ、涼宮さんが絡む以上、僕は”彼”と繋がりを持つ必要がある。
”涼宮さんを譲るつもりは毛頭ありませんから”
そんな言葉を心の中でつぶやき、直後に、今の自分自身の姿にひどい自己嫌悪に陥りそうになる。
”何を甘ったるいセリフを言っているんだ。この僕に救いなんてないだろう”
自嘲気味に笑った僕を、森さんが見ていることに、僕は気付いていなかった。
もし、それが禁断の果実だと知っていたら、それを口にするだろうか。
罪を背負うとわかっていても、私は口にしただろう。甘美な快楽とごまかせない気持ち。
手に入れた憎しみと、囚われた獲物。
私たちが出会ったのは、随分昔。何も知らない頃の、子供の時。
両親の友人の子供である、二歳下の男の子。柔らかな笑みを浮かべて私の後をついてくる男の子。
初めて会ったとき、私は多くの女の子と同じように、彼に心を奪われた。
あの日から、随分時間が過ぎた。
お互いに成長して、彼は私を追いかけるように少年から大人への階段を駆け上がって行く。
結ばれることはお互いの望み。あのことを知る前に私たちは、子供から大人になる過程を進んでいた。
真実と――そこから生まれた憎しみ、そして欲望とどうしようもない――愛情。
二人で過ごすあのマンションにいるときだけが、仮面をかぶらない、私たちがお互いをさらけ出すとき。
一樹は、私の愛憎の糸に捉えられた獲物。贖罪の捧げ物。だから私はそれを貪るのだ。私自身を鎮めるために。
”何故一樹を手放さないの?そうすることがあなたのためでもあるのに”
心の奥に潜む言葉。理性が紡ぐもうひとりの私。
一樹のことを本当に愛する私が告げる別れの勧告。
涼宮ハルヒ。一樹の心を捉える女の子。
彼女の前では良き先輩の仮面を私はかぶっている。
私とともに快楽を味わう一樹。涼宮ハルヒを前に、自分の気持ちを伝える事が出来ず、逡巡する一樹。
どちらも本当の一樹。仮面をかぶらない、一樹の姿。
”何故憎しみを彼に?”
”愛しているから。私のものだから”
矛盾した感情が私の中でぶつかり合う。
理性と欲望の戦い。そして勝つのは――
「さあ、急ぎましょう」
私は皆を促した。
最終更新:2013年08月04日 16:38