21-561「僕は怖くない(ゴキ)」

「うおっ、ゴキブリだ!」
「くくっ、キミはコオロギを見てもそんな風にして騒ぐのかい? よく見たまえ、そんなに変わらないじゃないか」
「全然違うだろ・・・いや、つーかお前、恐くないのか?」
「そんな、何かを期待していたような顔を向けられてもね、ハチやムカデのように実害があるわけでもないのに
恐がる理由がないだろう」
「こいつら菌を運んだりするんだろ? 十分害があるじゃねえか」
「汲み取り式の御不浄がほとんど姿を消した昨今では、それは科学的根拠のない俗信と言わざるを得ないね。
彼らの体は意外と清潔で、人体に有害な細菌のキャリアとするにはいささか以上に無理があるというものだ」
「でもな、パソコンの中に入ってショートさせたりもするって聞いたぞ?」
「それは確かに問題だけれど、いま僕らがいる家庭科室にパソコンが有るかい? どうも、人というのは何かしら
理由をつけてこの小さな虫を排斥せずにはいられない、本能めいたものを備えているようだね。昆虫が脅威だっ
た原始の頃の記憶がそうさせると考えれば興味深いが、なに、女性のテリトリーであるキッチンでの目撃例が
多いというのが大方の理由だろう。実にくだらない」
「くだらないって・・・お前な、女友達と一緒の時はフリでもいいから驚いた方がいいと思うぞ」
「そうやって付和雷同を決め込んで、不当に忌み嫌えというのかい? 僕がゴキブリ以上に嫌っているのは
まさにそういった主体なき拒絶だよ。まわりと多少言動が違うというだけで、人は容易に異物を排斥するものさ」
「いったい何の話だ?」
「これは失敬、私事が混ざってしまったね。ともかくそんなわけで、この教室に来た女子が大騒ぎをした挙句、
罪もない命を叩き潰す様を見るのは大いに不快というわけだ。だから、こうすることにしよう」

ぱしっ、すたすたすた・・・ぽいっ。

「さ・・・佐々木、お前・・・」
「キミにまでそんな顔をされると少し悲しくなるけど、でも安心したまえ、念のため手は洗って来よう。人の世には
守るべきルールがあるからね。意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい―――さ」
そう言って流しに向かう佐々木の背中は、どこか寂しそうに見えた。
でもな佐々木、やっぱり手は洗って正解だと思うぞ、その・・・人として。

「そうそう、ところでキョン」
石鹸を泡立てながら、佐々木が芝居がかった動作で振り向く。
「次の家庭科の授業で女子はクッキーを焼くことになっていてね、それで、よかったら僕が作った分をキミに試食
してもらいたいのだが、構わないだろうか?」
まるで、こちらを試すようないたずらっぽい輝きをたたえた瞳を前に、俺は引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
楽しそうな顔をしやがって、まったくやれやれだ。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2007年09月21日 03:49
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。