16期SDP国外体験学習

ヴァロア朝

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ヴァロア本家

カペー朝フィリップ3世の子、シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、1328年にカペー朝が断絶したため、シャルルの子フィリップが王位に登りヴァロア朝が始まった。ヴァロア朝初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成され始め、戦争の結果イギリスの領土はカレーを除いてフランスから駆逐された。 王権が弱体であったカペー朝に比べ、ヴァロア朝は国王権力の強化への階段を登り始めた。

支系

ヴァロア・オルレアン家 フィリップ4世に始まるヴァロワ本家は1498年にシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代のシャルル5世の子孫、オルレアン公シャルルの息子ルイがルイ12世として即位した。これをヴァロア・オルレアン家という。
ヴァロア・アングレーム家 ルイ12世も世継ぎがなく、やはりシャルル5世から出たアングレーム伯シャルルの息子フランソワを養子とした。これがヴァロワ・アングレーム家である。フランソワ1世からアンリ3世まで5代続いたが、同性愛好みのアンリ3世には子がなかったため断絶し、1589年ブルボン朝に変わった。

歴代国王

フィリップ6世
在位:1328年-1350年はヴァロア朝初代のフランス王。

フィリップ4世の直系血統が途絶えたのち、故シャルル4世の男系の従兄弟であることから、諸侯・高僧の会議で選ばれて即位した。すでに12年前ルイ10世死去の際、その娘はフランクの古法により王位から排除されていたので、フィリップの即位は全国民によって意義なく受け容れられた原則に基づくもの、と考えられた。フィリップ6世はルイ10世の娘ジャンヌに、女系を排除する「サリカ法」が厳格に適用されていないナヴァール王国を割譲した。1328年、3年前からの織布工の市民と農民の反乱に苦しんでいたフランドル伯に援助を求められて、8月23日カッセルで反乱軍に勝利する。翌年、フィリップとともにフランス王位候補者の一人だったエドワード3世が、ギュイエンヌに関してフィリップに臣従の宣誓をした。ところが1333年、エドワードから独立していたスコットランド王デーヴィッド・ブルースがフランスに亡命してきた際、フィリップがこれを歓迎したことが、エドワードにとって侮辱と感じられた。このことがエドワードのフランス王位要求を再燃させ、1337年に始まる英仏百年戦争を引き起こした。1340年6月23日、フィリップの艦隊はスライス(Sluys)の海戦でイギリスに敗れる。さらに1346年8月26日、クレシーの戦いでフランス軍は「いとも大いなる、且ついとも恐るべき」と歴史家ジャン・フロアサールに言わしめたほどの敗北を喫した。翌年カレーを占領され、経済は混乱した。塩の専売特権を制定してこれに対処したが、流れを押しとどめることはできなかった。

ジャン2世
在位:1350年 - 1364年は、フランス・ヴァロア朝の第2代国王。初代国王・フィリップ6世の子。善良王と呼ばれた

1350年、父・フィリップ6世の死により後を継いで即位した。当時のフランスはイギリスとの百年戦争の最中にあり、ジャン2世は父の遺志を継いでイギリスに対抗する。1355年、エドワード黒太子率いるイギリス軍がギエンヌに侵攻してくると、これに対抗しようと王太子のシャルル(のちのシャルル5世)と共に出陣し、翌1356年にポワティエにてイギリス軍と激突したが、ジャン2世は戦上手で知られた黒太子の敵ではなく、軍は大敗して自身は捕虜となる有様であった。

その後、フランスは王太子であるジャン2世の長子・シャルルが摂政として統治している。ジャン2世はエドワード黒太子から手厚い厚遇を受けたまま、1364年にロンドンにて虜囚のままで没した。後を摂政として国内を統治していた長子・シャルル5世が継いだ。

シャルル5世
在位:1364年 - 1380年はフランスヴァロワ朝第3代の王。賢明王(ル=サージュ)と呼ばれる。通称は税金の父。

百年戦争のさなか,ポワティエの戦い(1356年)に敗れた父王ジャン2世がイギリスに捕囚の身となったため,王太子のまま摂政として困難な国政を担当した。当時フランスは疲弊の極にあり,大諸侯,わけても反服常なき王族シャルル・ド・ナヴァールの画策に悩まされた。エティエンヌ・マルセル指導下のパリの反乱およびジャックリーの乱を鎮定(1358年)し、イギリスとブレティニーの和約(1360年)を結ぶことに成功した。

現在の税金の基礎となる定期的な臨時徴税(矛盾した表現であるが)を行ったり、常備軍を持つなど、後年の絶対王政のさきがけを成す。

軍事面では、名将ベルトラン・デュ・ゲクランを重用し、イギリスに奪われた国土を回復すべく行動を起こす。コッシュレルの戦い(1364年)で英軍を撃破し、着実に英軍を圧迫し、治世末には王国内のほぼ全土を奪回した。社会不安(傭兵の盗賊化による治安悪化)の原因であった傭兵隊をカスティリャ王国援助に誘導し、あわせて外交上の成功をおさめる。

シャルル6世
在位:1380年-1422年は、フランス・ヴァロア朝の第4代国王。第3代国王・シャルル5世の長男。親愛王、狂気王と呼ばれた

1380年、父のシャルル5世が食中毒で急死したため、王位を継承した。若年のため、はじめは重臣による補佐を受けたが、1388年から親政を開始する。しかし1392年、イギリス軍との戦いであるブルターニュ地方の戦いで敗戦したことがよほどのショックだったのか、発狂して精神異常者となってしまった。このため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、彼の叔父に当たるブルゴーニュ公のブルゴーニュ派と、彼の弟・オルレアン公を中心とするアルマニャック派にフランス内部が分裂し、お互いがフランスの主導権をめぐって争うことになったのである。

このようなフランスの状勢を見て、シェークスピアの史劇で有名なイギリス王・ヘンリー5世は、シャルル6世に近いアルマニャック派を支援しながら(ヘンリー5世の妻はシャルル6世の娘・カトリーヌ)、その裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして1415年、ヘンリー5世はシャルル6世に対して支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求してくる。あまりのことにシャルル6世を支持するアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイギリス軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー5世の勢いは凄まじく、フランス軍は各地で連戦連敗し、1420年4月、アルマニャック派は屈辱的なトロワ条約を締結することで和睦せざるを得なくなった。これにより、シャルル6世の死後は王太子のシャルル(のちのシャルル7世)が継ぐのではなく、ヘンリー5世が継承することなどが定められたのである。

晩年にはシャルル6世の王太子であった子のルイとジャンなどが1415年、1417年に相次いで没するなどの不幸もあった。1422年10月21日、8月に没した宿敵・ヘンリー5世の後を追うように病死した。

シャルル6世の治世は42年の長きにわたったが、精神異常者となったことでその統治のほとんどは家臣団やイギリスに左右される時代が長く続いたのであった。

シャルル7世
在位:1422年-1461年は、フランスのヴァロア朝の第5代国王。第4代国王・シャルル6世の五男。勝利王と呼ばれた

当時、フランスはイギリスとの百年戦争で連戦連敗を続け、領土はブールジュとその周辺を支配するにすぎなくなり、滅亡寸前の状態となっていた。シャルルには兄がいたが、王太子であったルイは1415年に、ジャンも1417年に死去したため、王太子となったのである。しかし1420年、時のイギリス王・ヘンリー5世と提携したシャルルの反対派であるブルゴーニュ派は、前年にノルマンディーを占領して勢いに乗るイギリス軍と連合してフランス軍をアザンクールの戦いで破り、トロワ条約を結んだのである。この条約は、シャルル7世の王位相続を否認し、シャルル6世の死後はヘンリー5世がフランス王位を継ぐというものであった(ヘンリー5世の妻はフランス王女(シャルル6世の娘)のカトリーヌだった)。

しかし1422年、ヘンリー5世はヴァンセンヌで急死してしまった。また、奇しくもシャルル6世も同年10月21日に死去し、フランス王位はヘンリー6世(母はフランス王女のカトリーヌ)がイギリス王位と兼任することとなった(ただし、正式にフランス王位を戴冠したのは1431年)。一方、シャルル7世もアルマニャック派の支持のもとでフランス王位を継承することを宣言したが、ブルゴーニュ派はこれを否認し、シャルル7世は正式にフランス王として即位することができなかったのである。

一方、イギリスはブルゴーニュ派と再び提携して、1428年にはアルマニャック派の拠点であったオルレアンを包囲した。ここを落とせば完全にフランスの息の根は止められるはずであったが、このとき奇跡の少女とも言えるジャンヌ・ダルクの活躍によってイギリス軍は大敗してオルレアンの包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。そして1429年7月17日、シャルル7世はこの勝利をもってランス大聖堂で正式にフランス王として戴冠式を受けたのである。

その後もジャンヌの活躍のもとでフランス軍は連戦連勝を続けたが、1430年5月のコンピエーニュの戦いでジャンヌは捕虜となり、翌年5月30日に火あぶりの刑に処された。しかしシャルル7世率いるフランス軍の勢いはとどまらず、1449年にはイギリスからルーアンを奪回し、1450年にはフォルミニイの戦いでイギリス軍を破ってノルマンディーを奪回した。そして1453年のカスチョンの戦いでギエンヌを奪回することで、北フランスにおけるイギリス領の大半を奪取すると共に、百年戦争に終止符を打ったのであった。

1456年には裁判を行ない、ジャンヌの名誉回復を行なっている。その後は百年戦争で荒廃した国内の復興に励み、財政の再建、官僚機構の整備、王国常備軍の創設などを行なった。しかし晩年は子のルイ11世と対立してそれに苦しみながら、1461年7月22日に死去した。享年59。一説には息子との争いで殺されることを恐れて食事を拒み、餓死したとも言われている。

愛妾殺人事件?
フランスの研究者が2004年秋に、シャルル7世の愛妾であり宮廷に影響力を振っていたアニエス・ソレルの遺骨等を調べたところ高濃度の水銀が検出されたことを発表した。当時は薬をして使われることが多かったが、薬にしては服用量が多すぎるため毒殺と判断された。

ソレルは、それまで男性にのみ使われていた宝石ダイヤモンドを女性としてはじめて身につけた人物である。

ルイ11世
在位:1461年 - 1483年は、フランス・ヴァロア朝の王(在位1461年 - 1483年)。

事績
シャルル7世とアンジュー家のマリーとの子として、ブールジュに生まれる。その敵たちには忌み嫌われてl'universelle aragne(遍在する蜘蛛)という奇妙なあだ名を付けられていた。その陰謀は父シャルルへも発揮され、何度も父王の退位をはかったが失敗した。1436年スコットランド王ジェームズ1世の娘、マーガレットと結婚する。この結婚によりルイはイギリス政治に関心を持つ。大陸での強敵ブルゴーニュ公国がバラ戦争ではヨーク家を支持していたため、対抗措置としてランカスター家出身の王ヘンリー6世を復帰させるべく策動した。マーガレットは王に顧みられなかったため、詩作に短い生涯を捧げた。彼女の死後1451年に、ルイは8歳のシャルロット・ド・サヴォアと政略結婚をくりかえす。

1461年の即位以来ルイは、近隣の大諸侯の権力を減殺するのに余念がなかった。ブルゴーニュ公シャルル(勇胆公)を相手に1467-77年の10年間は、権謀術数の限りをつくして戦った。敵地に軍隊を連れずに乗りこみ、ペロンヌ城で勇胆公シャルルと和議を進めながら、公の支配下にあるリエージュに反乱を起こさせようとして失敗し、かえってシャルルの捕虜になったこともある。ブルゴーニュ公の家臣であったが、ルイ11世に敬服し、後に彼の腹心となった年代記作者フィリップ・ド・コミーヌは、この間のルイの行動について冷静で率直な説明を提供している。ブルゴーニュが中心となった〈公益同盟〉とは3度戦闘をおこない、そのたびに王軍は圧倒されたにもかかわらず、スイス軍と同盟してグランソンとモラで勝利をおさめる。1467年のアラスの条約でブルゴーニュの大半を獲得し、さらにアンジュー、メーヌ、プロヴァンスなどを併せて、フランス王国の支配基盤を定めた。1472年に教皇ピウス2世とアンボワーズの協約を締結したことにより、フランス国王に国内の聖職禄授与の権利が認められ、その後のガリカニスム発展のきっかけとなる。

政治家として、個人としての性格
ルイ11世はシャルル7世の中央集権化政策を引き継ぎ、百年戦争後の荒廃したフランスを統一させるに最も成功した王である。その領土併合にあたって、戦争よりもおもに外交・政治的な陰謀を用いて国内平和を保ったことは注目に値する。ユーグ・カペー以来のフランス君主の〈分割して統治せよ〉という伝統政策に結びつけられた人とも言える。ルイ11世は印刷術の始まりを保護し、その寛大さから〈きわめてキリスト教的な国王〉という称号をローマ教会から勝ち得た。養蚕を南フランスで普及させ鉱山を開発するなど、賢明な産業政策をおこなう。   ブルゴーニュのシャルルに対するルイ11世は、封建制領主の典型と戦う近代君主と形容されることがある。たしかにルイはシャルルが体現する騎士道精神には、嘲弄と軽蔑しか示さなかった。しかし、厄日の慣習を真面目に守り、「神と聖母マリアの恩寵を他のいかなる君公よりも高い値段で買った」と同時代人に評されるほど聖遺物を崇拝する人でもあった。裏切りなどものともしなかったのに、聖ロウの十字架にかけて誓ってほしいと願われると「他のものへの誓いならいざ知らず、この十字架への誓いは許されぬ」と拒絶したこともある。トナカイや大鹿などの珍しい動物の蒐集に熱中し、カラブリアの隠者ポーラの聖フランソワさえ、ルイの蒐集癖の対象になった。ロレンツォ・デ・メディチと文通し、聖ゼノビウスの指輪のことや「スキティアの仔羊」と呼ばれる不思議な力を持つ植物について話を交わしている。科学に興味を持ち、胆石治療の実験に協力すると約束した死刑囚を許したこともある。しかし、彼自身は迷信深く占星術師に取り囲まれ、コミーヌのような人物さえ国王が誰からも愛されていなかったということをはっきりと《年代記Memoire》に書いている。『遺言詩集』でこの王に讃辞を贈っているフランソワ・ヴィヨン同様、現代人には理解困難な、しかし魅惑のある歴史人物なのだ。

シャルル8世
在位:1483年 - 1498年は、ヴァロワ朝第7代フランス王。温厚王と呼ばれた。イタリア戦争を始めたフランス王として知られる。

フランス王ルイ11世の一人息子として1470年アンボワーズ城で生まれ、1483年8月30日父王の死去により13歳で即位、アンヌ王女の摂政下に置かれた。1491年12月6日ブルターニュ公国の継承権を持つブルターニュのアンヌと政略結婚した。結婚以後自立するようになり、1494年、16世紀前半のヨーロッパ史上重大な影響を与えることになるイタリア戦争を開始した。ナポリ王国の継承権を主張してイタリア半島を南下したシャルルの率いるフランス軍はローマを経て1495年2月22日ナポリに入城し、シャルルはナポリ王に戴冠した。しかし、フランスのイタリア介入を嫌うヴェネチアやローマ教皇、ミラノ公らの同盟軍に包囲され、多大の損害を出してフランスに逃げ帰った。このイタリア遠征の失敗によってフランスは莫大な負債を抱えることになる。1498年うっかり鴨居に頭を打ちつける事故を起こし間もなく死亡した。後継者はいなかったため、シャルル5世の孫に当るオルレアン公がルイ12世として後継となった。

ルイ12世
在位:1498年 - 1515年は、ヴァロア朝第8代フランス王。シャルル5世の孫。

1462年シャルル5世の子であったオルレアン公シャルルの息子としてブロワ城で生まれ、王命によりルイ11世の娘ジャンヌと結婚した。後にシャルル8世に対する反乱に加担し、1487年から1490年まで投獄されたこともあるが、やがて王の信任を回復し、イタリア遠征に参加した。1498年シャルル8世が男系後継者なく急死すると、フランス王位に登った。

ルイ12世はブルターニュに対する野心から、ローマ教皇に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となったブルターニュのアンヌと結婚した。

シャルル8世が失敗したイタリア戦争も再開し、1500年にはミラノ公国を征服、さらにナポリ王国の分割にも一時は成功した。しかしナポリ王位を世襲してきたスペインのアラゴン家によってまもなくフランス軍は南イタリアから武力で追放される。またフランスのイタリア介入を嫌うローマ教皇は各国に呼びかけて神聖同盟を結成、1513年フランス軍はミラノから追い出された。

1514年王妃アンヌが死去すると、ルイ12世はイングランドのヘンリー8世の娘メアリー・チューダー(後のイングランド女王)と結婚したが、3ヶ月後に病死した。

フランソワ1世
在位:1515年 - 1547年は、ヴァロア朝第9代フランス王。アングレームのシャルルとサヴォワのルイーズとの間に生まれた。フランス最初のルネサンス君主と評される。人文主義者(ユマニスト)の教育を受け、即位後はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ロッソ・フィオレンティーノらの芸術家を保護し、ルネサンス様式の宮殿を建てた。1530年には、のちにコレージュ・ド・フランスとなるコレージュ・ド・ロワイヤルCollège de Royaleを設立し、ヘブライ語、古代ギリシア語、数学の研究を促進させた。

前王ルイ12世に世嗣がいなかったため大甥にあたるフランソワが国王に即位した。皇太子時代にルイ12世とアンヌ (ブルターニュ女公)との間に生まれたクロードと結婚してブルターニュ公となり、1532年ブルターニュ公国をフランスに併合した。この後、フランス皇太子は代々ブルターニュ公を名乗ることになる。

国内では権力を集中し絶対主義化を進める一方、対外的には神聖ローマ帝国・スペイン王のカール5世とイタリアを巡って争いを続けた。

2代前のフランス王シャルル8世(位1483~1498)が始めたイタリア戦争を継続し、1515年ミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放した。スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年-1519年) は翌年フランスへ移り、ルネサンス文化を伝えることになった。

1519年、神聖ローマ帝国の皇帝、マクシミリアンが死去すると、フランソワも後継者候補になるが、スペイン王カルロス1世(マクシミアンの孫)が皇帝選挙に勝利し、カール5世として即位する。フランスはハプスブルク家によってドイツ・スペインと周囲を囲まれてしまう。1521年~1544年にかけては、イタリアを巡ってカール5世と争う。1525年パヴィアの戦いでは前線で指揮を取るが、捕虜となってしまう。マドリッド条約を結び釈放されるや、条約は無効と宣言し、教皇クレメンス7世もこれを支持した。

カール5世に対抗するため、コニャック同盟で教皇らと結び、ドイツのプロテスタント諸侯(ルター派)を支援したり、異教徒であるオスマン帝国のスレイマン1世(位1520年-1566年) と秘かに結びつき、第一次ウィーン包囲をけしかけたりもしている。フランソワ自身はカトリックの信仰を持っており、国内ではプロテスタントを弾圧している。

また、ジャック・カルティエをカナダ植民に送り出し、フランス領カナダ(ケベック州)の基礎を築いている。

アンリ2世
在位:1547年 - 1559年は、ヴァロア朝第10代フランス王。父フランソワ1世。妻はメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシス。

父の対外積極政策を継承して、ハプスブルク家のカール5世・フェリペ2世父子と争ったが、既にハプスブルク家の優位は動かなかった。(イタリア戦争)1559年のカトー・カンブレジ条約でフランスはイタリアへの権利を放棄し、イタリア戦争は終結した。

1559年の馬上槍試合の最中、事故で死亡する。この事故をノストラダムスが予言していたとされる。 アンリ死後のフランスはカトリックとプロテスタントの抗争で内戦状態(1562年~、ユグノー戦争)になる。


フランソワ2世
在位:1559年-1560年は、ヴァロア朝第11代フランス王。父はアンリ2世。母はカトリーヌ・ド・メディシス。

長い間子供に恵まれなかったカトリーヌが授かったはじめの男子で、1545年父アンリが国王として即位しフランソワは王太子となる。1556年、フランソワはスコットランド女王メアリーと結婚。1559年、アンリ2世が不慮の事故で逝去。彼はフランソワ2世として即位し、王妃の外戚であるギーズ一族が実権を握り、プロテスタントを弾圧した。しかし王は生まれながらにしての病弱であった為、1560年逝去した。


シャルル9世(1560年 - 1574年)
アンリ3世(1574年 - 1589年)

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