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ハインツ・ハルメル
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ハインツ・ハルメルは第二次世界大戦中に活躍したドイツ軍人。武装SS(最終階級はSS少将 SS-Brigadeführer)。第10SS装甲師団"フルンツベルク"師団長など。
生誕
ハインツ・ハルメルは1906年6月29日、軍医の息子としてメッツに生まれた。父の影響もあり、軍人の道を歩むことを選んだハルメルは1926年5月に歩兵連隊"リューベック"に入隊する。しかし目の病のために予備役上等兵として早くも陸軍を去ることとなった。1928年からは農場で見習いとして働くも、直後に起こる世界恐慌の影響を受けてまたしても失業してしまう。職を失い困ったハルメルは社会・労働政策の一環として設立された「奉仕労働制度(Freiwilliger Arbeitsdienst)」に参加。その後、ハルメルは軍の予備兵力確保を目論んでクルト・フォン・シュライヒャー将軍が設立した組織「ドイツ青年鍛練管理局」の教官となった。この組織は予備兵力確保のため、青少年に予備的軍事訓練を行うというもので、不安定すぎる生活をしていたハルメルにとって、シュライヒャーの計画はありがたいものであった。さらにヒトラー率いるナチ党が政権をとってからは軍拡の時代である。1935年には再軍備が宣言され、ハルメルは再び陸軍へ戻るも、目の病気で一時退役していたこともあってか未だ予備役のままであった。
武装SSへの異動と叩き上げ将校
1935年10月、ハルメルはSS特務部隊(武装SSの前身である)に移籍。それ以降の彼は優秀な部隊長として頭角を表していくこととなる。小隊長講習に優秀な成績で合格して以降、昇進を重ねて1937年にはSS連隊"ドイッチュラント"の将校としてオーストリア併合に参加している。併合後、SS連隊"デア・フューラー(総統)"に移動しSS大尉にまで昇進した。フランス侵攻では戦功を挙げ、二級、一級鉄十字章を授与。1941年1月からはデア・フューラー連隊の第二大隊長に就任し、バルカン、バルバロッサ戦役に従軍、モスクワ戦、ルジェフ戦の戦功からドイツ黄金十字章を授与している。前線での勇猛な指揮で名を挙げたハルメルは1941年12月からSS連隊"ドイッチュラント"の連隊長に任命される。
第三次ハリコフ会戦
第三次ハリコフ会戦では攻勢を強めるソ連軍に対して、ハルメルは独断で夜間反撃を開始した。これによりソ連軍戦車隊は撃破された。この戦功からハルメルは騎士十字章を授与する。クルスク会戦に参加したのち負傷治療のため、連隊長を離れた。
性格
ハルメルは、常に部下とともに最前線にいた勇敢な指導者であったため、部下からは信頼されていたというぜ。武装SS師団写真史2 p101では「その傑出した戦闘指揮能力と人を魅了する飾らない性格は、すべての武装SS兵士の敬愛の的であった」と書かれているんだぜ。
第10SS装甲師団"フルンツベルク inノルマンディー戦線
ハルメルは師団長課程に参加し、負傷治療後の1944年4月27日、第10SS装甲師団"フルンツベルク"師団長を拝命、SS少将に昇進した。1944年6月12日、ハルメルの師団はノルマンディーへ急行することとなる。連合軍が上陸を成し遂げたからだ。しかし激しいヤーボの空襲に移動を阻害され、なかなか師団各部隊の集合が果たせない。それに彼の師団はノルマンディーへ向かう前に東部戦線でひと暴れしていこと、部隊編成が遅れていたこともあり、わりと深刻に消耗していた。定数1万7791名に対して4239名の人員が足りておらず、さらに戦車・突撃砲数に関しては悲惨なもので、ノルマンディー戦に参加した10個ドイツ装甲師団の中で群を抜いて数が少なかった。しかしハルメル師団はよく戦った。6月29日、カーン南西では第9、第12SS装甲師団とともに反撃を開始、要衝113高地を占領する。113高地ではこの後一ヶ月ほどにわたり英独の攻防戦が繰り広げられ、フルンツベルク師団は大損害を負う。この後も小規模な反撃を繰り返すが、実りはなかった。ヒトラー肝煎りの大反攻"リュティヒ作戦"にも参加するが、フルンツベルク師団の投入可能戦車は僅かに12両であり、ほかの師団も同様に消耗しきっていた。失敗は始まる前から明白だったのだ。しかし連合軍はまだまだ元気だった。攻勢が止まらない止まらない。遂にハルメルのフルンツベルク師団を含めた独4個軍団約8万人が包囲される。いわゆるファレーズ包囲である。包囲からの脱出は困難を極めたが、フルンツベルク師団の高射砲大隊最後の88mm高射砲の頑張りもあってなんとな脱出に成功する。ハルメルの師団ら消耗が激しかったので、アルンヘムにて再編成を行うことになった。
マーケットガーデン作戦
ところが再編成もなかなか上手くいかない。オランダ-ベルギー国境を守る第1降下猟兵軍は弱体であり、再編成中のフルンツベルク師団も部隊を分け与えなければならなかったのだ。そんな中、同じくアルンヘムにいた姉妹師団であり、"軍団"としてタッグを組んでいた第9SS装甲師団"ホーエンシュタウフェン"のドイツ本国行きが決まる。本格な再編成をするためだ。
これについてハルメルは違和感を覚えたらしく「いつも結局はホーエンシュタウフェン師団が楽な任務につくようだった」と発言している。そんな中、アルンヘムの橋を狙って空から降ってきた奴らが誰か分かるかな?そうだね、英軍だね。
もちろんホーエンシュタウフェンのドイツ帰還の話は目下の敵撃滅後となる。フルンツベルク師団は当初3500名程度しかいなかったが、近くの補充訓練部隊を続々と送り込まれたため増強され、なんやかんやあって飛んできた英軍を撃退することに成功した。師団長ハルメルはその戦功から剣付柏葉勲章を授与している。
これについてハルメルは違和感を覚えたらしく「いつも結局はホーエンシュタウフェン師団が楽な任務につくようだった」と発言している。そんな中、アルンヘムの橋を狙って空から降ってきた奴らが誰か分かるかな?そうだね、英軍だね。
もちろんホーエンシュタウフェンのドイツ帰還の話は目下の敵撃滅後となる。フルンツベルク師団は当初3500名程度しかいなかったが、近くの補充訓練部隊を続々と送り込まれたため増強され、なんやかんやあって飛んできた英軍を撃退することに成功した。師団長ハルメルはその戦功から剣付柏葉勲章を授与している。
国土防衛戦
その後、リニッヒ、オーバーライン、アルトダム橋頭堡戦と中々休むことなく師団は酷使され続けるが、大規模攻勢であるアルデンヌ攻勢、春の目覚め作戦に投入されなかったことは幸運であった。1945年3月25日時点で、定数の80%ほどを満たしており、戦車戦力もパンター47両、Ⅳ号戦車35両を主力とする強力なものであった。ちなみに同じ時期の第1、2、3、5SS師団の合計を合わせたよりも戦車戦力の数は上回ってた。しかし燃料が危機的に足らんのはやばいね(伏線)。フルンツベルク師団は今度は東部戦線バウツェン方面へ投入される。しかし燃料不足が仇となり総統随伴師団、第344歩兵師団とともに。ソ連軍に包囲された。そんな時(4月20日)、総統大本営から信じられない命令が届く「突破してベルリンを助けよ!」
3人の師団長は夜に激論を交わす。ハルメルと総統随伴師団長オットー=エルンスト・レーマーはベルリン方面はもはや絶望的で、燃料の問題を考えても西へ突破すべきと主張した。第334師団長ヨラッセは反対し、命令通りベルリン方面へ突破すべきと唱えたが、最終的にはハルメルとレーマーの意見が通り西への脱出が敢行された。脱出戦は困難を極めたが、フルンツベルク師団はソ連軍補給部隊を奇襲、大量の車両と燃料の鹵獲に成功したこともあり、なんとか逃げ切ることができた。
しかし総統命令へ叛いたことは、当時のドイツではヤバい危険なことである。ハルメルは師団長を解任され、軍法会議への出頭を命じられた。その道中でハルメルは思いがけない人物に出会う。「武装SSの父」とも称されるパウル・ハウサーSS大将だった。ハウサーはハルメルに対し「戦争はもうすぐ終わる。愚にもつかない軍法会議へ出向くより、君の家族が住むクラーゲンフルトへ帰って終戦を迎えた方がいい」と忠告した。
この忠告を受けいれハルメルはクラーゲンフルトに帰り、そこで終戦を終え………ないです。ハルメルの戦いはまだ続くんです。
3人の師団長は夜に激論を交わす。ハルメルと総統随伴師団長オットー=エルンスト・レーマーはベルリン方面はもはや絶望的で、燃料の問題を考えても西へ突破すべきと主張した。第334師団長ヨラッセは反対し、命令通りベルリン方面へ突破すべきと唱えたが、最終的にはハルメルとレーマーの意見が通り西への脱出が敢行された。脱出戦は困難を極めたが、フルンツベルク師団はソ連軍補給部隊を奇襲、大量の車両と燃料の鹵獲に成功したこともあり、なんとか逃げ切ることができた。
しかし総統命令へ叛いたことは、当時のドイツではヤバい危険なことである。ハルメルは師団長を解任され、軍法会議への出頭を命じられた。その道中でハルメルは思いがけない人物に出会う。「武装SSの父」とも称されるパウル・ハウサーSS大将だった。ハウサーはハルメルに対し「戦争はもうすぐ終わる。愚にもつかない軍法会議へ出向くより、君の家族が住むクラーゲンフルトへ帰って終戦を迎えた方がいい」と忠告した。
この忠告を受けいれハルメルはクラーゲンフルトに帰り、そこで終戦を終え………ないです。ハルメルの戦いはまだ続くんです。
避難民を救え!ハルメル最後の戦い
クラーゲンフルト(オーストリア)についたが、ここオーストリアにも危機が迫っていたのだ。ハルメルと旧知の仲であったオーストリア大管区指導者ライナーは、オーストリア国境地帯を防衛する責任者であったが、この任務は軍人ではないライナーには難しいものだった。そんな時に歴戦兵ハルメルがオーストリアへ帰ってきたのだから助けてもらうしかないよねえ。まずハルメルはSS補充部隊や第24武装山岳師団、コサック義勇軍団の残りカス、さらに海軍や警察部隊を統合し戦闘団"ハルメル"を形成。ハルメルはすぐに国道を封鎖。ここを出来るだけ長く守りきり、イタリアやユーゴスラビアから敗走するドイツ兵と避難民が無事に祖国へ帰れるようにするのがハルメルの役目である。英軍やパルチザンらと遅滞戦闘を繰り広げなんとか国道を守りきった。このハルメルの奮闘によりドイツ兵、民間人合わせて数千〜数万人がオーストリアへ避難することに成功したぜ。戦闘団"ハルメル"は戦い5月8日に英軍に降伏し、長い戦争は終わった。
戦後
ハルメルは武装SSであったが特に戦犯として問われるようなことはなく、1984年にはノルマンディーの街バイユーから「独仏和解勲章」を送らせているよ。さらにアルンヘムで死闘を繰り広げた英空挺部隊長のジョン・フロスト中佐とは戦後仲良くなったというよ。少なくとも連合軍側からは悪く思われてはいなかったようだね。和解勲章とかパイパーとかマイヤーだったら有り得ないし。2000年9月2日、ハルメルはその生涯に幕を下ろすよ。叩き上げSS将校の人生は血湧き肉躍るもので面白いよね。
あとハルメルの写真の加え方わからなかったので、ググってください。カッコいい顔したSS将校です。
参考文献
高橋慶史 「武装SS師団写真史2 遠すぎた橋」大日本絵画
高橋慶史 「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」大日本絵画
大木毅 「第二次世界大戦の分岐点」作品社
Gordon Williamson 「German Commanders
of World War II (2) Waffen-SS, Luftwaffe & Navy」
黒川康 「ドイツ国防軍と「レーム事件」 一第一次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察一」
あとハルメルの写真の加え方わからなかったので、ググってください。カッコいい顔したSS将校です。
参考文献
高橋慶史 「武装SS師団写真史2 遠すぎた橋」大日本絵画
高橋慶史 「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」大日本絵画
大木毅 「第二次世界大戦の分岐点」作品社
Gordon Williamson 「German Commanders
of World War II (2) Waffen-SS, Luftwaffe & Navy」
黒川康 「ドイツ国防軍と「レーム事件」 一第一次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察一」