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アドリアン・バロン・フォン・フェルカーザム
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生誕と入隊
アドリアン・バロン・フォン・フェルカーザムは1914年12月20日、バルト系ドイツ貴族の名家の子としてロシア帝国のペトログラードで生まれた。ロシア革命勃発後にはラトヴィアの首都リガに移り、高校卒業後はドイツへ行きミュンヘン大学、ケーニヒスベルク大学で経済学を学ぶ。その頃のドイツはヒトラー率いるナチ党が政権を奪い取った時期であり、フェルカーザムもその影響を受けて突撃隊に入隊、国民社会主義運動という時代のうねりに乗ることとなった。第二次世界大戦勃発後は、特殊作戦を専門として扱う第800特別編成建設教導大隊、通称"ブランデンブルク部隊"に志願し、バルバロッサ作戦に従軍。
ブランデンブルク部隊 コーカサスを混乱に導け!
フェルカーザムのバルバロッサ中の活躍については「ずば抜けた能力を発揮した」としか資料に書かれていないので、具体的に何をやっていたかは分からない。だがバルバロッサにおいてブランデンブルク部隊は主にソ連軍服を着て後方の破壊活動や橋の奪取などに従事していたので、フェルカーザムもそれらの作戦に参加したと考えられるよ。フェルカーザムが特殊作戦の名手として一躍名を知らしめたのは、1942年6月から始まったコーカサス侵攻に参加した時のことだよ。フェルカーザム少尉はコーカサスの要衝マヌィチ河水門の制圧に乗り出す。フェルカーザムは当たり前のようにソ連の軍服を着た特殊部隊を率いてトラックで水門へと向かう。しかしソ連軍将校二人に発見されてしまい、怪しまれて尋問を受ける羽目に。ロシアで育ったフェルカーザムはソ連将校の尋問にもすらすらと答えたが、彼が率いる兵の中にはロシア語が出来ない者もいる。しかしソ連将校はロシア語ができない兵にも尋問を始める。フェルカーザムは必死に誤魔化す「その兵はアルメニア人でロシア語はできない」と。するとソ連軍将校はアルメニア語で尋問を始めた。嘘がバレてソ連軍将校は発砲しドイツ側の将校と兵4名が死亡。フェルカーザム隊も応射しソ連軍の将校二人を殺害し、その勢いで一気に水門所へ駆け抜け制圧。次の日には水門はドイツ軍の手に落ちた。コーカサスでのフェルカーザムの活躍はこれだけではない。続いてフェルカーザムはマイコープ地区における油田施設の状況を探るため、NKVDの軍服を着用した62名の特殊部隊を編成した。水門の時にバレた反省からか今回は隊員全員がロシア語を流暢に話せるバルト系ドイツ人だった。フェルカーザムはNKVD少佐トゥルーヒンを偽り、偽造身分証、命令書、軍務書類、家族からの手紙などでバッチリと細工をしてマイコープへと向かう。ところが道端で本物のNKVDに出会う。疑われると思いきや仲間だと思われて本部まで連れて行かれる。本部でフェルカーザムたちは歓迎され、マイコープの防衛部隊や施設の視察を許される。思わぬ幸運に恵まれたフェルカーザムらは一週間に渡る情報収集ののちに、マイコープへと迫っていたドイツ軍侵攻部隊の先鋒、第13装甲師団に陣地座標を伝えた。これによりマイコープのソ連軍陣地は長距離砲撃で粉砕される。その後マイコープで独ソの銃撃戦が始まると、フェルカーザム隊は混乱に乗じて破壊・欺瞞行動を開始。通信施設を爆破し無線機能を潰す。さらに電話交換局を占拠し偽情報を垂れ流す「マイコープを守るソ連軍部隊は直ちに総撤退を開始せよ()」これに騙されソ連の一個師団が撤退したよ。その後フェルカーザムは油田施設に兵を派遣。もちろんこれもソ連兵に化けたもので敵の油田破壊を防ぐため偽の「破壊中止命令」を伝えるもの。この活躍によりマイコープの市街は大混乱に陥り、大した抵抗もすることなく第13装甲師団に占領された。フェルカーザムは悠々と帰還し、マイコープ占領の貢献者として騎士十字章を授与した。
武装SSへ スコルツェニーとの出会い
しかしもはやブランデンブルクが特殊作戦をする時代は終わりを迎えていた。フェルカーザムの所属するブランデンブルク部隊が師団規模へと拡張されたのだ。これによりブランデンブルクは特殊部隊というよりも野戦師団のような扱いを受けるようになってしまい、特殊作戦も行われなくなった。しかしこの時期SS(親衛隊)では特殊作戦が旬だったよ。SS特殊部隊の長オットー・スコルツェニーはハリウッド映画ばりのムッソリーニ救出劇(神話)などで名声を強めていて、この時期に一番旬な特殊作戦おじさんだったが、SS特殊部隊は深刻な人手不足だったため募兵をしていた。フェルカーザムは野戦部隊と化したブランデンブルクに留まるつもりはなく、得意な特殊作戦に参加するのとができるこの募兵に食いつき、SS特殊部隊へと転属した。スコルツェニーは当初、フェルカーザムを「ユンカー階級は傲慢」という偏見じみた目で見ていたが、すぐに彼を認め重宝するようになる。スコルツェニーの伝記に依ると、スコルツェニーは気が短く大それたことを考える男であったのに対し、フェルカーザムは思慮深く、現実的であったというよ。これはスコルツェニーの弱点をカバーするものであり、フェルカーザムはスコルツェニーの副官兼参謀という地位に就き、以後右腕として活躍することとなる。
SS駆逐戦隊群参謀長
そのちょっと後の1944年7月20日、軍将校らによるヒトラー暗殺未遂が起こる。その結果、国防軍が持つ全ての特殊部隊はスコルツェニーのSS特殊部隊へ編入されることになった。これは特殊部隊を統括していた国防軍防諜部が反ヒトラー派の巣窟であったための処置だよ。スコルツェニーは膨れ上がった人員を統括するために新たに"SS駆逐戦隊群"なる部隊を創設。手元にある人員を5つの戦隊に再編成しスコルツェニーを支える参謀長として改めてフェルカーザムが就任することとなった。こうして出来たスコルツェニーとフェルカーザムの「SS駆逐戦隊群」はあらゆる特殊作戦を行った。ハンガリー摂政ホルティの拘束とハンガリー政府中枢の電撃占領を目的とするパンツァーファウスト作戦。後方に取り残された敗残兵への支援作戦。山岳部に取り残されたウクライナ義勇兵たちのゲリラ戦の支援。などなど。
グライフ作戦
アルデンヌ攻勢の支援として米兵に化けて後方の橋を奪取するグライフ作戦は、フェルカーザム自身が前線で部隊を指揮し戦っている。グライフ作戦は初めこそ先発の部隊が後方へ浸透し流言飛語を拡散。一時的に敵戦線後方を大混乱に陥れこそしたものの、本隊である3つの戦闘団X、Y、Zは主力の戦車部隊の大渋滞に巻き込まれて先へ進むことができなかった。そのため特殊作戦は失敗に終わり、戦闘団は通常部隊として投入されることになった。そのうちフェルカーザムが率いる戦闘団Zは米戦車に擬装したパンターを先頭に要衝マルメディへ進撃するも、地雷によりパンターが死去。その後、米砲兵大隊の大砲撃を食らい攻撃は頓挫。部隊は大損害。フェルカーザムも臀部に榴散弾を食らい負傷。そのためスコルツェニーの命令により撤退することとなった。
SS駆逐戦隊オストと戦死
1945年1月、フェルカーザムは最後の戦いに赴くことになる。どうやらフェルカーザムはこの頃には参謀長の仕事に飽きていたようだ。それにソ連軍が彼の妻と娘が暮らしているポーゼンに迫っていたことを心配した。そのため東部戦線で地上部隊を指揮することをスコルツェニーに希望する。スコルツェニーは渋々ながらフェルカーザムの求めに応じ800名程度のSS駆逐戦隊"オスト"の指揮官に任じた。フェルカーザムはソ連軍の攻撃に晒されていたホーエンザルツァへ急行、防衛戦に参加した。しかし、すぐに街はソ連軍の包囲下に置かれた。ソ連軍の総攻撃により"オスト"は瞬く間に粉砕され、フェルカーザムは1945年1月22日、部隊の残りカスを率いて脱出戦を指揮していたところ、狙撃により頭部を撃ち抜かれ戦死を遂げた。フェルカーザムは死後、特進でSS少佐に昇進し陸軍名鑑章を送られた。ちなみにポーゼンの彼の家族はスコルツェニーがバッチリ保護している。フェルカーザムの死はドイツ特殊作戦の終わりを示すものだった。フェルカーザムの部隊が本来すべき特殊作戦ではなく防衛戦に投入されたこと、そしてこの直後に駆逐戦隊群の司令官スコルツェニーが前線橋頭堡の防衛のために駆り出されていることは、もはやドイツが大胆な特殊作戦を必要としておらず、それよりも前線の穴を埋める人員を欲していたという絶望的な現実を感じざるを得ないよ。
最後に
大胆な特殊作戦を指揮し、その内向的かつ几帳面な性格から変わり者であるスコルツェニーとも相性良くコンビを組むことができた知られざる軍人の経歴。いかがでしたでしょうか?ちなみにフェルカーザムの後任としてスコルツェニーの参謀長となったヴィルヘルム・ヴァルターはスコルツェニーを軽蔑していて、よい仲を築くことはできなかったというよ。スコルツェニーは戦後フェルカーザムについて「フェルカーザムは、私の最良の同志であり、最も忠実な相棒であった」と述べている。終わりです。
参考文献
参考文献
- 高橋慶史 「ラスト・オブ・カンプフグルッペⅤ」
- 高橋慶史 「ラスト・オブ・カンプフグルッペⅧ」
- https://military-history.fandom.com/wiki/Adrian_von_Fölkersam
- STUART SMITH 「OTTO SKORZENY THE DEVIL'S DISCIPLE」