*装備品について -母衣(ほろ) 河尻秀隆、金森長近、佐々成政らが背負っている、膨らんだエアバッグみたいなもののこと。 かつては敵陣に使者として赴く武者が、使者のしるしとして身に着けていた。 母衣を着た者に矢を射てはならないという暗黙の了解があったものの、 背後の味方からの流れ矢が飛んでくるのは防ぎきれないためにこのような形状になったという。 戦国時代になってからは母衣に色を塗って部隊の識別などに使われ、特に織田家ではエリート部隊が色別の母衣を背負っていた。 イラストやCGモデルもしっかり母衣が再現されている。 -赤備え 全身に赤い武具を纏った兵、またはそのような兵装で統一された部隊。 赤色の染料は当時高級な物であり、朱色の具足を付けた武者は戦場で特に目立つことから精強な兵士と認識されていたという。 何故高級であったかと言うと、具足や兜の色を染める朱漆はほとんど海外からの輸入に頼っていたためである。 話は逸れてしまうが、そう考えると主に山間部を所領に持っていた武田軍が全身を朱漆で染めた赤備えを率いていたとは考えにくい。 恐らく胴だけ朱とか、兜だけ朱とか、一部分だけを朱にしたのではないか。と言う説も出ている。 元々は飯富虎昌が赤い武具を纏った兵のみで騎馬隊を編成した事から始まり、彼や実弟の山県昌景らが赤備えを率いて活躍した。 その活躍ぶりから「赤い武具の兵=精鋭」という認識が広がり、「武田の赤備え」として諸大名から恐れられるようになった。 この「赤い武具の兵=精鋭」という認識は後の武将にも引き継がれ、武田家滅亡後に徳川家臣・井伊直政の元に山県昌景他武田遺臣の隊が編入されると、 井伊直政は武田の赤備えに肖って自らの部隊を赤備え隊として編成したという。 また、真田幸隆の孫である真田信繁(幸村)も、大坂の陣で赤備えを編成している。 飯富虎昌、山県昌景らの台詞から「敵の血に染まった武具=赤備え」と誤解されやすいが、これは間違い。 武田家は赤備えだけでなく、五行説を取り入れた五色備えもあったと言う。 五行説は青、紅、黄、白、玄(黒)で成り立っている。 朱を山県・飯富が率い、高坂昌信が黄、馬場信春が白、武田信繁が黒を率いていたらしいが、恐らく俗説である。 ちなみに五色備えについては後北条氏の方が有名で、担当武将は北条綱高(赤)、笠原康勝(白)、多目元忠(黒)、富永直勝(青)、北条綱成(黄)。 ----