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武将たちの二つ名について


織田家

  • 「掛かれ柴田」「退き佐久間」「米五郎左」「木綿藤吉」
「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という、織田家家臣の活躍を讃えた小歌が元である。
掛かれ柴田:その突進力から先鋒としての活躍が目覚しく、武勇・武略に秀でていたことから
退き佐久間:殿軍の指揮を誰よりも得意としたことから
米五郎左:何事もそつなくこなし、米のように毎日の生活に欠かせない存在ということから
木綿藤吉:木綿のように丈夫で使い勝手が良いことから
ちなみに戦国大戦でも佐久間信盛・丹羽秀長・羽柴秀吉はそれぞれ「退き佐久間」「米五郎左」「木綿藤吉」の二つ名を持っているが、
柴田勝家のみ「鬼柴田」の二つ名であり、計略名が敵陣に向けて突撃していく陣形である「掛かれ柴田」となっている。

  • 「美濃三人衆」
安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の二つ名で「西美濃三人衆」とも呼ばれる。
斎藤家臣時代からあだ名されていた模様で、この時から斎藤家で重要な役を占めていたことが分かる。
何故この様に呼ばれているのかと言うと、三将が連名されている書状が残されているためである。
織田家時代は長島一向一揆で氏家卜全が戦死し、子の行広が継承。
1580年に安藤守就が織田家臣から追放されたため、美濃三人衆は事実上解散となった。

本能寺の変後は旧領回復のために安藤守就らが蜂起するが、
かつての同僚である稲葉一鉄が鎮圧し、安藤一族を処刑することとなってしまった。

  • 「乱世の魔王」「第六天魔王」
宣教師ルイス・フロイスによれば、信長は「第六天魔王」を自称していたという。
また、信長が武田信玄に当てた手紙でもこの名を称している。
第六天とは仏教の概念である六道の一つ、天道における下位の世界・六欲天の最上位にあたる所。
ここの支配者が第六天魔王であり、ヒンドゥー教における破壊神シヴァのことだという。

  • 「今孔明」
竹中半兵衛(重治)を指す。「諸葛孔明の再来」として、その知略を讃えた異名。
諸葛亮(字は孔明)は中国・三国時代の大軍師として知られ、知名度では中国史でも屈指の人物である。
知謀を武器にする将にとり、彼になぞられられることはこの上ない名誉であったと考えられる。

  • 「織田五大将」
織田信長の天下統一事業に貢献し、信長の晩年には各方面の司令官を務めていた5人の武将のこと。
明智光秀の他は柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉の4人である。
また、このうち羽柴秀吉を除いた4人を「織田四天王」と呼ぶこともある。

  • 「麒麟児」
若くして優れた才能を発揮した人物に対する呼称。
戦国時代で麒麟児と呼ばれた武将は、蒲生氏郷の他に尼子家の山中鹿之介などがいる。
麒麟とは獣の長とされる神獣で、四神(玄武、白虎、青龍、朱雀)の上位として中央を司る守護神とされることもある。

  • 「一段の傑物」
多聞院日記における、津田信澄を評価した言葉。
その一方でキリスト教勢力からは嫌われており、耶蘇年報では「勇猛だが残酷」と評している。

武田家

  • 「武田二十四将」
武田信玄に仕えた武将のうち、特に評価の高いとされる武将達の総称。
しかしこれは、絵画や浮世絵の題材として「武田二十四将図」が江戸時代に広まったもので、戦国時代に実在した呼称ではない。
そのため、活躍時期に隔たりのある甘利虎泰・板垣信方らと山県昌景・小山田信茂らが並んでいる。
異説も多く、諸角虎定が入っていたり、小山田信茂が入っていなかったりするものもある。
Ver2.0でようやく真田信綱が追加されて全員揃った。
また、SS秋山信友のカード裏テキストにある「武田二十四騎士」はこれとキン肉マン本編に登場する「悪魔六騎士」(ちなみにこれにはバッファローマン≒SS秋山信友は含まれていない)を踏まえた上での一種のパロディーであると思われる。

  • 「武田四名臣」
戦国期の武田家を支えた部将のうち、特に賞賛された四人の名将を指す言葉。
別名を「武田四天王」といい、馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景のことを指す。
四人はそれぞれ甲斐や信濃の名家の名籍を継いでいる。重臣としては出自が低かった故の政治的対応だと考えられている。
昌信を除いた3人が長篠の戦いで戦死、昌信もその3年後に病死してしまった為、武田は衰退の一途をたどる事となってしまった。
戦国大戦ではこのうち三人が「武田四名臣」の二つ名を持ってカード化されている(R馬場信春・R山県昌景・R高坂昌信)。
残る昌豊が「武田四名臣」の二つ名でカード化されることが期待される。

上杉家

  • 「上杉二十五将」
上杉謙信に仕えた武将の内で、特に評価の高い25名を選出したものといわれる。
しかしこれも後世に名を集められたもので「武田二十四将」同様戦国時代に実在した呼称ではない。

  • 「血染めの感状」
第四次川中島の戦いが終わった後、上杉謙信(当時は政虎)が功績のあった武将に与えたという感状。
感状そのものが血に染まっていたのではなく、この合戦で死んだ一族郎党の代償として与えた感状という意味である。
この感状を受け取ったのは以下の7人である。(太字はVer1.1Xでカード化されている武将)
色部勝長安田長秀中条藤資垂水源二郎(荒川長実)、本田右近允、松本忠繁、岡田但馬
そもそも感状とは、主君が家臣の忠義や武雄を称賛した際に贈られる直筆の書状である。
感状は武士の力量の証明とされ、経歴を証明する貴重な手段であったために再士官の際などに特に重要視された。
(そのため徳川家に生涯忠誠を誓った鳥居元忠などは感状を受け取らなかったとされる)

今川家

  • 「海道一の弓取り」
「海道」とはいわゆる東海道の事であり、現在の千葉・茨城から太平洋沿いに三重辺りまでの各国を指す。
「弓取り」とは弓の名手・・・と言う事ではなく、実際の兵種についての弓足軽の項にもある通り
当時の戦争の主力が弓の射ち合いであった事から、転じて大まかに「武家」・「武将」などの意味である。
つまり海道一の弓取りとは「海道に勢力を持つ、随一の武士(武家)」と言う意味であり、
海道に勢力をもつ武家(今川家・北畠家・織田家・松平家・里見家・北条家・佐竹家など)の中では
1560年当時、正に最強勢力であった今川家、ひいては当主の今川義元その人を指す。
現バージョンでは今川家最大の版図を築いた今川義元のみに与えられた二つ名であるが、
後に今川氏真の領土を併呑し、三河・遠江を安定して治めた徳川家康もいつしかこう呼ばれるようになる。
SR今川義元・SR松平元康の兵種が揃って弓足軽であることも、この二つ名と決して無関係ではないと思われる。

  • 「紫衣の宰相」
紫衣(しえ)と言うのは文字通り紫色をした法衣、袈裟のことで、高位の僧侶が朝廷から賜ることで着用を許されるもの。
太原雪斎も妙心寺に移った後に紫衣を賜っている。
雪斎は梅岳承芳が還俗して今川義元を名乗ると、彼の参謀として政治に関わったことから「紫衣の宰相」と呼ばれている。
尚、着用を許されていない僧侶が着ていた黒色の袈裟は「黒衣(こくえ)」と呼ばれており、
徳川幕府に仕えて政治に携わった僧侶である金地院崇伝、南光坊天海などが「黒衣の宰相」と呼ばれている。

浅井朝倉家

  • 「海赤雨三将」
浅井家三代に仕えた海北綱親、赤尾清綱、雨森弥兵衛のことを指す。
三人とも浅井家を初代から滅亡する時まで長年、支えた。
ただ、滅亡した勢力の為か三人がどのように活躍したかを伝える史料はあまり現存していない。

  • 「浅井三姉妹」
浅井長政とお市の間に生まれた茶々、初、江の三人姉妹のこと。
浅井家滅亡の後は母と共に信長の元に預けられたが本能寺の変以降から
三姉妹の運命は戦乱の世に巻き込まれていくことになる。
その数奇な生涯は戦国を題材にした作品によく取り上げられている。

  • 「姉川十一段崩し」
姉川の戦いにおける磯野員昌の活躍のこと。
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で勃発した姉川の戦いにおいて
浅井軍の先鋒・磯野員昌率いる精鋭部隊は織田軍先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉、
柴田勝家の陣を打ち破り織田軍の敷いた十三段の陣を十一段まで打ち破る活躍を見せた。
その活躍ぶりは「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの潜きして息つぎあへぬ風情なり」と語り継がれている。
しかしその攻勢も森可成率いる部隊に止められた上、織田軍の後詰である稲葉一鉄、安藤守就、氏家ト全の部隊が援軍に駆けつけたことで
磯野の突撃も信長の首には届かなかった。
こう伝えられる磯野の活躍だが、元禄時代の浅井三代記が初出であるため、疑問視する説もある。
ちなみに信長公記、三河物語、当代記などには記述が見られない。

本願寺

  • 「救世済民」
四字熟語である。読みは「きゅうせいさいみん」。
「救世」とは特に宗教の力で悪い世の中、この世の苦しみを良い方へと導くこと。
「済民」は人民の難儀を救うこと。(「済」も「救」と同じく救助する意)
両方を合わせ、世の中を救い、人々を苦しみから助けることを意味する。
この言葉が一向宗や本願寺派の教義として特に用いられている・・・と言う訳ではないが、
一向宗≒浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、95日間の苦行の後に「救世観音」から夢のお告げを得られ、
後に浄土真宗を開くきっかけとなった事が伝えられている。

北条家

  • 「御由緒六家」
北条早雲とともに京から駿河へ下向した大道寺太郎・多目権平衛・荒木兵庫・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛の6人を祖とする一族。
彼らと早雲の7人は「この中の誰かが大名になったら、家臣としてそいつを支えよう」と誓い合っていた。
果たして早雲が大名になると、彼らは代々重臣として仕え、御北条家を支えていった。
尚、これに松田家を加えた七家を御由緒家とする説もある。

毛利

  • 「毛利三本の矢」「毛利四本目の矢」
毛利元就が臨終の際に三人の子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。
息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し三兄弟の結束を強く訴えかけた。

有名な逸話だが、創作である(元就より先に亡くなった隆元が、元就の臨終に立ち会うはずがないため)。
この逸話ができた大本は、元就が三兄弟に宛てて書いた「三子教訓状」という長い手紙であり、
同手紙の中では兄弟の結束、分裂の危険性、仲違いする息子たちへの父の心配が強く訴えられている。

「毛利四本目の矢」は、四男元清を、上記の「毛利三本の矢」に続くようにつけた二つ名だと思われる。
元就は正室の子供である隆元・元春・隆景までの三人と、それ以降の男児とを明確に分け隔てて扱っている。
前述の「三子教訓状」には、「(側室の子供たちが)もし出来が悪いようだったら、どのような処遇を受けても構わない」とさえ書かれている。
しかし、彼らも三兄弟同様に出来が良かったようで、それぞれ名将・良将と読んで差し支えない事績を残している(夭折した六男を除く)。

  • 「毛利十八将」
毛利元就に仕えた武将のうち、特に評価の高い18人に対する呼称。
「武田二十四将」「上杉二十五将」と同じく、後世に付けられた呼称である。

島津家

  • 「三州総大将」「勇武英略」「島津の知慧」「軍法戦術の極み」
島津貴久の四人の息子を、彼の父・島津日新斎がそれぞれ評した言葉に端を発した二つ名。
「三州」は島津氏が守護職にあった薩摩、大隅、日向の三国のこと。この三州の統一は島津家の宿願であった。
次男義弘のみは「鬼島津」の二つ名を取り、「勇武英略」は計略として所持している。

豊臣家

  • 「賤ヶ岳七本槍」
賤ヶ岳の戦いで秀吉より感状を与えられた、以下に挙げる7人の武将のこと。
福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元
実際はこの他に桜井佐吉、石川兵助の二人も感状をもらっているが、桜井は関ヶ原の前に病死、石川はこの戦いで戦死しているため、七本槍には数えられていないという。

  • 「北政所」
現在では豊臣秀吉の正室・ねねの代名詞となっている称号。
元々は三位以上の貴族の正室のことであったが、時代が下がるにつれて格式化され、摂政・関白の正室に対して朝廷からの宣旨をもって贈られる称号となった。
しかし摂政・関白の位を指定に譲った人物を指す「太閤」が秀吉の代名詞になると、北政所も専らねねを指す代名詞となっていった。
また、本来は摂政・関白の母を指す言葉である「大政所」も、現在では秀吉の母・なかの代名詞となっている。

  • 「天下の三陪臣」
上杉景勝配下の直江兼続、毛利輝元配下の小早川隆景、堀秀政配下の堀直政の3人を指す。
景勝、輝元、秀政が秀吉の直臣であり、秀吉にとって陪臣に当たる彼ら3人が天下人としての役割も務まると評され、
『名将言行録』にて「陪臣にして、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも、仕兼間敷(しかねまじき)ものなりと、称誉せられけり」との記述がある。

  • 「豊臣五奉行」
豊臣政権末期に政務を担った浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5人を指す。
浅野が行政、石田が司法、増田が土木、長束が財政、前田が宗教についてそれぞれ担当していたという。
ただし業務が特殊な前田玄以は別格扱いとして大谷吉継を五奉行に含める説があったり、豊臣秀次の切腹に際して浅野が失脚した時期があるなど、人の出入りが無かったわけではない。

  • 「関白」
天皇の代理人として政治を行う役職。公家の最高位ではあるが、令外官(律令制度の規定にない官位)である。
初代・藤原基経以来藤原氏のみが就いてきた役職で、鎌倉時代に入るとその中でも嫡流の頂点とされる五摂家が独占した。
しかし1585年に豊臣秀吉が関白に就いたことで、この独占体制が崩れることとなる。
江戸時代に入ると再び五摂家の独占となるが、1868年に王政復古の大号令で廃止される。

  • 「利休七哲」
茶聖・千利休の高弟7人を指す呼称。表千家第4代・江岑宗左の著書『江岑夏書』などに記述があり、この書物では以下の人物が挙げられている。
蒲生氏郷、高山右近(重友)、細川三斎(忠興)、柴山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部
上記の通り有楽斎は七哲には含まれないが千道安、荒木道薫(村重)とともに十哲には数えられている。
また、蒲生氏郷、柴山監物、細川忠興の3人を指して「利休門三人衆」とも呼ばれるが、これらは全て後世になって付けられた呼称である。

  • 「金吾中納言」
文禄元年(1592年)、権中納言に叙任した小早川秀秋の通称。
「金吾」とは兼任していた左衛門督の唐名。中納言に就いていた者が秀秋以外にもいたため、区別のためこう呼ばれた。
また、当時は丹波亀山城を拠点としていたことから「丹波中納言」とも呼ばれていたという。

伊達家

  • 「奥州の独眼竜」
奥州こと陸奥国に割拠した大名・伊達政宗の異名。
元々独眼竜とは、中国の唐代末期における隻眼の武将・李克用の異名であった。
後世において、隻眼であった伊達政宗の異名ともなったというのが通説だが、生前から政宗が自身を李克用になぞらえていたという説も存在する。

  • 「伊達三傑」
伊達政宗に使えた武将のうち、特に功績の大きかった片倉小十郎、伊達成実、鬼庭綱元の3人を指す。
実は成実、綱元の二人は政宗に仕え続けていたわけではなく、出奔していた時期がある。

徳川家

  • 「徳川四天王」「徳川三傑」
徳川家康の側近として、江戸幕府の成立に貢献した酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人を指す。
忠次のみ1世代上の人物であるため、忠勝、康政、直政の3人で「徳川三傑」と呼ぶ場合もある。
4人全員、後述する徳川十六神将にも含まれている。

  • 「徳川十六神将」
徳川家康に使えた武将のうち、江戸幕府の成立に特に貢献したとされる武将たちの総称。
16人という数字は、仏教における四天王、十二神将の二つを合わせた値だとされている。
また、日光東照宮に祀られている「徳川二十八神将」というものもある。

  • 「仏高力」「鬼作左」
徳川家康が三河を治めていた当時、高力清長、本多重次、天野康景(Ver2.1では未登場)の3人が奉行を務めており、
「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」と評されていた。
高力清長は寛大、本多重次は厳格、天野康景は慎重な人物だったという。
彼ら3人を指して「三河三奉行」とも呼ぶ。

長宗我部家


真田家

  • 「真田十勇士」
真田幸村に仕えたという10人の家臣。十勇士という名称は大正時代に刊行された立川文庫で使われたものである。
それ以前では江戸時代・元禄期に書かれた小説『真田三代記』などで原型となる人物が登場している。
基本的に架空の人物とされるが、猿飛佐助は伊賀忍者の上月佐助、三好清海・伊三は美濃三人衆の一人・三好政康とその弟である政勝、
根津甚八は浅井長政の子・浅井井頼などモデルとなった実在の人物は存在するようだ。

他家

  • 「諏訪大社大祝」
諏訪頼重の二つ名で、「大祝」の読みは「おおほうり」。
計略とも関係が無いためカードのどこにも読み仮名がなく、おそらく戦国大戦に登場する二つ名では屈指の読み難さだろう。
大祝とは諏訪明神の化身、現人神として諏訪大社の頂点に位置していた役職である。
頼重の死後は従兄弟の諏訪頼忠が大祝職を継いでおり、近年まで続いていたが平成14年に断絶している。

  • 「乱世の梟雄」
「梟雄」は「きょうゆう」と読む。戦国大戦以前から知られている松永久秀の二つ名で、梟雄とは、残忍で強く荒々しい人物を指す言葉である。
「梟」は鳥のフクロウのことであるが、フクロウはその獰猛さから古来他の鳥からも敬遠される凶鳥として、悪い意味の言葉に使われていた。
同じ戦国時代では、この松永久秀と斎藤道三、宇喜多直家または北条早雲の三人で「戦国三大梟雄」とも呼ばれる。
カードのフレーバーテキストにも書かれている三大悪行(将軍殺し、主君殺し、大仏殿焼討)をやってのけた彼に相応しい通称といえよう。
尚、似た様な意味を持つ言葉として、三国志の曹操を指す言葉として知られる「奸雄」がある。

  • 「三好三人衆」
三好長慶の重臣であった三好長逸、三好政康、岩成友通のこと。名字の違う岩成友通も、三好家の一門衆であったと言われている。
長慶の死後に三好家の後継者となった三好義継が幼少であったことから、彼ら3人と松永久秀が三好家の実権を握り、時の将軍足利義輝暗殺にも加担した。
しかし上洛した織田信長に敗れてからはその権勢も衰えてしまう。
その後、信長包囲網に加担するも第二次淀古城の戦いで岩成友通は戦死し、長逸、政康もその後の戦いで行方不明となり三人衆の事績はここに途絶える。

  • 「摂津の三守護」
織田信長が摂津国(現在の大阪府、兵庫県の一部)を攻略した後に摂津守護に任じられた和田惟政、池田勝正、伊丹親興の3人のこと。
このうち室町幕府から摂津守護に任じられたのは池田勝正で、和田惟政と伊丹親興は形式上では勝正の配下となっている。
それぞれ状況は違うのだが、3人とも後に荒木村重によって討ち取られたり、追放されたりしている。

  • 「淡路水軍大将」
水軍とは日本では古代から存在した水上兵力で、「海賊衆」などとも言われている。
実際に水上輸送される荷物を強奪するなどの海賊行為も行なっていたという。
冬康が率いた淡路水軍は鎌倉時代から存在した水軍で、当主である安宅氏は当時の日本で使われた大型軍船「安宅船」の語源だとも言われている。
また、戦国時代に水軍を率いた人物としては織田信長に味方した九鬼嘉隆、毛利氏に味方した村上武吉などが知られる。

  • 「龍造寺四天王」
龍造寺家臣の江里口信常、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直の 5人 を指す。
冗談めかして「五人揃って四天王」などと言われるが、史料によって円城寺と木下の二人が入れ替わっているためである。
沖田畷の戦いで主君の隆信と共に全員戦死したとされているが、木下のみ生存説がある。

  • 「尼子新宮党」
尼子経久の次男で尼子誠久の父・尼子国久を頭領とする精鋭部隊。
月山富田城の北に位置する新宮谷を拠点としたことから「新宮党」の名が付いた。
ただし尼子軍の主力を務めていたことを笠に着て尼子国久、誠久親子は傲慢に振る舞うことも多く、他の家臣との確執も深かったという。
尼子晴久の正室であった国久の娘が死去すると、国久、誠久を始めとする新宮党の幹部は粛清され、新宮党も事実上解散となる。
「陰徳太平記」ではこの粛清は毛利元就の謀略によるものとされ群雄伝でもそれが採用されているが、
新宮党が半独立状態にあったことを晴久自身も危険視しており、家中の統一の目的もあったという。

  • 「坂東太郎」
“鬼義重”とも呼ばれる、佐竹義重の異名。
「坂東」とは現在の関東地方を指す呼称。古来より坂東武者、つまり関東の武士はその勇猛さで知られていた。
そして「太郎」は長男を意味する名であり、いわば「関東における随一の武者」と言った意味を持つ。
尚、「関東でもっとも大きい川」ということで、日本一の流域面積を誇る利根川の異称としても知られる。

  • 「土佐七雄」
室町~戦国時代にかけて土佐の国に割拠した豪族たちの総称。
この二つ名を持つ本山氏(本山茂辰)、安芸氏(安芸国虎)のほかに吉良氏(吉良親貞、親真)、津野氏、香宗我部氏(香宗我部親泰)、大平氏、そして長宗我部氏(長宗我部元親)の7氏族である。
一条氏(一条兼定)も土佐の豪族であるが、別格として土佐七雄には含まない。

  • 「柳生新陰流」
柳生宗厳が上泉信綱から新陰流宗家の座を継ぎ、伝承された流派。
そのため、正式名称は新陰流であり流祖も上泉信綱なのだが、一般的には頭に柳生を付けて呼ばれることが多い。
この流派では印可を受け継いだ人物を「世」、柳生家で宗家を継いだ人物を「代」と称しており、現当主は第22世16代にあたる。

共通

  • 「甲斐の虎」「上州の虎」
武略に優れた人物を、勇猛な虎に例えて異名にしたもの。この二つはそれぞれ武田信玄、長野業正を指す。
この時代には虎に例えられた人物が数多く存在し、「甲山の猛虎」飯富虎昌や「越後の虎」上杉謙信、「相模の虎」北条氏康などがある。

通常、出身地や活躍した場所などを前に添えて、「〇〇の虎」と称する。上州とは上野国のこと。
長野業正は「上州の黄斑」とも呼ばれるが、この場合の黄斑とは目の部位のことではなく、単に虎を形容したことばである。

  • 「鬼玄蕃」「鬼柴田」「鬼武蔵」「鬼十河」「鬼の豪傑」「鬼島津」
勇猛な人物を、剛力を誇る鬼にたとえて異名にしたもの。
「鬼玄蕃(おにげんぱ)」佐久間盛政、「鬼柴田」は柴田勝家、「鬼武蔵」は森長可および新納忠元、「鬼十河」は十河一存の異名である。
「鬼の豪傑」こと鬼小島弥太郎に至っては、もはや通称でも鬼と称されている。(本来の名は小島弥太郎、もしくは小島貞興とされる)
他にも鬼と称される武将は多く、戦国大戦では大人しげな雰囲気の丹羽長秀も「鬼五郎左」と呼ばれることもある。

鬼は地獄の獄卒でもあることから、勇猛さだけではなく畏怖の意味も含まれており、
井伊直政(井伊直親の子、井伊直虎の養子)を指す「井伊の赤鬼」の場合こちらの意味も強い。

中国等では鬼は幽霊や亡霊を指す言葉であり、島津義弘を指した「鬼石曼子(島津)」は、ただ「忌々しい奴」という意味になる。


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最終更新:2015年06月25日 22:46