*計略について #contents_line() **織田家 -天下布武 斎藤氏の居城であった稲葉山の攻略に成功し、天下統一事業へと乗り出した信長に対し、沢彦宗恩が送った言葉である。 信長は大いに気に入り、この4文字を刻印した印章を作り、以後自らの発した書状に多用している。 書き下し文にすればそのまま「天下に武を布く(しく)」であるが、解釈については2通りある。 1:言葉通り、武=武力。「『武力』をもって天下を支配する」。力で天下を統一すると言う意思表示説。 2:「『武』と言う字は、もともと二、止、弋の3文字を組み合わせた物であり、『二人の争い(弋・ほこ)を止める為に使う物』である。 「天下を『武』でみたす」。つまり、最終的に天下を平和にする為に武力を行使するのだ、と言う意思表示説。 両方の意味を兼ねていたとする説もある。 -イスパニア方陣 イスパニア方陣とは、スペインで開発された陣形であり、スペイン本国では「野戦方陣」と呼ばれるものである。 この陣形は槍部隊の周囲を鉄砲部隊が取り囲むというもので、防御に偏った陣形であるために攻撃は陣の前方に据えた大砲で行っていた。 機動力の無さも含め、戦国大戦におけるイスパニア方陣デッキの戦い方に似ている戦法である。 ただし、1550年ごろの本家野戦方陣における槍兵:鉄砲兵の比率は4:1だったようで、 鉄砲を複数並べるのが主流の戦国大戦のイスパニア方陣デッキと異なり鉄砲部隊は少数精鋭である。 -一夜城 現在の岐阜県大垣市にある墨俣城には、秀吉が蜂須賀小六の助けを得て一晩で建てたとされる逸話が残っている。 (無論現在存在している城は本物ではなく、当時の資料が展示してある博物館のような物。) 上流で城のパーツを作っておいて築城予定地点でそれらを組み立てた、戦国大戦で出現するような張りぼてを作っておきその後ろで本物の城を組み立てた、 そもそも作っていないなどと諸説存在するが真偽のほどは不明。 後の小田原の役において、完成直前に敵方から見える位置の木を一気に伐採することで、短期間で城を作ったように見せかけた逸話がある。 -切腹 いわゆるハラキリである。これを栄誉ある自決方法だと称えたり、「死を賜る」と言う意味で斬首よりも名誉ある武士の死に方だと美徳扱いしたり、 切腹人が長く苦しまないよう介錯を立てるなどの作法が確立されたのはいずれも安土桃山~江戸時代以降の話で、 戦国の世にはまだ数ある自決方法の一つに過ぎなかったと言われている。そのため、平手政秀は介錯なしで切腹したであろうと推察される。 遺書などは伝わっていないため、平手政秀の切腹理由についてははっきりしないが、 1:信長の奇行が一向に治まらない事に対し、教育役として責任を感じた。自らの死と引き換えに行状を改めてくれる事を願った。とする一般的に知られる説と、 2:政秀の長男・五郎右衛門の持っていた名馬を信長が所望したが、それを五郎右衛門が拒否した事や、五郎右衛門が織田信勝の反乱に加担しようとした事に対し、 父として責任を感じたために自害。または、自らの死をもって五郎右衛門の助命を嘆願した。とする説がある。 いずれにせよ信長は政秀の死をいたく悲しみ、彼の為に「政秀寺(開山は沢彦宗恩)」と言う寺を建てて厚く弔った。 戦国大戦の群雄伝では、信長が信友を攻めたことで織田家中に広がった信勝擁立への動きを鎮めるため、 また家中での争いにより前田利家・池田恒興といった若い才能を失うことが無いように、という説を取っている。 -三段撃ち 長篠の戦いにおいて、精強な武田騎馬隊を打ち破るために信長が考えたとされる戦法。雑賀衆が編み出したという説もある。 まずは木や竹などで馬防柵を組み、その後ろから鉄砲を持った兵士が三列に並び、 一列目が斉射したら三列目の後ろに下がり弾を込め、その間に二列目が前に出るローテーションと射撃を繰り返す。 正面からの突撃を繰り返すしかない武田騎馬隊はなす術もなく壊滅した……というのが、長く語られてきた通説。 近年の研究では疑問視もされているが、鉄砲の集中的な運用による新しい戦法を信長が編み出していったことは確かである。 -陣頭攻撃 蒲生氏郷は、大将ながら自ら先陣を切って戦う武将として知られている。 氏郷は新参の武将を召抱えたときに「我が家中では銀の鯰尾兜を被った武将が常に先頭で戦っているので彼に負けないようがんばれ」と励ますが、この銀の鯰尾兜こそ氏郷本人だったり、 天下人となった秀吉からは「一万人を率いる氏郷と5000人を率いる信長公が戦った場合、信長公はほとんどが戦死しても生き延びるが、氏郷は最初に戦死した1000人の中に入っているので信長公が勝つ」と評されている。 -姉川の奇襲 1570年、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が近江の姉川を挟んで合戦が行なわれた。 戦は小山を挟んで東側で浅井長政vs織田信長戦が、西側の朝倉景健vs徳川家康戦が進んだ格好となった。 朝倉軍は総大将となるべき朝倉義景が出陣しなかったため士気が低く、 徳川軍の本多忠勝隊の強行軍と屈強な三河武士に正面から押され、さらに側面に回りこんだ榊原康政の奇襲を受けて崩壊した。 -奇襲 島左近は、家康が台頭した1590~1600年関ヶ原合戦の間に何度か夜襲作戦・暗殺作戦を提案し、そのたびに石田三成に拒まれている。 -鶴翼の陣 中国から伝わった八陣の陣形の一つで、Vの字状に兵を配置するもので防衛に優れている。文字通り、鶴が翼を広げたような形になる。 中心部に位置する大将めがけて相手が攻めてきたときに、両翼の部隊を閉じることで敵軍を包囲殲滅するのが目的である。 多くの兵士が必要になるため、基本的には兵力で勝っている場合でないと用いられない陣形。 三方ヶ原の戦いでは徳川軍がこの陣形で武田軍と対峙し、関ヶ原では西軍がこの陣形を取って家康率いる東軍と対峙していた。 -有識故実 有識とは古来の先例から官職や儀式を研究すること、故実とは公私の行動において説得力を持つ根拠・規範のこと。 平安時代の中ごろから宮中の儀礼などが知識として体系化され、これに詳しい人物を「有識者(ゆうそくしゃ)」と呼んだ。 細川藤孝もその一人で、さらに武芸・文芸・学問と幅広い教養を備えていたことから、中央進出を目指す織田政権で重用された。 現代において学識に優れた人を「有識者(ゆうしきしゃ)」と呼ぶのは、この「有識故実」の名残である。 -大ふへん者 関ヶ原の戦いと同時期に、上杉と最上の間で起こった「慶長出羽合戦」において、上杉軍として参戦した前田慶次が背負っていた旗指物に描かれていた文字。 当時は濁点を省略するものであり、上杉譜代の家臣から「新参のくせに『大武辺者』とはどういうことだ」と責められると、 「これは『大不便者』と読むのだ」と返したという逸話がある。 もっとも、利家を水風呂に入れたなど数々のいたずらで知られる彼のことだから、狙って書いたことは想像に難くない。 -人間無骨 森長可の得物として知られる槍で、之定こと二代目和泉守兼定の作。 表に「人間」裏に「無骨」と彫られた十文字槍で、その切れ味から人間も骨の無いように斬られてしまうという意味をもつ。 長可は初陣となった伊勢長島の一向一揆でこの槍を振るい、27の首級を上げたという。 -殺し間 宮下英樹作「センゴク」に登場する明智光秀考案の戦法。 鉄砲隊を2つに分け、囮を用いて敵を誘い込み、誘い込んだ部隊を2つの鉄砲隊が一斉射撃で殲滅する。 戦国時代に用いられた戦法ではない様に思えるが、作者はネパールのゲリラ戦で用いられた戦法を基にしたと言う。 また、大坂城に似たような構造の防御施設があったと作者は述べており、名称は無いと思われるが、実在した戦法と言っても過言ではない。 -本能寺にあり! 秀吉の中国地方攻略の増援に向かうよう命じられた光秀が、謀反を決意して言ったとされる言葉。 初出は「明智軍記」の「敵は四条本能寺、二条城にあり」だが同書は信憑性が低いとされる。 実際光秀は謀反の意思をごく身近な者にしか伝えておらず、本能寺の変に明智方で参加した下級武士も謀反とは知らなかった。 -さらさら越え 小牧・長久手の戦い後、佐々成政が家康に再度の挙兵を求めるべく所領である越中から飛騨山脈を越えて浜松へ向かった際の山越えのこと。 冬の時期にこのような山越えを行ったのは、周りを敵対勢力に囲まれた状態であり、そこを避けるためだったという。 ただ、浜松に到着はしたものの肝心となる家康の説得は失敗に終わっている。 **武田家 -風林火山 武田信玄の代名詞と言える「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の旗印のこと。 元々は孫子「軍争編」の一節で、これに「難知如陰、動如雷霆」という二つの言葉が加わる。 風林火山の部分については有名だが、陰と雷について解説すれば 「暗夜に姿を潜めたかのように隠密裏に行動するかと思えば、雷鳴のようにとどろきわたる」といったところ。 SR山本勘助が攻城時などに孫子から引用した言葉を口にしている。 南北朝時代の人物である北畠顕家(北畠具教の7代上の先祖の兄)が、信玄に200年ほど先駆けて日本で初めてこの言葉を旗印にしている。 -火牛の計 紀元前3世紀の中国、斉国の田単が使ったといわれており、 角に短剣をくくりつけ尻尾にたいまつをつけた千頭の牛を夜の敵陣に放って、敵陣を大混乱に陥れた伝説が残る。 平安時代末期に木曾義仲が倶梨伽羅峠の戦いで平家を敗走させたり、 北条早雲が小田原城を奪取する際にも同様の計略を使ったとされるが、あくまで伝説的な計略である。 -槍弾正 保科正俊の計略である槍弾正の由来は彼が槍術に秀でていたことと、「弾正忠」という官位を自称していたことにある。 弾正とは律令制下の八省の一つで、都の警察組織である弾正台の職員を指すが、戦国時代にはとうに有名無実化している。 他に撤退戦に秀でた高坂昌信(逃げ弾正)、攻城戦に秀でた真田幸隆(攻め弾正)と合わせて戦国の三弾正と呼ばれることも。 -啄木鳥戦法 第4次川中島の戦いで山本勘助が立案したと言われている作戦。 啄木鳥(きつつき)が木をつつき、その音に驚いて出て来た虫を食べてしまう事になぞらえて命名された。 武田軍を二手に分け、妻女山に陣取った上杉軍本隊を、高坂昌信・馬場信春らが奇襲する事で、 驚いた上杉軍は勝とうと負けようと妻女山を下りるので、そこをふもとで待ち伏せていた武田軍本隊で叩いて殲滅するという作戦だった。 結果的にこの作戦は上杉軍に見破られ、上杉本隊は襲撃を受ける前に山を下り、半数の兵で待機していた武田本隊に襲い掛かった。 この戦いで立案者である山本勘助をはじめ、武田信繁・諸角虎定らは戦死。武田軍は大打撃を受ける。 謙信の刀を信玄が軍配で受け止めたと言われる一騎討ちもこの時であり、長野県の川中島古戦場にはこの場面をかたどった2人の像がある。 (ただしこの時武田本陣に斬りこんだ謙信は影武者の荒川長実と言われている。) しかし、異変に気付いた高坂・馬場の別働隊がすぐに山を下りて上杉本隊を挟撃したため啄木鳥戦法が本来の機能を発揮し、 今度は上杉側が苦境に陥り、最終的には両軍痛み分けに終わった。 -影武者の術 影武者とは、武将と同じ格好をさせた身代わりの人物である。 武田信廉は信玄と風貌が瓜二つであったため、側近ですら見分けが付かなかったともいわれる。 他にも川中島の戦いで武田信玄に斬りかかった上杉謙信は、影武者であった荒川長実だったとされる。 ちなみに当時は写真などもなかったため、武将と直接面識のある側近以外で本人を判別できる者は少なかったと思われる。 そのため、顔がそこまで似ていなくても身長や装備品が似ていれば敵方の目を欺くには十分だったようだ。 また、影武者に先陣を切らせることで自分を危険に晒すことなく味方の兵を鼓舞したり(蒲生賢秀の子氏郷が有名) 多数の影武者に名乗りを上げさせることで敵を混乱させる(大阪の陣で真田幸村が取った戦法)など、 勇将・知将と称される人物は、ときに影武者に単なる身代わり以上の効果をあげさせていることもある。 -魚鱗の陣 いわゆる八陣のうちの一つで部隊を△の形に配する陣形。 三方ヶ原の戦いにおいては徳川方が鶴翼の陣、武田方が魚鱗の陣で臨んだ事は有名。 -血染めの陣羽織 長篠の戦いにおいて討ち死にした真田信綱の首を彼が着用していた陣羽織に包み、家臣の白河兄弟が甲斐まで持ち帰った。 その陣羽織にはところどころに血痕が残っており、それが血染めの陣羽織と呼ばれた由縁となる。 -片手千人斬り 甲州征伐で裏切りが続出し武田軍は惨敗、勝頼は天目山で自害を決意する。 土屋昌恒はその時間を稼ぐため、狭い崖道から落ちないよう蔓に片手を絡ませたうえで、押し寄せる織田軍を片手で切り伏せ奮闘したとされる。 -後典厩の采配 「典厩」とは武田信繁・信豊親子が拝命した官職名である「左馬助」の中国式呼名。 (その為武田左馬助信繁と記載された資料もある。) 信豊が父から左馬助を継いで「今典厩」呼ばれるようになると、 それに対して信繁は「古典厩」と呼ばれるようになった。 **上杉家 -毘天の化身 上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりであると信じていた。 毘沙門天は仏教で四天王、七福神の一員。(四天王の一員とする場合は多聞天と呼ばれることが多い。) 本来は宝物の神だったが、インドから中国に伝わる過程で戦いの神となり、日本では武神としてだけでなく福の神としても信仰を集めている。 謙信が出家しようとした際に目指した高野山にある金剛峯寺の本尊も毘沙門天(と不動明王)である。 -関東管領職譲渡 関東管領の歴史は古く、成立は室町幕府の成立とほぼ同時期にあたり、上杉憲政は26代目と言われている。 もともとは、関東一円統治の為に置かれた「鎌倉府」の補佐役であり、関東地方の守護地頭役や武士の管理も兼ねる幕府の要職であった。 全盛期には本家である鎌倉府をも凌ぐ権力を持つが、 憲政の属する「山内上杉家」と、庶流である「扇谷上杉家」との跡継ぎ争いなどでお互い疲弊。 在りし日の威光に翳りが見えた所を武田家・北条家に付け入られる。 名将・長野業正の奮戦もあり武田側の侵攻は食い止めるものの、北条との両面攻撃はいかんともし難く、上杉家は滅亡寸前まで追い詰められ、 当時武田・北条家と対立していた長尾景虎(謙信)を頼る事となる。 憲政は景虎を養子とし、関東管領職の復興を願い27代目とした。これにより、長尾家は以後上杉家と名乗るようになる。 既に有名無実化しかけていた関東管領職であったが、 謙信にとっては「関東を統治する職に就いた」≒「当時関東一円を制圧しかけていた北条氏と戦う大義名分ができた」事でもあり、 また上杉・武田・北条いずれの勢力にも属さなかった豪族の中にも、元は大名門であった関東管領職になびき謙信に味方した者もいたと言う。 -鍾馗の銃弾 カードに記載されている通り名は上杉二十五将だが、斎藤朝信はその武勇から「越後の鍾馗」と称された。 鍾馗とは道教の神で、日本では厄除けに効があると信じられており 屏風や掛け軸に描かれたり、京町家では小屋根の上に鍾馗の像が置かれている。 戦国時代の話としては前田利家や本多忠勝が旗印に使用していた事でも知られている。 -車懸りの陣 上杉謙信が得意とした陣形で、各部隊を放射状に配置したもの。 車輪が回転するように動きながら戦うことで、敵に息をつかせないように戦い続け、かつ味方は休息の時間を挟めるというもの。 第四次川中島の戦いでも、啄木鳥戦法を看破した謙信はこの陣形で信玄に攻めかかっている。 しかし現在では ①この戦法をとったとされる記述がやや信憑性に欠ける軍学書「甲陽軍鑑」によるものであること ②戦力の逐次投入と同義であり、各個撃破される可能性が高いこと ③休息の時間もかなり重いはずの鎧を着こんだまま大きく動き回る必要があり、人も馬もむしろ疲弊するだろうということ などなどの理由から後世の創作なのではないかと言われている。 **今川家 -蹴鞠シュート 蹴鞠とは元々中国から伝来し日本では平安時代より流行した遊びで、元は宮中行事であったが、 足利将軍家が奨励した事などから武家の間でも嗜まれるようになった。 鹿の皮で出来た鞠を落とさないように一定の高さ(およそ4メートル)までリフティングし続け、 蹴り上げた回数を個人や仲間内で競ったり、誰かが鞠を落とすまでパスを続け、落とした人を負けとするものである。 今川氏真と蹴鞠の関係については、氏真が蹴鞠を嗜むと言う噂を聞き付けた晩年の信長が、 京都の相国寺に氏真を招きその披露を求めたと言う記述が残っている。 さすがにR今川氏真が自称する「日本代表」になれるほど上手であったかどうかは疑わしいが、 芸事に多趣味であった信長がわざわざ呼び寄せた事から、ある程度以上の腕前を期待されていたのではないかと考えられている。 他にも、若き日の氏真が祖母・寿桂尼の義理の甥である山科言継から蹴鞠用の鞠を贈られており、早い内から蹴鞠を練習していた事が分かっている。 太平洋戦前にはサッカーの事を「蹴球」と言ったが、これは明治時代、外国人居留地において サッカーで遊ぶ欧米人を見た当時の日本人が「異人さんが蹴鞠をしている」と言った事に由来しており、 蹴鞠とサッカーは全くの無関係ではない。現在の静岡県がサッカー王国なのは、長く駿河・遠江を治めた今川一族が 大の蹴鞠好きで、家臣や城下の人々にも広く奨励し、蹴鞠文化が深く根付いたからだとする説まである。 **浅井朝倉家 -十一段崩し 浅井・朝倉連合と織田・徳川連合の間で起きた、姉川の戦いにて、 浅井先鋒・磯野員昌が13段備のうち11段を打ち破り、本陣の寸前まで迫る猛攻を見せた。 (織田軍先鋒から順に坂井政尚隊、池田恒興隊、羽柴秀吉隊、柴田勝家隊と突破。 結局美濃三人衆や丹羽長秀の助けを得て12段目の佐久間信盛の備えでわざと部隊を引かせた森可成が止めることに成功した。) だが磯野の奮闘もむなしく、浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍に敗戦した事が由来となっている。 しかし、この逸話は浅井三代記が初出で、信長公記には記述が無いために、疑問視する説もある。 -真柄の大太刀 朝倉家家臣の真柄直隆が五尺三寸(約175センチ)もある太刀「太郎太刀」を振り回して戦っていた事が由来。 現在は熱田神宮宝物館に奉納されている。 -勝事が本にて候 朝倉宗滴の残した名言の一つ。全文は「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、勝つ事が本にて候」。 「武者は犬と蔑まれようが畜生と罵られようが、勝つことが本懐である」というような意味であり、当時の武士が江戸時代以後に確立された「武士の姿」とは異なることを示している。 また、宗滴は他にも多くの格言・教訓を残しており、死後、その来歴なども含めて「朝倉宗滴話記」という1冊の本にまとめられている。 その中には、「そんなのあなたにしかできません!」と言いたくなるものや、「自慢か、自慢なんですか?」と問い質したいものも存在していたりする。 **本願寺 -乱れ八咫烏 八咫烏とは日本神話で神武東征の際に高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏である。 一般的に三本足の烏として知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。サッカー日本代表や陸上自衛隊のシンボルマークにもなっている。 熊野三山において烏はミサキ神として信仰されており、日本神話に登場する八咫烏は太陽の化身とされ信仰に関係するものと考えられている。 何故太陽の化身とされているかだが、有力な説としては古来より3が太陽を表す数字であることや、中国では古来より奇数が「陽」の数とされてきたというものがある。 紀伊を拠点とした雑賀衆を治めた鈴木家の家紋・旗印にもされており、雑賀衆のマークのイラストにもきちんと三本足の烏が描かれている。 -手猿楽 手猿楽とは、大和国(奈良県)の春日神社によるプロ興行に対し、武士・農民・商人・僧侶など、本来能楽を本業としないアマチュア集団や、 春日神社系の大和四座系列に属さないその他の能楽師達による能楽演舞のことで、室町時代後期~江戸時代初期の間に栄えた文化である。 下間仲孝が「下間少進」の名で知られ(「素周」と言う芸名で呼ばれる事もある)、「童舞抄」「舞台之図」など 能楽史上貴重な文献を残した事はカードテキストにある通りだが、 能の踊り手としても当代の最高レベルと時の権力者に絶賛されており、本願寺合戦が収束した後は豊臣秀次(秀吉の甥)の能楽指南役を務めたほか、 豊臣秀吉・徳川家康の前や、京都御所でもその腕前を披露し、観る者を楽しませたと言う。 -一向一揆 一向宗こと浄土真宗の信徒が起こした一揆の総称。 当時は兵農分離もあまり進んでいなかったため、民衆が普通に武器を所持していたことで武装面も十分に強く、 さらに信仰心による士気の高さから、各地の大名もその対処に手を焼くほどであった。 特に加賀国(石川県)では、長享2年(1488年)に守護大名であった富樫政親が攻め滅ぼされてからは僧侶、地主による自治が行われるほどであった。 本願寺顕如が織田信長に降服し、石山本願寺を退去したことで一向一揆は終結する。 **毛利家 -村上舟戦要法 村上武吉が著わしたとされる水軍の兵法書である。これは後に日本海海戦の際に参考にされたほどのものであった。 この書を書いたのは長門国大津に隠棲してから、関が原の戦いに乗じて発生した河野家再興の戦いに身を投じた息子の元吉を失ったあまり失意に陥り、1604年に死去するまでの間だといわれている。 -百万一心 毛利元就が吉田郡山城の工事の際に人柱の替わりに埋めた石碑に刻まれていたとされる言葉。 石碑自体は江戸時代に発見され、しかも石碑自体が早々に行方不明になっており、毛利元就が埋めたというのも江戸期に喧伝された内容で、戦国時代の毛利家で使用されていた言葉である確証はない。 縦に並べて字を崩すと「一日一力一心」となり、「全員で力を合わせれば何事もなし得る」という意味となる。 **北条家 -忍の浮き城 忍城は、成田氏が代々の城主を務めていた城である。(「忍」は地名であり、忍者・忍耐などの表現で使われる意味とは異なる。) 湿地帯の中、沼地に囲まれた難攻不落の堅城として知られており、 上杉謙信や、当時はまだ敵対していた北条氏康と言った名だたる将に攻められた事もあるが、いずれも撃退に成功している。 豊臣秀吉による小田原征伐の頃には成田氏は北条家に属しており、小田原城に篭もる北条氏政・氏照達が、豊臣勢力に属する諸大名の包囲に晒される傍ら、 忍城も、石田三成の策により利根川の豊富な水を利用した水攻めにされてしまう。 この時に城側の城代を務めていた成田長親や、甲斐姫達が忍城防衛に奮闘するが、 彼らの活躍を描いたのが、2012年映画化された和田竜原作の「のぼうの城」である。 「浮き城」と言う通称は忍城が湿地帯にあったからとも、 四方全てを水に囲まれてもなお落城しない忍城が、まるで水上に浮かんでいるように見えたからとも言われている。 -獅子の牙城 牙城とは組織や勢力の中心、本拠地の意味。 牙とは「牙旗」の意味であり、大将旗の事。旗ざおの上部に象牙の飾りが有ることからいう。 牙旗の立っている城、すなわち大将がいる城である事から、比喩的に本拠地の意味で用いられる。 つまり獅子の牙城とは「獅子、すなわち北条氏康の本拠地」と言う意味になる。 計略が元々は自城防衛に向いた物だったからこそのネーミングと思われる。 -地黄八幡 北条五色備のうち黄備えを担当していた北条綱成は、黄地に「八幡」と書かれた旗印を愛用していたことから「地黄八幡」と呼ばれていた。 黄色は五行のうち「土」を司る色で、方角では中央を示す。 また、八幡とは清和源氏の守護神とされた軍神で、綱成をはじめ多くの武士に信仰されていた。 **島津家 -捨て奸、座禅の陣 関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」で使われた退却用の戦法。 撤退する本隊から数名が殿(しんがり)となって敵を待ち受け、全滅するまで戦い続けて敵を食い止める。 それは退路に点々と数人ずつ銃を持った兵達を、敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。 (このことから「座禅陣」とも呼ばれた) 全滅後は他の数名が新たな殿となって同様のことを繰り返す戦法で、指揮官を逃がすことに特化したものである。 -釣り野伏 島津軍が得意とした伏兵戦術。 部隊を複数に割き、囮部隊である「釣り」と伏兵である「野伏せ」にわけ、敗走を装った「釣り」を追撃してきた敵部隊を「野伏せ」で包囲殲滅する作戦である。 こう書くとただの伏兵戦法のようにに思えるが、下手な攻撃では敵が釣り部隊の追撃をしない可能性があるため、 『「釣り」部隊が敵に本気になるほど奮戦し』さらに『追撃させるほど相手の判断力を落す』という非常に高度な」戦術であり、指揮官の高い統率力と練度の高い実行部隊が必要となる。 この戦術を得意としたのは島津義弘と島津家久で、家久はこの戦術を使い龍造寺隆信、長宗我部信親、十河存保という3人の大名首を上げている(織田信長ですらあげた大名首は今川義元一人。関ヶ原の合戦においても戦場で死んだのは大谷吉継ただ一人であることからも家久の凄まじさが垣間見える)。 義弘はもっと激しく、1572年の伊藤氏との合戦で200対3000の戦力差をひっくり返し、朝鮮征伐では7000対200000という最大規模の釣り野伏を成功させ勝利をもぎとった。 -薩摩示現流 東郷重位を開祖とする剣術の流派。現代においても鹿児島県にて東郷家が伝承している。 江戸時代においては薩摩藩の御流儀であり、他藩の者に稽古を見せることは禁じられていた。 俗に「二の太刀要らず」と言われるように、初太刀での一撃必殺を旨としている。 斬りかかる際には奇声のような、絶叫するような掛け声を上げる。 本作では、東郷重位本人や他の示現流の使い手達も計略使用時に「チェスト」の掛け声を用いているが、 薩摩示現流においては「チェスト」という掛け声は用いられていない。 チェストの掛け声は、後のドラマなどの創作によるイメージが強いと思われる。 派生した流派として、薬丸兼陳を祖とする薬丸自顕流(野太刀自顕流)などがある。 -鉄砲伝来 種子島時尭が16歳の時、彼が治めていた地である種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル商人が鉄砲を所持しており、 その威力を目の当たりにした時尭は二挺の鉄砲を購入し、うち一挺を刀鍛冶たちに分解して調べさせ、同じ物を作るよう命じたという。 製造時、特に難航したのは銃底の塞ぎ方で、制作に携わっていた刀鍛冶・八板金兵衛が娘をポルトガル商人に嫁がせてネジの製法を教わったことで完成にこぎつけたと言われている。 その後、堺の商人・橘屋又三郎がこの地を訪れ鉄砲の製法を学んだことにより、本土でも鉄砲生産の技術が伝わっていったという。 鉄砲そのものはこれ以前より日本に渡っていたというが、時尭がこうして国内での鉄砲量産体制を確立させたことから、種子島が鉄砲伝来の地とされ、鉄砲の代名詞となっていった。 **豊臣家 -三杯の茶 豊臣秀吉が近江国観音寺で茶を所望したときに、寺小姓の佐吉(石田三成)が応対したときのエピソード。 この時佐吉は最初の茶は喉の渇きを潤すために大椀にぬるい茶を出し、二杯目は茶碗に一杯目よりやや熱い茶を出し、 最後は茶の味を存分に楽しむために小さい茶碗に熱い茶を出して、その心配りを秀吉に褒められ家臣として取り立てられた。 ただしこの話は後世の創作であるという説もある。 -七本槍・○○ 豊臣秀吉が賤ヶ岳の戦いで功名を挙げた子飼いの武将のうち、 福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元の七名を賤ヶ岳七本槍と名付けた。 これには譜代家臣の乏しい秀吉が、盛んに子飼い武将の実力を喧伝する意図があったとも言われている。 他にも秀吉は日本七槍という称号も作り、こちらは子飼いではなく各地の大名家の家臣から槍働きに優れた者を選出した。 -今張良の軍法 張良とは中国の秦末期から前漢初期に高祖劉邦の軍師となり、漢帝国の創業に大きく貢献した人物のこと。 神懸かった智謀で劉邦の危機を幾度も救い、その名は中国のみならず日本でも優れた軍師の代名詞として使われることとなった。 ちなみに黒田官兵衛を今世の張良と称えたのは徳川秀忠である。 -刀狩の陣 刀狩とは兵農分離政策の一環として、百姓身分の帯刀権を剥奪して武器を没収したもの。 特に1588年に秀吉が行った刀狩令が有名だが、それ以前にも柴田勝家が越前で一向一揆鎮圧のため行っているなどの例がある。 また、治安維持の目的もあり、秀吉はこれと同時に喧嘩停止例を出し農民の武力行使を禁じている。 尚、武具全てを没収したのでなはく、狩猟用の弓や鉄砲の所持などは認められていたという。 **伊達家 -毒入りの膳 元々最上家の出身である義姫は、兄の最上義光とは大変仲が良かったと言われ、最上家との対立の火種を作った政宗とは折り合いが悪かったとされる。 これに加え、義姫は伊達小次郎の方を愛しており、苛烈な性格で敵ばかり作る政宗を廃して小次郎を当主に据えたかった、 豊臣秀吉による小田原参陣を要請されたにもかかわらず政宗の動きが遅かったため、伊達家取り潰しの危機を感じた…などの理由から 毒入りの膳を政宗に食べさせ毒殺しようとした、と言うのが通説である。この騒動で実際に小次郎が手討ちにされている。 しかし現在では、この事件後も数年にわたる政宗と義姫による親しい手紙のやり取りなどが確認されており、 事実であったかどうかは不明。後年の創作説もある。 (一応伊達家の正史として記述されてはいるのだが、書かれたのが江戸時代も半ばになってからである) **徳川家 -名槍・蜻蛉切 本多忠勝が愛用した槍で、村正一派の刀鍛冶・藤原正真の作。天下三名槍の一つでもある。 1尺4寸5分(約40cm)の鋭い穂先を持つ大身槍で、蜻蛉切と言う名はこの穂先に止まったトンボが真っ二つになったという逸話から付けられた。 また、この槍には1丈3尺(約3.9m)の黒塗りの柄が付けられていたが、忠勝は晩年になって力が落ちると自身の技量にあわせて柄を若干短くしたという。 ちなみに、天下三名槍の残り2本は御手杵と日本号。 -十二ヶ条の訴状 1579年、五徳姫が父・織田信長に宛てて夫・信康と姑・築山殿を弾劾するために送ったという訴状。 内容は、彼ら母子の乱行および武田への内通を訴えるものであったという。 信康の死には諸説あるものの、通説としてはこの訴状を受けた信長が家康に切腹を命じたものとされている。 -十万石の檄文 小牧長久手の合戦の少し前、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書いた。これに対しかかった懸賞が十万石である。 康政は「十万石の価値がある檄文を書いたのだ」といい、後に彼の領地が十万石となる。 **長宗我部家 **他家 -徳政令 朝廷や幕府と言った権力が、債務、債権の放棄を命じた法令のこと。鎌倉時代、元寇の後に出された永仁の徳政令がよく知られたところだろう。 室町時代になると、民衆が徳政令を要求するために一揆を起こすこともしばしばあったという。 -秘剣一之太刀 上泉信綱と並んで剣聖と讃えられる剣豪・塚原卜伝が開眼したという奥義。北畠具教に伝授されたという。 尚、この計略を使う足利義輝、北畠具教両名とも塚原卜伝に師事している。 -平蜘蛛の釜 松永久秀が所有していたという茶釜で、正式名称は「古天明平蜘蛛」。その名のとおり蜘蛛が這っているような形状をしていたという。 久秀は他にも九十九髪茄子などの名物茶器を持っていたが、平蜘蛛だけは信長が何度も所望したにも関わらず引渡しを拒んでいる。 一般的にはSR、SS松永久秀のテキストにもあるとおり、信貴山城の戦いで追い詰められた久秀によって火薬を詰めて爆破されたと伝わる。 一方で城跡から現物が掘り起こされたとも言われており、現物とされる茶釜が浜名湖舘山寺美術博物館に保管されている。 -信長包囲網 足利義昭が提唱した、反信長同盟とも呼ばれる群雄たちの同盟のこと。 義昭がまだ京にいた頃に組まれた第一次包囲網では浅井長政、朝倉義景、本願寺顕如(長島願証寺)、六角義賢、武田信玄、三好三人衆、比叡山延暦寺などが参加する。 多方面からの同時攻撃にはさすがの信長も苦慮し、重臣森可成や信長の実弟2人を失い、 ついには時の天皇に頼み込んで浅井朝倉家と一時的に和睦して難を逃れる。 本心かどうかは不明だが、この時信長は義景に「天下は朝倉殿が持つといい。私はもはや二度と望みなし。」と、消沈した面持ちで呟いたと言う。 この後に信長は浅井・朝倉との和睦を盾に対抗勢力を各個撃破し(長島討伐や、有名な延暦寺焼き討ちなど)、 機を見て講和の約束を反故にし、浅井・朝倉相手にも有利な戦況を展開する。 しかし、武田信玄の西進に対し徳川家康と共闘するがこれには大敗するなど一進一退はあった。 第一次包囲網は、柱であった信玄の病死と共に瓦解。 これで後顧の憂いがなくなった信長は、浅井・朝倉に猛攻をかけ、遂にはどちらも打ち滅ぼす事に成功した。 後に、毛利輝元に匿われた義昭によって再び第二次包囲網が組まれている。 この時に参加したのが毛利輝元のほか、上杉謙信、武田勝頼、本願寺(雑賀衆)、波多野氏、宇喜多氏、山名氏などに加え、 一時は信長に味方するも離反した松永久秀、荒木村重である。 -国崩し 大友宗麟がポルトガル人宣教師から購入したフランキ砲で、日本初の大砲と言われる。 フランキ砲は初期型の後装砲で、砲尾に大きく開けられた穴から弾倉を挿入し、弾倉そのもので砲身を閉じて発射する。 構造上、前装砲に比べて速射性で勝るものの砲身の密閉度が低い分威力では劣ったという。 とはいえ従来の武器に比べると威力は歴然で、臼杵城に籠城したときは島津相手に大いに活躍したという。 -合従の陣 合従(がっしょう)とは外交策の一種で、複数の国と同盟を結び強国に抗することを指す。縦横家・蘇秦によって提唱された。 春秋戦国時代、西方の大国・秦に対抗するために、南北に並ぶ東方諸国の連合を成功させたのが語源である。 相良義陽は強大化する島津家に対し、大友家・阿蘇家・伊東家など九州の諸勢力と同盟して抵抗した。 この構図が前述の状況と似通っていたため、この計略を所持していると考えられる。 -下克上 読んで字のごとく、身分の低いものが主君など身分の高いものを打倒する行為。 戦国以前にも多くあった話らしく建武の新政の頃、二条河原の落書きに「下剋上する成出者」という一文が記されている。 ただし、主君を倒した本人自ら新たな主君の座につくことは少なく、実際は元の主君の一族を傀儡として新たに擁立することが多かった。 例えば松永久秀や三好三人衆によって足利義輝が討たれた後は、同族である足利義栄が14代将軍に就いており、 陶晴賢の場合も大内義隆を討った後、その甥である大友晴英を迎え、新たな大内家当主としている。 -雷切 立花道雪が雷に打たれた際、自らの刀「千鳥」で雷の中に居た雷神を斬ったといわれている。 その刀の名を「雷切」と改めた事が由来。 -律儀者の陣 佐竹義宣は、義理堅い人物であったと言われている。 慶長2年(1597年)に宇都宮氏が改易されると、親戚に当たる佐竹も改易されそうになったが石田三成の取りなしによってそれを免れている。 このことに恩義を感じた義宣は、慶長4年(1599年)に豊臣家の武断派武将が三成の屋敷を襲撃する事件が起きると、三成を救出して宇喜多秀家のもとに匿っている。 そういった話があることにより、「徳川実紀」によると家康から「佐竹義宣ほど律儀なものはいないが、律儀すぎても困る」と評されたという。 -鬼真壁の樫木棒 真壁氏幹は、戦場で長さ2mの木杖「樫木棒」を愛用していたという。 また、氏幹は棒術の使い手で霞流という流派も興しているが、塚原卜伝に師事した剣客でもあり、天流の創始者である剣豪・斉藤伝鬼房と勝負したこともあるという。 -----