カードリスト > 島津家 > Ver.3.0 > 056_島津惟新斎

武将名 しまづいしんさい 敵陣踏破
SR島津惟新斎 島津家17代当主。貴久の次男。文禄・慶長
の役では「鬼島津」として武名を轟かせる。
関ヶ原の戦いでは三百の兵で、東軍六万以上
の敵中突破を果たし「島津の退き口」と謳わ
れる。この際、多くの家臣を失ったが、井伊
直政ら名だたる武将に重傷を負わせた。

「血沸き肉躍る、
      俺様の大好物な時が
                    やってきたようだな!」
出身地 薩摩国(鹿児島県)
コスト 3.0
兵種 鉄砲隊
能力 武力9 統率8
特技 気合 車撃
計略 島津の退き口 【闘痕】(効果終了後、武力が上がり最大兵力
が下がる。最大兵力が0になると撤退し、この
効果は消える)島津家の味方の武力が上がる。
さらに鉄砲隊であれば味方の射撃に合わせて自
動で援護射撃を行うようになる。その効果は対
象の味方の最大兵力が少ないほど大きい。ただ
し射撃中の味方は援護射撃は行わない。
必要士気6
Illustration : RARE ENGINE

惟新斎と名を改めた島津義弘。
計略は武力を上げ、鉄砲隊に自動で援護射撃を撃てる効果を与える島津家限定の闘痕系采配。
武力上昇値は+5、効果終了時に闘痕段階が1段階進む。

援護射撃とは、効果中の味方鉄砲隊が対象に射撃を行った時、
1.鉄砲の発射中ではない
2.射撃対象を射程内に収めている
の両条件を満たしている全ての味方鉄砲隊が、その対象へ自動的に射撃を行うというもの。特殊な緑色の射線が発生する。
援護射撃する味方鉄砲隊は、弾がリロードされている必要はなく、また消費もしない。
援護射撃中はリロードが止まるため、交互に延々と撃てるわけでは無い。
それでも、1部隊の射撃が全部隊の射撃に変貌するので、1部隊ずつ順番に撃っていけば敵は部隊数に等しい回数の全部隊ノーリロード射撃を浴びることになる。

闘痕段階が進んでいるほど、援護射撃の発射数が増える。
掃射する弾数が1発変動するので、闘痕の武力+1も相まって攻撃力が劇的に変わる。
闘痕1以上の鉄砲3枚にマウントされた場合はローテーションでの防衛はかなり難しい。

闘痕無し:発射数3
闘痕1段階:発射数4
闘痕2段階:発射数5

範囲は少し前に長い四角形で、縦は約カード縦5枚分、横は約カード横5枚分ほど。
効果時間は9.2c。(以上 3.00A)
鉄砲の数が部隊火力を激変させるので鉄砲の数を増やしたい所だが、本人のコストが若干重めの3。

闘痕の撤退制限を考えると、マウントを取れたならばそこで大きく城ダメージをもぎ取りたい所。
だが、城攻めの為の武将コストを増やすと重要な鉄砲の数を圧迫してしまう。

それならば戦闘力の高さを生かして筒戦気味に戦おう、という戦略でも、相手が広がって進軍してきた場合、
援護射撃を機能させるには各個撃破を狙う形になるので、対応できなかった部隊の自城到着を許してしまう…といったジレンマを抱えている。
戦闘/攻城/防衛/相性補完といった各要素のバランスは高いものの、中々城ダメージに繋がらないという、
撤退戦のエピソードを反映したかのようなカード。

また士気6ではあるが1試合に3回以上打つと効果終了時に全員撤退してしまうので、
純粋に兵種やデッキ特性で相性が良い相手ですら、闘痕浄化の士気か家宝使用を要求されるケースも多い。
その士気分が敗北に繋がるケースがまま見られ、兵種相性が強く反映されるデッキにも関わらず、
その相性差を覆すタイミングが相手に悟られてしまう。そこをどのようにカバーするかが決め手となる。

できれば闘痕1の状態での退き口攻勢時に追加の士気を使い、その時点で勝負を決定的にしておき、
闘痕2状態はトドメか最終攻勢への防衛用として運用するとキレイに収まる。

余談

テキストの敵中突破とは文字通り正面突破であり、これは包囲された為に退却方向へ突破したのではなく、
西軍の敗北が決定し全軍後方へ四散する中、包囲され始めた島津勢が家康の居る東軍本陣方向へ退路を見出し突破を試みたという物。
島津勢は当時小勢(1500程)ながら西軍鶴翼の左翼に配置されており、実際に退却したのは関ヶ原の南(西軍から見れば右)に位置する伊勢街道へ入っているので事実上の戦場の横断をしている事になる。
ちなみにこの時(撤退戦開始時点で島津残勢力300)突破された隊は福島隊、井伊隊、小早川(秀秋)隊、本多(忠勝)隊他
宇喜多秀家と戦い、激戦を繰り広げた後であった福島隊を除いても、3~5倍の兵力相手の敵中突破であったと予想される。
東軍の記録にもこの事が書かれており、福島隊は追撃をかけようにも島津勢の気迫に押され追撃を中止。
更に、この時の撤退戦で追撃を仕掛けてきた井伊直政と松平忠吉を銃撃。直政はこの傷が元で破傷風に罹患し死亡。
忠吉は、鉛が身体に残ってしまい鉛中毒で死亡したと言われる。
加えて本多忠勝の愛馬、三国黒も討ち取るという戦果を挙げた(忠勝自体は無傷)。
結果的に惟新斎(義弘)を含め80人程が大阪に到着。海路を使い薩摩まで逃げ果せた。
またこの時、義弘本隊とはぐれた諸兵士もおり他の経路を使い逃げた兵士もいたため実際に薩摩までたどり着いた兵はもっと多いと言われている。