街に人の姿はなく、ただ所々に灯りだけが宿っている。往き交う車も、動物達の姿もない。昨日まで普通の生活が営まれていた場所から、忽然として命あるものだけが消し去られたかのような、美しく不気味な風景である。
「変なホラー映画みたいだな」
巧がぽつりと言った。
「相手がわかっている分、ホラー映画よりマシだろう」草加がやり返す。
「ヒーローが勝てるかどうかわからない分、ホラー映画よりたちが悪いがな」
そう口にした蓮に向かい、草加は皮肉な視線を向けた。
「お前がヒーローだとは知らなかったよ」
考えてみれば、蓮は当初殺し合いに乗り、それが元で草加に殺されそうになった立場である。この男にだけは言われたくないというものだった。
待ち合わせ場所に指定されたビルに近づいた時、矢車が足を止め、腕を上げて残りのものを遮った。
「なんだよ」
巧がその腕を振り払うより前に、草加が舌打ちする。
「やられたな」
道路に散らばるガラスの破片。模型のようにすまし返った街角にはあまりにも不自然だ。
巧は反射的に空を仰いだ。
ビルの最上階が何かに吹き飛ばされたかのように形を失っている。その無惨なシルエットは、室内からこぼれる光でくっきりと夜空に描き出されていた。
「畜生!」
叫びとともに巧が走り出す。矢車が慌ててそれを追い、蓮は草加と顔を見合わせた。
無感動な蓮に対し、草加はどこか見下すような目をしている。
それでも次の瞬間には、二人もまた駆け出していた。
ゆるやかに上昇してゆくエレベーターの中、巧が苛立ち気味に最上階のボタンを叩き続けている。矢車は青年の代わりに覚悟を決めることしか出来ない。最悪の予想をし、最悪の光景を目の当たりにする覚悟。
エレベーターの扉が開いた瞬間に、冷たい霧が全身に吹き付ける。壊れたスプリンクラーが嫌がらせのように廊下に雨をまき散らし、赤い絨毯の敷かれた廊下は完全に水浸しになっていた。
「城!あきら!明日夢!津上!ジョー!」
叫びながら必死に廊下を走る巧の身体に、機械仕掛けの豪雨は容赦なく打ち付ける。水を含んだマットに足を取られて床に転げた瞬間、彼は感じた。
足下を流れる水に混じった、血の匂いを。
床をなめるように顔を上げると目に映るのは赤い筋。
「嘘だろ……」
侵入者ごと汚れを洗い流そうとでも言うように、ビルはただひたすら彼らの上に雨を降らせ続けている。立ち上がれずにいる巧の脇を抜けて奥の店舗に踏み込んだ矢車は、足を止めて顔を背けた。
深くため息をつくと、血の匂いが鼻を突いて逆に怖気に襲われる。
レストランの入り口を塞ぐ瓦礫の下からは、大人のものというにはわずかに幼い手だけが覗いていた。
もう一台のエレベーターの到着を告げるチャイムが、水音に紛れて白々しく響く。
蓮とともに追いついて来た草加が瓦礫に歩み寄り、それに手をかけた。
「何か持っているかもしれない。貴重な支給品を無駄にするつもりはない」断るつもりか、そう吐き捨てて力任せに瓦礫を押しのける。
乱暴に片腕を残して跡形もなく潰された少年の身体。酸鼻という言葉ではあまりに穏やか過ぎるそれに、巧が喉を鳴らし蓮が顔を背けた。
二人とも異形の怪物とは戦って来ただろうが、生身の人間の無惨な死に様には慣れていないのだろう。むしろシャドウの任務柄、あらゆる手段でワームに殺された人の死体を見慣れている自分のほうがおかしいとも言える。
ゼクトの新入隊員にこれを見せたら、おそらく一人や二人は嘔吐する者が出る。ましてや、顔を見知ったものがこうなったら正気でいられる者は多くあるまい。取り乱さないだけ彼らは強靭だった。
「君たちは休んでいろ。俺がやろう」
矢車は腹を据えて背広を脱ぎ、黙って見ている蓮に預けた。袖をまくりながら辺りを見回した彼の目に、別の瓦礫の上に泊まっているドレイクゼクターが映る。近づくと、ドレイクゼクターは名残惜しむように瓦礫の上を数度旋回してから窓の外へと飛び立って行った。
それだけで、矢車にはゼクターの言わんとすることがはっきりとわかった。
見つかったのは四人分の死体だった。瓦礫の下敷きになった明日夢と津上、なぜか胴をなで切りにされた状態で潰されていたあきら、そして奥で血を吐いて絶命していた霞のジョー。
荷物もすべて持ち去られているーーーーただひとつ、あきらの血まみれの手のなかにあったドレイクグリップを除いては。
「剣を使う者の仕業か。さて、誰が裏切ったのかな」
草加は手近なテーブルから紙ナプキンを取り、しきりに手を拭いている。
「不安を煽るのが君の作戦か。今俺たちが仲間割れをしたら、君にも都合が悪いと思うが」
矢車が冷淡にそう評したのは、むしろ自分の中に溢れる行き場のない怒りを押し殺すためだったのかも知れない。巧と同様無惨な死体など見慣れていないはずなのに、平然と遺留品を漁る態度に嫌悪を感じた。それは同時に、無力だった自分へのいらだちでもある。
時間が必要だ。痛みと悲しみを飲み下すための時間が。
「一旦どこかで休もう。生き残りとどうやって合流するか、落ち着いて策を立てる必要がある」
反論する者はいない。誰もが疲れ切っていた。
彼らは向かいにあったホテルの一室を仮の宿と決めた。ここならば、誰かが集合場所に向かって来ても見逃すことはないはずだ。
無人のフロントから鍵を取り、階段を上る。趣味の良い調度が飾られた廊下はやわらかな灯りに満ち、ロビーに生けられた花も瑞々しい。
通りに面した部屋のドアを開けると、青い画面だけを映したテレビが部屋をぼんやりと照らしていた。
草加が濡れた服を脱ぐのももどかしくバスルームに飛び込む。さすがにこの男も吐きたくなったのかと思ったが、単に手を洗い始めただけだった。
巧は糸が切れたようにベッドに倒れ、身体を丸める。クローゼットからハンガーを取って背広を掛ける矢車をよそに、蓮がミニバーの前にしゃがみ込んだ。
矢車はベルトに通していたトランシーバーを外し、電源が入っているのを確かめてデスクに置いた。コートの裾を踏んだことに気づいて一歩下がった彼に、蓮が手にしたグラスを突き出す。矢車はその手を振り払おうとした。
「こんな時に酒など飲めるか」
「さっき俺に無理矢理飲ませたのはどこのどいつだ」
蓮はやり返し、膝を抱いた格好でベッドに臥せっている巧を見た。「お前もやるか」
「おい、未成年に飲ませるな」
「あとで密告したらどうだ。氷川さんでも小沢さんでも好きなほうに」
目の前のサイドテーブルにグラスを置かれ、巧が首だけをもたげた。ワインの栓を備え付けのソムリエナイフで抜く様子を複雑な表情で見守る矢車に、蓮が小さく嗤う。
「矢車。お前、今ほんとに考えたな」
「……くだらない」
「で?赤か、白か」
「……白をくれ」
蓮は白ワインのハーフボトルとソムリエナイフを投げて寄越すと、二つのグラスに赤ワインを注ぎ、片方を取って一息に飲み干した。矢車があきれたように首を振る。
「なんだ、赤も飲みたかったのか」空のグラスを再びワインで見たしながら、蓮が訊ねる。
「いや……そんな飲み方をする奴は初めて見た。あまり飲みつけていないのか」
「飲まないわけじゃない。紅茶程詳しくはないだけだ」
矢車は瓶のラベルを指で追った。
「……ブルゴーニュの白は好きになれない。泥臭くて料理の味を濁らせる。サヴォアの白はそれ以下だ。舌触りが軽過ぎて何も残らない」
「お前に言わせりゃ不協和音か?」蓮がヤジを飛ばす。
「料理を選ばず一番美しいハーモニーを奏でるのは、ボルドーの白だな」
矢車はそう言いながらも栓を抜きにかかった。
バスルームではずっと水の流れる音がしている。草加はいつまで手を洗っているつもりだろうか。少しばかりいぶかしみながらも、ロックグラスに生暖かい瓶の中身を注ぎ、一口飲み下す。
「で、あんた的にそいつの評価は」いつのまにかベッドにあぐらをかいて自分の分のワインをなめていた巧が、面白くもなさそうに訊ねた。
「これはワインじゃない。酢だ」
ミニバーの脇という温度の高い場所に長い間放置されていたせいだろう。元々酸味の強いシャブリがすっかり酸化して、風味の欠片も残っていない。
「が、まあ……飲んだくれるにはちょうどいい」
ネクタイを緩めながら自重気味に呟いた矢車に、バスルームから出て来た草加が吐き捨てる。
「お前が飲んだくれたら、困るんだよ」
「わかっている。ほんの冗談だ」
草加は厳しい顔のまま大股にミニバーに近づくと、冷えたビールを取り出して栓を抜いた。黙って窓際のソファに腰を下ろし、中身を煽る。
矢車はワインの入ったグラスを目の前にかざし、誰にともなく言った。
「俺の家に、サンテミリオンの上物がある。上司から貰ったものでね」
先日加賀美を部下として預かった時、挨拶ついでに贈られたものだ。
息子にもやろうと思ったんだが、あいつは私からは受け取らないだろう。なにより味が解っていない。いずれ、君から教えてやってほしいんだ。
その青年も、すでにない。
「白か」蓮が訊ねる。
「赤だ。サンテミリオンでは赤しか作らない」
矢車はグラスの中身を一口飲んだ。
「無事に帰れたら、君たちに飲ませてやろう。俺の手料理と一緒にな」
「未成年は飲んじゃダメなんだろ」巧がさして中身の減っていないワイングラスを手にむくれる。
「心配するな。氷川さんと小沢さんも呼ぶ」
「ひでぇよあんた」
「他の皆も呼ぶんだ。あの二人を外すわけにはいかないだろう」
矢車は無理に笑顔を作り、生温いワインを煽った。草加が音を立てて空になった瓶をサイドテーブルに置く。
白ワインの瓶を手に取る蓮を見て、矢車は手に持っていたグラスを差し出した。眉を潜めた蓮をよそに、歳若い青年二人を振り返る。
「君たちは今のうちに少し眠ったらどうだ。この先どうするにしろ、疲れ切っていたのでは話にならない」
巧は少しの間不機嫌な顔でこちらを見ていたが、黙って横になった。と、すぐさま身を起こし、自分の荷物の中から何かを取り出して矢車に投げる。
「これは?」
「あんたのシャツ、汚れてるから」
既に小奇麗とは縁遠い格好をしているのは皆同じだ。違いがあるとすれば、矢車のシャツには瓦礫を掘り返す作業でついた血の跡がなお鮮明に残っていることだろうか。
矢車は首を振り、それを巧に返した。
「まだしまっておいてくれ。本当に必要になったら借りる」
「……遠慮すんなよ」
「ああ」
巧はシャツを丸めて枕にすると、再び横になった。
矢車が改めて草加に向き直る。
「君も寝たほうがいい。心配するな、寝首は掻かない」
草加は何も言わず横になった。
灯りを落とした部屋の中、静寂に混ざる穏やかな寝息が耳に痛い。蓮は備え付けのラジオのスイッチを入れた。
誰が放送しているともわからないラジオは、取り繕うように上品な室内楽を流している。それに耳を傾けていた矢車が、不意に口を開いた。
「俺はグレン・グールドが嫌いだった。彼の演奏にはハーモニーがない。しかも演奏中に鼻歌を歌うと来ている」
「……よくわからん」蓮が呟く。
「一言で言えば、
天道総司のような男だ」
矢車が握るグラスには、ワインとは別の琥珀色の液体が揺れていた。
「そのグールドが、嫌っていたシューマンの作品のうち一つだけ、録音を残している。作品番号47ーーーーピアノ四重奏曲だ」
目を閉じて、ラジオから流れて来るたゆたうような旋律に耳を傾ける。
「グールドほど自分勝手な男でも、ハーモニーを受け入れることがある。そして共演者とともにハーモニーを奏でる時、一人ではどうしようもない欠点も互いに補うことが出来る」
人間は一人で強くなれるわけじゃない。俺は加賀美にそう言った。
チームの勝利なくして、本当の勝利はない。
己を信じず、仲間を信じずして勝利が得られるはずがないのだ。その信念を捨てることは、矢車自身の敗北を意味していた。
蓮は何も答えない。唐突な話に呆れているのだろう。矢車は話題を変えた。
「何が好みだ」
「なに?」
「紅茶の話だ。少しは詳しいと言ったじゃないか」
「ああ……最近はニルギリだな」
「いい趣味だ」
矢車は残っていたウィスキーを一息に飲み干した。
「コトー・ド・ラングドックを試してみろ」
「お前が奢ってくれるならな」
「いいだろう」
新しいウィスキーの小瓶を開けて中身をロックグラスに注ぐ。それを持ち上げた時、蓮がブランデー入りのワイングラスを矢車に差し伸べた。
「乾杯だ……
木野薫に」
矢車は一瞬驚いたが、すぐに唱和した。
「……天道総司に」
「
城戸真司に」
「
加賀美新に」
「あきらちゃんに」
「明日夢くんに」
「霞のジョーに」
「津上翔ーに」
「響鬼って男に」
「
橘朔也に」
「
北岡秀一に」
「
園田真理に」
二人がグラスを合わせた時、背後で誰かが呟いた。
「くたばれ、神崎……」
巧が枕にしていたシャツを抱えて寝返りを打つ。
「来いよ、ぶっとばしてやる」
どうやら寝言だったらしい。二人は苦笑とともにグラスを口に運んだ。
飲み終えてグラスを置いた時、蓮は奇妙な音に気づいた。よく聞くと、矢車が僅かに鼻歌でラジオから流れる旋律を追っている。
「お前、酔ったな」蓮は窓際のくずかごを足で引き寄せた。
「そんなことはない」
「実は酒癖悪い、とかは勘弁しろ。付き合いきれん」
空になった瓶を端からくずかごに放り込む彼に、唐突に矢車が訊ねる。
「お前……今、俺を嗤ったか?」
「別に」
矢車は彼のほうを横目で見やったきり、再びグラスの中身を煽った。