『第6研究室の住人』
季節は春と夏の境目あたり、太陽光が緩やかにその輝きを強めはじめた今日この頃。
窓の外でチュンチュンと仲良さげに戯れる2羽の雀をぼんやり眺めながら、僕は淹れたてアッツアツの
ホットコーヒーをちびちび飲んでいた。
うあー、にっが。ブラックコーヒーの美味しさっていうのを理解するには、僕はまだまだ人生経験が足
りてないみたいだ。コーヒーが似合う渋い男への道のりはどうやら程遠いな。でもこの苦みと熱さが、今
日一日を生きるための適度なやる気を注入してくれる。
気のせいかもしれないけど、少し頭も冴えて、回転が良くなるような気がするし。
さて、じゃあ気が引き締まって、2羽の雀も仲良くどっかへ飛び去ったということで。
ERDOには現在僕が知っている限り、大きく分けて3つの部門がある。
一つはもちろん僕や
ドクトルJが所属する研究部門。説明するまでもなく、能力そのものや特定の能力
者の研究を行うための部門だ。
「助手くん」
二つ目は諜報部門。前にも言ったことがあるかもしれないけど、能力を研究している組織や団体っての
は、僕たちERDOだけじゃないわけ。そういう他の能力研究組織の動向や活動状況といった情報を収集して
くるのが、この諜報部門の仕事ってわけだ。
「ねえ、助手くん」
最後に特務部門。これについては正直よくわからない。ほとんど推測になってしまうけど、他の能力研
究組織には、反則レベルの能力を持つ戦闘に特化した能力者がいたりするらしい。そんなのに襲撃でもさ
れようもんなら、僕やドクトルJなんて象に踏まれるアリのように無力だろう。
「助手くんってば」
特務部門は、そういう連中とも互角に渡り合えるような、いわゆる戦闘に特化した集団だっていう認識
を、現状僕は持っている。
まあ要するに、あまりお近づきにはなりたくない、関わりたくない部門ってわけだ。
「エージェント・ジョッシュくん」
「ああもうドクトルJ! なんですかさっきから! 人が考え事してる時に! その恥ずかしい呼び方は
やめてください!」
「お、効果てきめんだね。遥ちゃん様様だな」
ヘラヘラしてるよこの人。せっかくERDOについての話が盛り上がって来たところだったのになあ。まっ
たくもう、空気読めないんだからこのドクトルJめは。今度銀縁眼鏡のレンズ抜きとっといてやろう。
「ジョッシュくん、いきなりで悪いんだけどさ。今からひとっ走り、第6研究室にお邪魔してきてくれない?」
「普通に呼んでください」
「助手くん、いきなりで悪いんだけどさ。今からひとっ走り、第6研究室にお邪魔してきてくれない? って
いうかしてきて。はいこれ持って。じゃ頼んだよ」
さっきとほとんど同じセリフを口走りながら、分厚い茶封筒を僕に押しつけて、有無を言わさずくるり
と背を向ける長身の中年。こういう時の手際は恐ろしくスマートだ。まったく、ドクトルJのくせに。
ま、やれって言われればそりゃやりますよ僕だって。これが僕の仕事なんだから。
第6研究室に出向くのはちょっと久しぶりだし、せっかくだからお土産でも持って行こうか。そう思っ
て研究室を見渡すと、まさにうってつけのアイテムを発見してしまった。
ドクトルJがお昼のおやつ用にと、かなり楽しみに取ってあるらしい苺大福4個入り。素晴らしい。苺大福、
君に決めた。
ドクトルJ、最近甘いもの食べすぎだから、少し自重したほうがいいですよ。そう心の中で呟きながら、
茶封筒と大福を手に、僕は第1研究室を後にした。
尖崎主任のエピソードの時に言ったように、研究部門の主任たちはどうにもおかしい人たちが多い。第6研
究室の主任さんも、まともな人だとは何百歩譲っても言い難い。彼らを見ていると、優秀な人間っていうのは
どこかしら変な部分、理解できない部分を持ってなきゃいけないってことになってるんじゃないかとすら思う。
なんて考えてる間にもう着いちゃったよ第6研究室。考え事してると時間も距離もほんとあっという間だよ。
扉には『在室中よ(はあと)』の掛札。はああ。ため息しか出ねえ。これが『ざんねぇん。外出中よ(キス
マーク)』だったらどれほど幸せだったか。
渋々、心の底から渋々、僕はインターホンに手を伸ばす。残り1センチのところで、一つ思いっきり深
呼吸。よし、行くぞ。鋼となれ、
片桐真悟!
ぽちっ。気の抜ける感触を残して、インターホンが鳴る。数秒の間。
『はっ、はいっ! どちら様でしょうか!?』
少し焦っているような動揺しているような、張りのある若い女性の声が応答してくれた。久しぶりに聞
くけど、確かここに来た時はいつも応対してくれる彼女だとすぐにわかった。
「橘川さん。第1研究チームの片桐だけど。届け物があるんだ。今大丈夫かな」
『あ、片桐さんですか? お久しぶりです! ええっとそれがですね、あんまり大丈夫ではな――って、
きゃあ! 主任! ダメです鍵開けちゃ!』
橘川さんの悲鳴とともに、インターホンはブツッと途切れた。それと同時に、扉の
ロックが解除される
音が確かに聞こえた。
「……朝っぱらから、すでに宴もたけなわってわけか。はああ」
正直帰りたい。この扉を開けたくない。でもここまで来てそれはもう野暮ってもんだ。僕はそこまでヘ
タレじゃない。……そのはずだ、たぶん。
なんて御託はいい。さあ行くぞ片桐真悟。その心を鋼に変えて。その体を鉄となして。
最後にそう精神統一をして、僕は第6研究室の扉を開いた。
「ぷわっ!?」
第6研究室に足を踏み入れた瞬間、僕の顔面目がけて飛来する物体。咄嗟過ぎて避けることもできなかっ
たけど、直撃しても特に痛みはなかった。
それもそのはず、手にとってみると、それは滑らかな生地でできた黒い布だった。さらに広げて見てみ
ると、それはいわゆる「パ」で始まって「ツ」で終わる3文字の、黒いシルクの布だった。しかも妙な温も
りを感じるんだけど、いや、たぶん気のせいだろう。
「しゅにーんっ! それはいけませんっ! 全裸はダメです全裸はっ!」
「な~に言ってるのよ! 人間以外の生物はひっく、み~っんな裸で生活してるれしょーが! 人間らっ
てうぃっく、生まれてくる時は裸なのよ! 恥ずかしがるほうがへっぷ、おかしいのよ! 不自然なのよ!
そうなのよ! さ、そういうことらから! 薫ちゃんもてきぱき脱ぎなしゃい!」
「ちょっ、主任っ! やめてください! 裸で迫って来ないで! あっこら、さらにお酒飲まない!」
黒いシルクのセクシーなパンツ(かなりの確率で脱ぎたてほやほや)を右手に握りしめ、僕はこの深夜
番組でやってそうな下劣なコントを茫然と眺めていた。
声をかけていいものかどうか、その判断をつけかねる。パンツ(まだまだ人肌)を握りしめている時点
で僕が変態と思われる危険は大いにあり得るけども、かといってこのまま『すっぽんぽんの酔っ払い女性
に、若い女の子が同じくすっぽんぽんに剥かれる絵図』をただ眺めていても、やはり僕は変態の烙印を押
されてしまうんじゃないだろうか。
どうしたものかと頭をひねっていると、向こうの若い女性――さっきインターホンで応対してくれた
子――
橘川薫(きっかわかおる)さんが、先に僕に気づいてくれた。いや、気づいちゃった。
「か、片桐さん!? 今はダメだって言ったじゃないですか!」
橘川さんのその反応を受けて、彼女のブラウスをひん剥こうとしていた酔っ払いの痴女が、くるりと頭を
こちらに向けてきた。その目はとろんと蕩け、顔はほのかに紅潮している。完全に出来上がってる人の顔だ。
碓氷透子(うすいとうこ)29歳。ERDO研究部門第6研究チーム主任。昼間を飛び越えて朝っぱらからアル
コールを浴びるように飲んでは泥酔を繰り返し、お決まりのように衣服をキャストオフするある意味迷惑、
でもちょっぴり嬉しいそんな女性。
「ぎゃああははははあーっ! しんちゃんじゃな~い! 久しぶりよね~! 最近全然来てくれないんらもん、
透子さんちょっと寂しかったのよぉ~!」
バカでかい声かつすっかり怪しい呂律でそう言いながら、碓氷主任は顔だけじゃなく、体全体で僕のほう
に向き直った。はい、首から下は見ない見ない。見ちゃダメ見ちゃダメ。これだけ乱れてる人を前にすると、
逆に自分は冷静でいられたりするもんだ。
「橘川さん、お願いだから碓氷主任に服を着せてよ。もうせめて葉っぱとかでもいいから」
「葉っぱ……すみません、手頃な葉っぱがありませんので……。と、とりあえず主任、白衣を羽織りましょうか」
橘川さんはとっても真面目な女性だ。葉っぱが冗談だと思ってくれないのもそれゆえだ。
「いや~ん、裸に白衣なんてぇ……破廉恥ねぇしんちゃんってばほんとにもう」
いや、僕が要求したわけじゃないから。酔えば必ず脱ぐあんたのほうがよっぽど破廉恥でしょうが。
「さあさしんちゅわん。そんなとこにぼけっと突っ立ってないでぇ、こっち来て一緒にぱぁーっと飲みましょー!
お酒ならいくらでもあるわよぉーっ!」
碓氷主任のこの言葉は、冷蔵庫に酒の貯蔵がいくらでもある、っていう意味ではたぶんない。
「主任! いい加減にするんです! はいお水! これを飲んで頭を冷やしてください!」
「うっわあもうさすがわたしのかわいいかわいい助手ちゃん! わざわざお酒持ってきてくれるなんてぇ!
ありがとありがとマイスイーテスト薫ちゃんっ!」
「あ、ああっ! しまったぁ! お水がぁ!」
橘川さんの手にあった透明なミネラルウォーターは今、黄金色の輝きの中に無数の気泡を含み、その上に
白い泡の層を持つ、日本のお父さんたちにささやかな至福の時をもたらす液体へと変化を遂げていた。
碓氷主任の昼の能力、『どんな液体でもビールに変える能力』によって。
橘川さんの手から原材料ミネラルウォーターのビールをふんだくると、それを高らかに掲げながら、素肌
に白衣という変態的装いの痴女がノリノリで宣言する。
「さあ~2人とも飲め飲めぇ~っ! お酒を飲むのはとっても楽しい! みんなで飲めばっも~っと楽しい!!
いぇいえ~い! んぐっんぐっぷはぁーっ! うぅ~んビールサイコー! う、うぷっ」
酒は人をダメにする。この研究室を訪れた日の僕の研究日誌には、必ずこの一文が書き添えられている。
今日の記録にも例外なく、この戒めを記すことになりそうだ。
『第6研究室の住人』おわり
登場キャラクター
最終更新:2010年07月16日 19:43