司空図 しくうと
837-908
唐末の詩人・官吏。虞郷(もと山西省臨猗県)の人。字は表聖。
司空輿の子。869年の進士。礼部侍郎
王凝にみとめられ、さらに故宰相
盧攜にその高節を知られて厚遇され、諸官職をへて礼部郎中にすすんだ。
黄巣の乱にさいし、長安より僖宗が蜀地に脱出すると、彼はこれにしたがおうとしたがおよばず、しりぞいて河中に帰った。のち僖宗帰還のさい鳳翔において召されて知制誥となり、ついで中書舎人に任ぜられたが、その年また僖宗が宝雞(陝西省)のがれるなどの難がおこり、これにまたしたがい得ず、再び河中に帰った。その後、昭宗からしばしば召されたが病と称して行かず、中条山(山西省)王官谷に隠退し、みずから耐唇居士と号して遊詠属文をことした。
朱全忠(後梁の太祖)が唐に代わると、礼部尚書として彼を召そうとしたが応ぜず、908(開平2)年哀帝の殺されたことを聞き食を断って殉じた。唐朝の崩壊期でまた文学も衰えた唐末において気品のある傑出した詩を作った。『司空表聖文集』10巻、詩集5巻が伝わっている。また彼の著「二十四詩品」は詩の意境を24品にわけ、それぞれに四言の顔語12句をもって象徴的に解説したものである。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』4(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2023年09月26日 00:48