劉稹 りゅうしん
?-844
中唐の藩鎮(沢潞節度使)。劉従素の子。沢潞節度使
劉従諌の甥で義子。
劉悟の孫。劉従諌に後継としてたてられ、会昌三年(843)劉従諌の死とともに軍務を継承し、朝廷に認可を求めたが許されず、翌年宰相
李徳裕の建議により討伐軍が組織された。天徳防禦使
石雄、成徳軍節度使
王元逵、魏博節度使
何弘敬、河中節度使
陳夷行、河東節度使
劉沔、河陽節度使
王茂元の侵攻を受けて戦況は大いに不利となり、自軍の将の
郭誼、
王協、
董可武に暗殺され、首は長安に送られ、三代続いた劉氏による沢潞節度使支配は終了した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年08月01日 00:18