李淵
565-635
唐初代の皇帝(618-626)。姓名は李淵。字は叔徳。廟号は高祖。諡は大武皇帝。『旧唐書』高祖紀にその先祖は隴西・狄道(甘粛省臨洮県方面)の人で、李淵は五胡十六国時代の西涼の武昭王李暠七代の孫にあたり、その系図は
李嵩→
李歆→
李重耳→
李熙→李天錫(『新唐書』巻一高祖紀は
李天賜)→
李虎→
李昞→李淵と見え、また『新唐書』高祖紀は李淵を隴西・成紀(甘粛省天水市方面)の人としている。すなわち、唐室の出身は 隴西の李氏であるが、これにたいして漢人の出身ではなく、胡族の系統で、叱李氏からでたものであるとか、漢人の系統ではあるが隴西の李氏ではなく、趙郡の李氏からでて胡族の血を交えたものである、との説がある。その系図もどこまで確実であるか明らかでなく、李虎以前は唐朝の自称らしく、李虎の時に隴西の李氏と称し、李嵩をその先 祖としたものらしい。李虎は、西魏に仕えて隴西郡公に封ぜられ、宇文泰を中心とする八柱国の一に数えられ、北周になって唐国公を追封され、その子李昞がそれをつぎ、彼とその妻である胡族の名門独孤信の次女との間に生まれたのが李淵である。李淵は565(北周の武帝、天和三)年長安 に生まれ、七才で唐国公をつぎ、隋の
文帝の皇后(文献独張皇后)が母の妹である 隋の建国後、千牛備身に補され、ついで譙隴岐3州刺史となった。
煬帝の時、殿内少監から衛尉少卿にうつり、高句麗の遠征に軍糧の運送を監督し、
楊玄感の乱が起こると関右十三郡の諸軍事を統轄した。当時の社会の混乱にさいし、李淵は野心をいだいて地方の豪族とむすび、大いに人望をえたが、煬帝に疑われてその目をくらますのに苦心し、616(大業十二年)右驍衛将軍、翌年太原留守(長官代理)となって、晋陽(山西省太原市)におり、突厥の南侵をおさえて群盗の鎮撫にあたった。このころ反乱が全国的に拡大して群雄の割拠を見たが、煬帝は江都(江蘇省揚州市)の離宮にあり、社会の混乱にもかかわらず、宴遊を事としていたので、李淵は翌年次子世民(
太宗)にすすめられて挙兵し、突厥の援助をえて長安をとり、煬帝の孫
恭帝楊侑をたててはるかに煬帝を太上皇とし、618(義寧二、武徳元)年煬帝が
宇文化及に殺されると、恭帝から位を譲られて国を唐と称し、長安を都とした。李淵の挙兵について、『旧唐書』巻五十七裴寂伝に、晋陽宮の副監の
裴寂がひそかに晋陽宮の宮人を李淵に侍せしめ、世民がそれをもって父を脅かし、これが暴露すれば族誅されるであろうといったので、李淵が挙兵を決意したのだとあり、清の趙翼はこの事実をあげ、李淵の挙兵を女色によるものとしている(『二十二史劄記』巻十九、唐女禍)。しかし李淵、世民父子は、はやくから隋に代わる野心をいだいて、陝西、甘粛方面の豪族や官僚らとむすんでいたのであって、李淵が挙兵したとき、裴寂は彼に軍費を給し、晋陽令の
劉文静、晋陽郷長の
劉義節や
唐倹・
許紹・
長孫順徳・
温大雅・
劉公基・
劉政会らの門閥や豪族が李淵にしたがい、ついに隋末の混乱に不安を感じた地方豪族らが多数これにおうじたのであった。李淵には、22男19女あり、そのうち、
李建成・李世民・
李玄覇・
李元吉および
平陽公主は
太穆竇皇后が生み、長子李建成が皇太子にたてられたが、彼は唐の建国に力のあった李世民をねたみ、626(武徳九)年李元吉とむすんで彼を殺そうとし、かえって長安宮城北門の
玄武門で討たれ、八月李淵は位を李世民に譲って太上皇となり、635(貞観九)年七十一才で没した。年号は武徳。陵名は献陵。
后妃
子女
年号
武徳 618-626
宰相
本紀
参考文献
『アジア歴史事典』3(平凡社、1960)
外部リンク
最終更新:2024年10月22日 02:20