丘神勣 きゅうしんせき
627-691
初唐・武周の武将・酷吏。
丘行恭の子。
丘和の孫。高宗の永淳元年(682)に左金吾衛将軍となり、高宗が崩ずると、武后の命を受けて章懐太子
李賢を殺害したが、畳州刺史に左遷された。武后に信頼されて
周興・
来俊臣とともに詔獄のことをつかさどった。垂拱四年(688)に博州刺史の琅邪王
李沖が挙兵すると、清平道大総管となって討伐に向かったが、李沖はすでに州人に殺害されており、丘神勣が到着すると、李沖を哀悼して喪服を着て丘神勣を出迎えたから、怒って彼らを斬り、千余家を殺戮した。左金吾衛大将軍に任命されたが、天授二年(691)に謀反の罪で誅殺された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年01月03日 12:05