巻二百九 列伝第一百三十四

唐書巻二百九

列伝第一百三十四

酷吏

索元礼 来俊臣 来子珣 周興 丘神勣 侯思止 王弘義 郭弘霸 姚紹之 周利貞 王旭 吉温 羅希奭 崔器 毛若虚 敬羽


  太宗が天下を定めると、心を政治における判断に留意し、州県が死刑の執行を議論する際には三度覆奏させ、京師では五度覆奏させた。獄で死刑が決定すれば、尚食は膳を下げて音楽を止めた。晩年に到っても、天下の刑罰はしばらく据え置かれた。この時、州県に良吏はいたが、酷吏はいなかった。

  武后は高宗・中宗が柔弱であることにつけ込んで、天子の権を盗み、部下で自身に異を唱える者を恐れて、群臣を脅かし掣肘しようとし、宗族を取り除き、そこで気まま勝手にお上に緊急事態であるとして大獄をおこした。当時、天下で変事を上奏する者は、全員公用の車に乗り、所在地から護送されて京師に到り、客館に滞在し、身分が高い者は封爵を受け、低い者は賜物をいただいた。それによって天下に変事の上奏を勧めたのである。ここに索元礼来俊臣の徒は、武后の密かな心内をおしはかって、入り乱れては勃興し、残酷な表情で、縉紳にかみつくことは犬豚のようであり、叛徒の肉の悪臭は道路にまで達し、無実の者の血は刀や鋸から離れて流れ、忠義の臣や貴族権臣は、朝廷で身を保つことができなかった。武后はそのため自分のほしいままにし、閨を出ずに天命はやがて遷り、なお臣下に配慮して罰しようと思わなくても、六道使が罰するためすでに出発してしまっているのである。

  載初年間(690)になると、右台御史の周矩が武后を諌めて「このごろ姦佞なやからが人の秘密をあばき、それが日常茶飯事として行なわれている。犯罪を吟味する役人は、極めて残忍な取り調べをもって功となし、ありもしない罪をさぐり出してはその才能をきそい、苛酷であることをもって自慢しあっている。囚人の耳を泥でふさぎ頭を覆い包み、肋骨をくじき竹の串を手足の爪に刺し、頭髪で身体をつり下げて火で耳をいぶし、大小便の中に寝起きさせ、四肢や身体を傷つけそこない、獄中に放置してただれ腐らせ、これを「獄持」とよんでいる。飲食をあたえず、昼も夜も眠られないようにして、これを「宿囚」とよんでいる。このように、残虐をほしいままにし暴威を逞しくして、これを見て楽しみとしている。無実の罪をきせられた者が、もし死刑になることを求めさえすれば、いつでも死刑になることができる。およそ国を治める者は、仁徳をもって根本とし、刑罰をもって補助とする。周は仁徳をもって栄え、秦は刑罰をもって亡んでいる。陛下が調査くださりますように」と述べたから、武后は悟るものがあり、獄は次第にやみ、酷吏も次第に罪を得て去っていった。

  天宝年間(742-756)の後、粛宗・代宗の間、政治的案件は山積みとなり、邪な臣下は威を振るい、彼らねじ曲がった大悪人は、非常に酷薄・残酷さをもってしたが、それでも武后の時のようにあえて猛然と殺戮するようなことはできなかった。

  ああ!吏はあえて酷吏となろうとしなかったのに、当時はこれを誘って酷吏としたのだ。来俊臣のような輩は、利を惑わして命をすて、心内は勢いが盛んであったから、張湯・郅都の残り滓であったのだろう。


  索元礼は、胡人であり、生まれつき残忍であった。はじめ徐敬業が叛乱の兵をおこし、武后は心配し、大臣をして常に緊張状態にあり、大獄によって自身と異にする者を除外しようとした。索元礼は武后の思いをおしはかって、そこで上書してそのような急変になることを告げたから、召し出されて遊撃将軍に抜擢され、推使となった。そこで洛州牧院に制獄をつくり、鉄籠をつくって囚人の首を繋ぎ、それだけではなく楔を加え、脳が裂けて死に至った。また横木を拘禁した手足にかけて転がし、「曬翅」と名付けた。あるいは囚人を梁の上から吊るし、石を頭に括った。一人の囚人を訊問するのに、根底を窮い、連帯する者は数百に到り、それでも終わることがなかったから、衣冠の者たちは恐れた。武后はしばしば索元礼を引見して称賛して賜物したから、権勢が張り、そのため死罪を議される者が非常に多かった。当時、来俊臣周興が同じように職務に邁進し、天下はこれを「来索」と言った。薛懐義が貴くなると、索元礼は養って仮子とし、そのため武后に信認された。後に索元礼は苛猛のため、また賄賂を受け取ったため、そして武后は索元礼が衆の信望を得ているのを不服に思い、吏に下げ渡した。服役する前に、獄吏が「あなたの鉄籠をとってまいりました」と言ったから、索元礼は罪を自白し、獄中で死んだ。


  来俊臣は、京兆万年県の人である。父の来操は、博徒であり、里人の蔡本と親しかった。蔡本は賭博で数十万もの負債があって支払うことができず、来操はそこで肩代わりしてその妻を自分のものとしたが、すでに妊娠しており、来俊臣を産み、その姓をおかしたのである。

  生まれてつき性格は残忍で、反抗を喜び、生業に就かなかった。和州で居候して盗賊となり、捕えられて獄に送られた。獄中で変事を上言したが、刺史の東平王李続が検討してみると事実ではなかったとして、杖百の刑を受けた。天授年間(690-692)、李続が罪科によって誅殺されると、来俊臣は上書によって召されて謁見され、自ら以前に琅邪王李沖が叛いたとの上言を行ったが李続に抑え込まれたと述べた。武后はよしとし、侍御史に抜擢し、詔獄をつかさどり、しばしばお褒めのお言葉を頂戴した。武后は密かにその残忍さをほしいままにし、群臣を製紐して脅かし、前後千もの一族を殺した。生活上の些細な罪でも、皆獄に入って死んだ。左台御史中丞を拝命し、それによって群臣らはさらに息を潜め、目配せで会話するようになった。

  来俊臣は侯思止王弘義郭弘霸李仁敬康暐衛遂忠らを引き立て、密かに不逞の輩百人を集め、流言飛語させて公卿を無実の罪に陥れ、急変を上奏した。大捕物があるたびに、千里であっても同時に急ぎ出発し、報告に違いがなく、その当時は法の網にかけられたといい、牒の署名に「請うらくは来俊臣、或いは侯思止に付さん。推実必ず得ん」とあり、武后はこれを信じた。詔して麗景門に別に獄を設置し、来俊臣らに専ら審議させてしまえば、百のうち一度も許されることはなかった。王弘義は麗景門を戯れて「例竟」と呼び、入ってしまえば例として全員竟(おわ)ってしまうからである。来俊臣はその部下の朱南山万国俊とともに『告密羅織経』一篇をつくり、詳細に一網打尽にし、首謀者も末端も全員、取調べさせることにあった。来俊臣は囚人を訊問するのに、罪状の軽重を問わず全員鼻から酢を注ぎ込み、地中の牢に閉じ込め、または寝ると溝で溺れ、または食べ物を与えなかったから、囚人は衣の綿を囓って食べ、大抵は死ななければ出られなかった。赦令が下されるたびに、必ず先に重罪の囚人を殺してから減免の詔を示した。また大枷をつくり、それぞれ名称があった。一を「定百脈(全身の血の巡りを止める)」、二を「喘不得(息もたえだえになる)」、三を「突地吼(地面に身体を打ち付けて大声で喚き散らす)」、四を「著即臣(直ちに罪状を認める)」、五を「失魂胆(胆を失い、気が転倒する)」、六を「実同反(反逆に加担したことを認める)」、七を「反是実(反逆を事実として認める)」、八を「死猪愁(断末魔の豚の苦しみ)」、九を「求即死(ひとおもいに殺してくれと求める)」、十を「求破家(家族とともに皆殺しにしてくれと求める)」と呼んだ。後に鉄を頭にかぶせ、枷をつけた者を地面に転がし、しばらくすると絶命した。だいたい囚人がやってくると、先に械をつけた前の囚人を新しい囚人に見せ、恐れ慄かない者はおらず、全員が自ら誣告であっても自白した。

  如意年間初頭(692)、大臣の狄仁傑・任令暉・李遊道袁智弘崔神基盧献らを誣告して獄に下した。来俊臣は専ら大臣を誅殺して功としてきたが、そこで奏上して囚人に制を下すことを願い、一回の訊問で自白した場合は、法で死を減ずべきであるとした。狄仁傑らはすでに死罪が論ぜられ、執行の日を待つだけになり、しばらく繋がれていたが、狄仁傑は子を遣わして帛書を持って法がまげられていると主張した。武后はこの書を見て愕然とし、来俊臣を責め立てた。来俊臣は「この囚人からは巾服を奪っておらず、どうして罪に服するのをよしとしましょうか」と答え、武后は通事舎人の周綝に査察させることとしたから、突如、仮に狄仁傑に衣冠を着せて西廂に立たせた。周綝は来俊臣を恐れ、東廂を視察するだけで立ち去り、あえて報告しなかった。これより以前、宰相の楽思晦は来俊臣のためにその家を皆殺しにされ、ただ九歳の子が司農寺に隷属していたが、緊急事態であるとして武后に召見された。「来俊臣は凶暴かつ残忍で、君主を欺き不道です。もし陛下が叛いたとの報告があって付されれば、大小となくすすべて詔の通りになります。臣の父は死に、一族は皆殺しとなってしまい、私とて生を求めているわけではありません。ただ惜しむところは陛下の法が来俊臣のために弄ばれていることだけです」と言い、武后は心に悟るものがあり、これによって狄仁傑の六族は全員放免された。また大将軍の張虔勗・内侍の范雲仙が取り調べを受け、張虔勗は法を枉げられているのに堪えられず、大理寺の徐有功に訴えたが、来俊臣は衛士をして斧で張虔勗を滅多打ちにし、范雲仙はこの事を先帝睿宗に陳述したが、来俊臣は命じて范雲仙の舌を切り、皆即死した。人々は恐れて息を潜めた。

  しばらくして、来俊臣は商人の金を納めたから、御史の紀履忠に弾劾され、獄に下され、罪状は死刑相当であった。武后は来俊臣が緊急事態にあたってきたのを忠義であるとし、誅殺させないこととし、死刑を免じて民とした。長寿年間(692-694)復帰して殿中丞を授けられたが、賄賂を罪とされ同州参軍事に貶され、貶地で気まま勝手に過ごし、同僚の妻を奪い、またその母を辱めた。にわかに召されて合宮県の尉となり、洛陽県の県令に抜擢され、司僕少卿に昇進し、司農寺の奴婢十人を賜った。官戸には男妾はいなかったが、吐蕃(西突厥の誤り)の酋の阿史那斛瑟羅に婢があって歌舞をよくしたから、その党をして謀反を告発させて、その婢を求めたが、諸蕃の長数十人が、耳を割いて顔を切り裂いて冤罪を訴えたから、かろうじて疑いが解かれた。綦連耀らが謀反をはかり、吉頊が来俊臣に告発し、数十族を殺した。奸計を暴いた功績を独占しようとし、そこで吉頊も法にてらして処罰しようとしたから、吉頊は大いに懼れたが、武后に謁見を求めて自ら自白したから、免れた。来俊臣は司刑史の樊戩を誣告し、謀反の罪によって誅殺したが、その子が宮中に訴えたが、役人はあえて取り上げる者はいなかったから、そこで子は自ら割腹した。秋官侍郎の劉如璿はそれを見て涙を流すと、来俊臣は奏上して同罪であるとしたから、劉如璿は自ら年老いたから涙が流れたのだと弁明し、吏は論じて死罪の絞にあたるとしたが、武后は死をゆるして漢州に流した。万歳通天年間(696-697)の上巳の日、その与党とともに龍門に集い、搢紳の名を石に題したが、拒んで死ぬべき者は先に告げ、李昭徳を拒んで搢紳の中に入れなかった。ある者がそのことを李昭徳に告げ、李昭徳は来俊臣ら悪者をお縄にしようと謀ったが、未だに発覚しなかった。衛遂忠は龍門に行かなかったとはいえ、非常に巧妙な言辞があり、普段から来俊臣と親しかった。それより以前、王慶詵の娘は段簡と結婚していたが美しく、来俊臣は詔を偽って無理やり娶った。ある日、妻の一族と一同に会し、酒宴となったが、衛遂忠もやって来たのに門番が通さなかったから、衛遂忠は直接入ってきて来俊臣を漫罵し、来俊臣は妻が見られて辱しめられるのを恥じ、殴るよう命じて庭に縛り上げた。衛遂忠がいなくなると縄をといたが、これより仲が悪くなった。妻もまた恥じ入り、自殺した。段簡には妾がいてやはり美しかったが、来俊臣は人を遣わしてほのめかしたから、段簡は恐れ、妾を来俊臣に帰属させた。

  来俊臣は群臣があえて自分を排斥しないのを知っており、そこで謀反の意図があり、常に自らを石勒に匹敵するとしており、皇嗣(睿宗)および廬陵王(中宗)が南北の衙とともに謀反しようとしていると告発しようとし、そこで志をほしいままに操ろうとした。衛遂忠はその謀を暴いた。それより以前、来俊臣はしばしば武氏一族・太平公主張昌宗らの過失を指摘していたが、武后は暴かなかった。ここに到って武氏一族は怨み、共にその罪を証明した。詔があって西市で斬られた。年四十七歳。人々は皆互いに喜び合い、「今から背中をつけて寝床で寝られるぞ」と言い、争って目を抉り、肝を摘出し、その肉を塩辛にし、一瞬で尽きてしまい、馬でその骨を踏ませて、一つとて残る物はなかった。家財は没収された。

  来俊臣が用いられるようになると、天官に託して選者二百人あまりを得たが、失脚すると、役人に自首した。武后がこれを責めると、「臣は陛下の法を乱しました。身は誅戮を受けなければなりません。来俊臣をたのみ、臣の家を覆ったのです」と答えたから、武后はその罪を赦した。


  当時、来子珣周興なる者がおり、皆万年県の人であった。永昌年間初頭(689)、来子珣は上書して、左台監察御史に抜擢されたが、学がなく、言葉は野卑かつ下品であったが、武后は獄の管理を任せ、多く武后の意思に従ったから、そのため武姓を賜わり、字を家臣とした。雅州刺史の劉行実兄弟の謀反を誣告して、誅殺されると、今度は殺した者の父の墓を掘り出した。遊撃将軍に遷った。常に半袖の錦を着ていたが自身は平然としていた。にわかに愛州に流されて死んだ。


  周興は、若い頃は法律を習い、尚書史積から秋官侍郎に遷り、しばしば獄のことを決し、文は深く険しく、みだりに数千人を殺した。武后が政治の実権を握ると、尚書左丞を拝命し、上疏して唐の宗正寺の属籍を撤去するよう願った。この時、左史の江融に美名があり、周興は江融を名指しして徐敬業とともに同じく謀反を企んでいるとし、市で斬った。刑に臨んで、武后に召見されたいと願ったが、周興は許さなかった。江融は叱って「私が死んで形がなくなっても、お前を許さない」と言い、遂に斬られたが、死体は震えて歩き、刑を執行する者が蹴り飛ばしても、三度倒れて三度行った。天授年間(690-692)、ある人が来子珣・周興と丘神勣が謀反を企んでいるとし、来俊臣に詔して事実かどうか訊問させた。それより以前、周興がまだ誣告されているとは知らない時に、まさに来俊臣と向かい合って食事をしていた。来俊臣が、「囚人の多くが自白しませんが、どうすればいいでしょうか」と言うと、周興は「簡単じゃないか。大甕の中に入れて、炭で周りを炙れば、どうして自白しないことがあろうか」と答えたから、来俊臣は「いいですね」と言うや、命じて甕を取り出して火で炙り、おもむろに周興に「詔によってあなたを取り調べることになりました。これを試してください」と言ったから、周興は冷や汗をかいて、叩頭して罪を自白した。詔によって丘神勣を誅殺し、周興を赦して嶺表に配流としたが、道往く途中で恨みに思う人によって殺された。


  丘神勣は、丘行恭の子であり、左金吾衛将軍となった。高宗が崩ずると、武后は章懐太子李賢を巴州で殺害させ、罪を丘神勣に帰させ、畳州刺史に左遷した。にわかにもとの官に復官し、来俊臣らを助けて酷獄を行ない、遂に重用された。博州刺史の琅邪王李沖が挙兵すると、丘神勣は清平道大総管を拝命してこれを討伐した。州の人が琅邪王を殺すと、素服で出迎えたが、丘神勣は全員を殺害し、千族あまりにも及び、そこで大将軍を拝命した。


  侯思止は、雍州醴泉の人である。貧しかったのに、怠けて生業に就かず、渤海の高元礼の奴婢となり、性格は奇怪で無頼であった。恒州刺史の裴貞が吏を笞打ち、吏は怨みをつのらせた。侯思止に教えて舒王李元名と裴貞が謀反しようとしていると告発させ、周興を担当として訊問させ、全員が一族皆殺しとなり、侯思止は遊撃将軍を拝命した。高元礼が恐れ、引き入れて同座し、密かに「お上は人を用いるのに通例によらない。もし君が字を識らないのではと問われれば、「獬豸(狛犬)は学がありませんがよくお触れになられておられる。陛下は人を用いるのにどうして字を識ることがありましょうか」と答えなさい」と教え、しばらくもしないうちに、武后はやはり尋ねてきたから、侯思止はそのように答えると、武后は大いに喜んだ。天授年間(690-692)、左台侍御史に遷り、高元礼はまた「お上は君に家がないから、必ず謀反人から没収した邸宅を賜るだろう。そのときに「臣は逆臣を憎んでおり、その地に住むことを願いません」と辞退しなさい」と教え、そしてそのように内示があったから、教えられた通りに答えると、武后はますます喜び、恩賞は非常に厚かった。

  侯思止はもと人の奴婢であり、言葉は地方の訛があり、かつて魏元忠を取り調べた時、「しばらく白司馬を受けるか、そうでなければ孟青を受けるか」と言ったが、洛陽に白司馬坂があり、将軍に孟青棒がおり、琅邪王李沖を殺した者であった。魏元忠は罪を認めず、侯思止は引っ立てた。魏元忠はおもむろに起き上がって、「私は驢馬に乗って落馬し、足を鐙に引っ掛けたまま引きずられるように、引っ立てられるのか」と言うと、侯思止は怒り、また引っ立てて「制使を拒むというのか」と言い、死から逃れようとしているのかと思っていた。魏元忠が罵って「侯思止よ、私の頭が欲しいのか。それなら鋸で斬るんだな。そもそも叛いたなんて認めることはないからな。お前は御史の地位にあるが、今朝廷の礼儀で「白司馬」・「孟青」なんて言ってどうなるかわかっているのか。私でなければ誰がお前に教えるというのか」と言うと、侯思止は驚いて冷や汗が流れ、起き上がって謝って「あなたの教えを受けられれば幸いです」と言ったから、そこで連れて行って寝床に上がらせた。魏元忠はおもむろに座って、顔色は変わらず、獄からしばらくして出た。侯思止は田舎の訛で話したから、人々は真似して笑っており、侍御史の霍献可はしばしば嘲って侯思止を馬鹿にしていた。侯思止は怒って上奏し、武后は霍献可を「私が用いている人間を、どうして謗るのか」と責めたが、霍献可は詳しく侯思止の田舎言葉を奏上したから、武后もまた大笑いしてしまった。

  来俊臣はもとの妻を捨て、せまって太原の王慶詵の娘を娶り、侯思止もまた趙郡の李自挹の娘を娶ろうと願い出て、事は宰相に下げ渡されると、李昭徳が執政して不可とし、「来俊臣が王慶詵の娘を奪っているのが、すでに国家を辱めているというのに、あの野郎もまたそうしようとしているのか」と言い、搒(むちうち)して侯思止を殺した。


  王弘義は、冀州衡水の人であり、緊急の告発の奏上によって遊撃将軍に抜擢され、再び左台侍御史に遷り、来俊臣とともに残酷さを競った。暑い月に囚人を拘禁すると、別に狭い部屋をつくり、よもぎを積んでその上に毛氈を施すと、にわかに死んだ。自ら偽って、舎佗獄とした。州県に触文がわたるごとに、触文が来たところは震撼した。王弘義はそこで「我が触文は狼毒や野葛のようだな」と自慢した。それより以前、まだ賎しい身分であった時、傍らの捨てられた瓜を求めたが与えられなかったから、そこで文章を掲げて園に白兎がいると述べ、県はそのために衆を集めて追い回し、瓜の実や畑の畦は無惨なことになった。内史の李昭徳は、「昔は蒼鷹(郅都)という獄吏がいたと聞いているが、今は白兎御史がいる」と言った。

  延載年間初頭(694)、来俊臣が貶されると、王弘義もまた瓊州に流された。詔を偽って帰還したが、事件が発覚し、たまたま侍御史の胡元礼が嶺南に派遣され、襄州に行った時に、王弘義を取り調べた。王弘義は言葉に窮して「公と私は気質が同類ではないか。私に対するのにどうして厳しくするのか」と言うと胡元礼は怒って「私が洛陽県の尉であったとき、あなたは御史だった。私は今御史で、あなたは囚人だ。どこが気質が同類だというのか」と言い、杖殺した。


  郭弘霸は、舒州同安の人で、仕えて寧陵県の丞となり、天授年間(690-692)に武周革命となると、召見されることができ、自ら「徐敬業を征討したとき、臣はその筋を抜き取り、その肉を食べ、その血を飲み、その髓を絶ちました」と言うと、武后は大いに喜び、左台監察御史を授け、当時は「四其御史」と号した。再び右台侍御史に遷ったが、大夫の魏元忠が病となり、属僚が見舞いに訪れたが、郭弘霸は一人後から入り、心配そうに顔色を見て、大小便を観察し、そこで指を舐め、病の軽重を確かめ、「甘ければ病は治りませんが、今味は苦かったので、癒えるでしょう」と言い、非常に喜んだ。魏元忠はその媚びたさまを憎み、朝廷で語って暴露した。

  かつて芳州刺史の李思徴を取り調べ、拷問に堪えられず死んだ。後にしばしば李思徴が幽霊となって見え、家人に命じてお祓いをした。しばらくして李思徴が数十騎を従ってやって来たのが見え、「お前は法を枉(ま)げて私を陥れた。今お前の命をとりにきた」と言い、郭弘霸は恐れ、刀をひっさげて自ら腹を刳って死に、しばらくして蛆が湧いて腐った。当時、大旱魃となり、郭弘霸が死ぬと雨が降った。また洛陽橋が長い間壊れていたのが、ここに到って完成した。都人は喜んだ。武后は群臣に「外でめでたい事でもあったのか」と尋ねると、司勲郎中の張元一が「この頃三つの慶事がありました。旱魃でしたが雨が降りました。洛橋が完成しました。郭弘霸が死にました」と答えた。


  姚紹之は、湖州武康県の人である。はじめ鸞台典儀から累進して監察御史に遷った。中宗の時、武三思が勢いをたのんで謀反を謀ったとして、王同皎張仲之祖延慶らが謀殺しようとしたが、発覚して、捕えて新たに設けられた詔獄に送られ、姚紹之と左台大夫の李承嘉に詔して取り調べさせた。当初はその心情を尽くして許そうとしたが、たまたま宰相の李嶠らに勅して同じく訊問させることとしたが、宰相は禍を恐れ、ほぼ何もせず訊問しなかった。囚人は怒鳴って「宰相は武三思と繋がっている」と言い、李嶠らはしばしば李承嘉にひそひそ声で耳打ちしたから、姚紹之は心変わりして事情を顧みないこととし、そこで力士十人あまりを引き連れて囚人を引っ張って来て、その口を布で塞いで獄中に送った。張仲之に向かって「うまくいかないぞ」と言ったが、張仲之はそれでも頑なに武三思が謀反をおこすと述べていたから、姚紹之は怒り、撃ってその臂を折り、囚人が天に向かって「私が死んだとしても、お前を天に訴えてやる」と叫び、そこで肌着を裂いて束にし、ついに誣告して謀反とし、皆一族を死刑に処した。

  囚人たちが誅殺されると、姚紹之は意気軒昂で、朝野の注目を集め、左台侍御史に抜擢された。江左(長江南岸)に使いとして派遣され、汴州を通過したとき、録事参軍の魏伝弓を侮辱した。しばらくして、魏伝弓が監察御史となり、姚紹之が収賄の罪で、魏伝弓に詔して取り調べさせることとなった。姚紹之は揚州長史の盧万石に「私は最近魏伝弓を侮辱した。今取り調べに来ているが、私は死ぬだろう」と言い、獄で自白して、五百万を受託収賄しており、法では死罪に相当したが、韋皇后の妹の願いにより、死を減じられ、瓊山県の尉に貶された。にわかに逃げて京師に戻り、万年県の尉に追撃され、その足を折られた。さらに南陵県の県令を授けられ、員外に置かれた。開元年間(713-741)、括州長史同正となったが、州の政務に携わることができず、死んだ。


  周利貞は、その系譜は失われてわからない。武后の時に銭塘県の尉に任命され、当時、魚を捕ることを禁止されており、州の刺史は野菜を食べていた。周利貞はたちまちに良い魚を送ったが、刺史は受けとらなかった。周利貞は「これは捕った魚ではなく闌魚(養殖魚)です。公は何を疑っておられる」と言ったから、その理由を尋ねると、「たまたま漁をしている者を見ました。禽獣は獲られず、魚があるだけでした。闌(さえぎ)ってこれを得たのです」と答えたから、刺史は大笑いした。

  神龍年間(707-710)初頭、侍御史に抜擢され、権力者に迎合し、五王(崔玄暐張柬之敬暉桓彦範袁恕己)らはこれを憎み、京師から出されて嘉州司馬となった。武三思が禁中を乱すと、五王は謀って武三思を誅殺しようとしたが、密かに崔湜に語り、崔湜は裏切ってその計画を武三思に密告した。五王は貶され、崔湜は速かに彼らを殺すよう勧めたが、人望がなかったから、誰を使者とすべきか尋ねられた時、周利貞がよいと答えた。周利貞は崔湜の母方の従兄弟である。上表して摂右台侍御史となり嶺南に急派され、偽って敬暉・桓彦範・袁恕己を殺して帰還し、左台御史中丞を拝命した。しばしば仇として報復を狙われたが、しばらくして免れた。

  先天年間(712-713)初頭、広州都督となった。崔湜劉幽求を貶めて嶺南に流し、周利貞を唆して殺そうとしたが、桂州都督の王晙を頼って護られたから免がれた。周利貞は専横・搾取し、夷獠はその残虐さに苦しみ、皆蜂起して寇となったため、監察御史の李全交に詔して訊問させ、収賄の事実が発覚したから、涪州刺史に貶された。

  開元年間(713-741)初頭、詔して「周利貞および滑州刺史の裴談、饒州刺史の裴栖貞・大理評事の張思敬・王承本、華原令の康暐、侍御史の封詢行、判官の張勝之・劉暉・楊允・衛遂忠・公孫琰、廉州司馬の鍾思廉は全員酷吏である。終身用いてはならない」とされ、ついで復帰して珍州司馬を授けられた。翌年、夷州刺史となったが、黄門侍郎の張廷珪が執奏して、「陛下は英断かつ聖明で、四海が心服しております。所謂英断というのは、凶逆を倒して朝廷を正しくするのがそうです。所謂聖明というのは、忠邪を弁じて、賞罰を信じることです。周利貞は、宗・武氏の旧党で、桓彦範敬暉を獄死させ、陛下が尊い御位に登られて新政を敷かれてから、その重臣を奪い、荒れ地同様にしてしまい、天下の望みを許すのをもって、義士はなお罰を軽くするのを望みとするのです。今賜るのに官服を、委ねるのに藩国を以てすれば、悪党を退けるのは必ず行われないでしょう」と述べた。上疏されると沙汰止みとなった。しばらくもしないうちに、再び黔州都督を授けられ、朝散大夫を加えられた。張廷珪はまた上表して制書に返答し、「周利貞は険呑酷薄な小人で、武三思に付き従い、朝廷を傾け危うくし、功臣を殺害し、人も神も憤慢し、毒を飲むかのように心身をいためることは今に到っているのです。東都はその家を捜索し、金銀錦繍を、得て、法制をおかしているならば、重ねて貶しめるべきです。また長い間朝廷によって、応対に敏捷な悪者は、忠義を君に見せ、なお仇敵のようになるのです。使これを朝廷に入れさせれば、国を乱すことになり、俗人を慰撫しようとしてかえって人を傷つけることになるのです。今法令を守ろうと六品から三品に遷すのは、どうして過日に罰したのに今日賞すのでしょうか」と述べ、玄宗はそこで止めることとした。

  張廷珪が罷免されると、起用されて辰州長史となると、朝臣は抗議のため京師に集まり、魏州長史の敬譲とともに皆が起用について奏上した。敬譲は敬暉の子で、父の冤罪について序列を越えて奏上した。「周利貞は姦臣の意に迎合して、法を枉(ま)げて臣の亡父敬暉を殺しました。陛下が罰を正しくして天下に謝すべきです」 左台侍御史の翟璋は敬譲が監督引導を待たずに法を行うよう請願したことについて弾劾した。玄宗は「父が法を枉(ま)げられて刑死したことについて訴えたことは憐れまざるべきではないが、朝廷の儀は粛然とせざるべきではない」と言い、敬譲の俸給三か月分を奪い、また周利貞を邕州長史に貶した。しばらくもしないうちに梧州で死を賜った。


  開元年間(713-741)、また洛陽県の尉の王鈞、河南県の丞の厳安之がおり、人を捶(むちうち)して死ななかった場合を恐れ、腫れ物が潰れたのが見えても、さらに笞打ちし、血が流れるようになると喜んだ。


  王旭は、貞観年間(623-649)の侍中の王珪の孫(曽孫)である。神龍年間(707-710)初頭、兗州兵曹参軍となる。当時、張易之が誅殺され、兄の張昌儀も乾封県の尉に貶されていたが、王旭はたちまちその首を斬って東都に送り、并州録事参軍に遷った。長史の周仁軌韋皇后の与党であり、玄宗が混乱を平定すると、詔があって誅殺されることになったが、王旭は覆奏を待たず、首を斬って京師に送り届けたから、累進して左台侍御史となった。

  崔湜が失脚すると、その妻の父の盧崇道は嶺南より東都に逃れ帰り、恨みに思う者に密告され、王旭に詔して取り調べさせた。王旭は広く親族・郎党を捕らえ、追求は苦痛をともない、死刑に相当し、盧崇道とその三子は全員死に、門生・友人、および海内の名士まで、皆連座して流罪となり、天下はその冤罪を歎いた。王旭と御史大夫の李傑は仲が悪く、互いに無意味に暴露しあい、李傑は罪とされて衢州刺史に斥けられ、そのため王旭はますます横暴となり、残忍さを思いのままとした。官はしばしば遷ったが、常に御史を兼任した。

  その人となりは苛烈急激で、若い頃から約束を勝手に違えたから、人はあえてたのむことはなかった。収獄があるごとに、囚人は全員自白を拒むと、獄械をつくり、械の周囲に「驢駒抜橛」・「犢子県」等と名が書かれ、恐怖をあおり、また髪の毛に石を括って、拘禁された朝臣を脅かした。当時、監察御史の李嵩李全交は厳格かつ残酷で、王旭の名とあわせて、京師では「三豹」と呼び、李嵩は赤豹、李全交は白豹、王旭は黒豹といった。田舎では約束をするときに「もし約束を違えば、三豹に遭うぞ」と言ったという。

  宋王李憲の配下の紀希虬の兄が剣南県令であったが、収賄の罪で、王旭が派遣されて取り調べることとなったが、その妻が美しいのを見て、迫って関係を結び、そして夫を殺し、密かに数百万を秘匿した。紀希虬は奴婢を遣わして御史台の雇い人として王旭に仕えさせたが、王旭は知らず、非常に信認し、奴婢はすべて王旭が請求した賄賂を箇条書きにし、数千を積み上げて紀希虬に示し、紀希虬は泣いて宋王に訴え、宋王は上聞し、詔して罪を審査すると、数え切れないほどの隠し財産を得たから、龍川県の尉に貶し、怒りの余り死んだ。


  吉温は、故宰相の吉頊の従子である。性格は陰険で人を欺き仕えた。地位の高い官僚に諂い仕え、子が親戚の父兄に仕えるようであった。天宝年間(742-756)初頭、新豊県の丞となった。当時、太子文学の薛嶷の知遇を得て、吉温を引き入れて入見したが、玄宗は目通りして「こいつはただの不良にすぎない。私は用いない」と言ったから、止められた。

  蕭炅が河南尹であったとき、御史が吉温を派遣して河南府に向かわせて取り調べを行ったが、そこで蕭炅も取り調べ、手心を加えなかった。右相の李林甫は蕭炅と親しく、そのため免れた。蕭炅は京師に入って京兆尹に任じられ、吉温は万年県の尉に任じられたが挨拶せず、人々は恐れおののいた。高力士が閑暇時に邸宅に帰るとき、蕭炅は多く私的に拝謁していたが、吉温はそこで先回りして高力士と会話し、手をとって非常に喜んでいた。退出しようとすると蕭炅が拝謁のため通過し、吉温は表向きは恐惧して走り去ろうとしたが、高力士は制止し、蕭炅に向かって「私の友人だ」と語ったから、蕭炅は恭しく立ち去った。他日、蕭炅の京兆府に赴き、「あの時は国家の法をあえて失堕させることができませんでした。今後は心を入れ替えて公にお仕えします。いかがでしょうか」と挨拶すると、蕭炅は歓待した。

  李林甫李適之張垍と仲が悪かった。李適之は兵部を領しており、張垍の兄の張均は兵部侍郎であり、李林甫は密かに吏を派遣して兵部が史を偽って選んだ六十人あまりを摘発し、玄宗は京兆府と御史台に命じて取り調べさせたが、連日にもかかわらず詳細がわからなかった。蕭炅は吉温に取り調べの補佐をさせ、吉温は囚人を左右にわけて、中を二重にして閉じ込め、別の囚人を後方の役舎で尋問し、笞打ちや械で拷問をし、皆うめき声を我慢できず、「公が幸いにも死から留めていただけましたら、調書に署名します」と言い、そして出された。諸史はその残酷さを恐れて、引き出されると訊問せずとも全員が自白した。一日の内に罪状が定まったから、李林甫は優れた人物だと思った。吉温はかつて「もし知遇を得られれば、南山の白額虎だって縛り上げられる」と言った。

  李林甫は長らく政権の座にあり、権力は天下を燻したが、心内に大獄を構えようとし、自身につかない者を排除しようとした。まず吉温を配下におらせ、銭塘の羅希奭とともに奔走して、詔獄で罪状を引き出した。羅希奭は残虐で、その舅の鴻臚少卿の張博済は李林甫の壻であり、婚姻での結びつきにより、御史台主簿から再び殿中侍御史に遷った。それより以前、吉温は武敬の一娘を盛王妃としたことにより、京兆士曹参軍に抜擢された。

  李林甫は東宮の地位を揺り動かそうと、左驍衛参軍の柳勣杜良娣の家の陰謀を暴くのに呼応した。吉温が取り調べを行ない、柳勣を誣告して誅殺し、そこで柳勣と王曾王修己盧寧徐徴が親しいために引っ立て、ことごとく逮捕して死罪とし、死体を大理寺の垣下に積み、家族や部下は離散した。それより以前、中書舎人の梁渉は道に吉温と遭遇し、帽を低くして顔を隠した。吉温は怒り、そこで柳勣を誘導尋問して梁渉および嗣虢王李巨を引っ立て、全員を追放した。

  李林甫は楊慎矜王鉷が書に図讖の事を述べるのを憎み、吉温に獄を委ねた。それより以前、楊慎矜の客の史敬忠と吉温の父は親しく、吉温が乳幼児の時に会っていた。吉温は急派して東都に到り、楊氏の親族・賓客を逮捕し、史敬忠を汝州で取調べし、首に鉄鎖をつけ、布で顔を覆い、正視できなかった。密かに吏を派遣して「楊慎矜の罪状は明らかで、あなたは弁明すべきです。あなたが自白すれば罪は許されるでしょう。自白しなければ死は免れません」と脅し、史敬忠はそこで筆を求めて自白に署名しようとしたが、吉温は表立って与えず、再三願ったから与えた。その答えは吉温に勅された様子と同じであった。吉温は「あなたはもう恐れることはありません」と言い、そこで拝礼して去った。楊慎矜の罪状は証拠が揃っており、自白させようとしたが、図讖の証拠は得られなかった。御史の盧鉉は楊慎矜の家を捜索し、讖をあらかじめ持ち込んで証拠としたから、楊慎矜兄弟は全員死を賜わり、連座すること数十族におよんだ。この時、吉温と羅希奭は互いに残虐さを切磋琢磨し、「羅鉗吉網」と称された。公卿で見る者は、あえて私語を交わす者はいなかった。吉温は事件の審問が完了する前に、まず賄賂を数えてから奏上し、そこで囚人を引っ立てて訊問し、熾烈さに震えおののき、訊問のままにたちまち自白し、あえて違う者はおらず、笞が壁に収納される前に、証拠は出揃った。李林甫は実績から才能を認め、戸部郎中兼侍御史に抜擢した。

  楊国忠安禄山が玄宗に寵愛され、高力士が宮中にあって玄宗に仕えており、吉温は全員に媚びて付き従った。安禄山を兄のように仕え、かつて密かに「李右相(李林甫)はあなたを厚く待遇しているとはいえ、引き入れて一緒に政務にあたることをよしとはしておりません。私も長らく厚遇されていますが、また官位は低いままです。あなたがもし私を推薦して宰相にしていただけましたら、私はあなたを要職につけ、そうすれば右相を押しのけることができます」と告げると、安禄山は大いに喜び、しばしば吉温の才能を讃え、天子も自分が以前に言ったことを忘れていた。ここに安禄山は河東節度使となり、上表して吉温を副使とし、知節度営田・管内採訪、総留事を兼任し、鴈門太守、知安辺鋳銭事を拝命した。母の喪のため辞職すると、安禄山は上表して魏郡太守となった。楊国忠が宰相となって政権を握ると、引きたてて御史中丞、兼京畿関内採訪処置使に任じられた。安禄山は吏に命じて白紬で帳(テント)を駅路につくって近侍させ、安慶緒は自ら行って餞としたから、吉温はその徳をふくみ、そのため朝廷の動静をただちに安禄山に報告し、夜を隔たぬうちに知ることができた。天宝十三載(754)、安禄山が入朝すると閑厩使となり、吉温を推薦して武部侍郎とし、閑厩使副使とした。

  楊国忠安禄山は玄宗の寵を争っていたが、吉温は安禄山と非常に昵懇であったから、楊国忠とは不仲となった。河東太守の韋陟が失職を恨んで、吉温が安禄山と交わっていたから、権力者に近い筋に贈り物をし、楊国忠は人を派遣してその事実を暴き、吉温を澧陽長史に斥け、その部下員錫と韋陟は連座して貶された。翌年、吉温は収賄と民間の馬を奪ったことを罪とされ、端渓県の尉に貶された。

  それより以前、李林甫が死ぬと、羅希奭は京師より出されて始安県の太守となり、張博済韋陟韋誡奢李従一員錫もみな始安県に逗留し、吉温も流謫されると、また羅希奭をたよって住んだ。楊国忠は奏上して蒋沇を派遣して取り調べを行わせ、羅希奭は勝手気ままに罪人をかばったから、海康県の員外尉に貶し、にわかに使者を派遣して吉温ら五人を殺した。吉温が排斥されると、帝は華清宮にあって、臣下に詔して「吉温はもともと酷吏の子であり、朕はこれを用いすぎた。だからしばしば大獄を構えられ、賞罰の権限を勝手にされたのだ。今排斥されたから、公序良俗は安心するだろう」と述べた。

  吉温が死んで五か月して安禄山は叛き、帝位を僭称すると、吉温の子を探し求め、十歳であったが、河南参軍を授けて吉温に報いた。


  崔器は、深州安平県の人である。曾祖父の崔恭礼は、真定公主を娶り、駙馬都尉となり、容貌は偉丈夫で、酒を一斗飲んでも乱れなかった。

  崔器は官吏としての事務的才能があったが、性格は陰険酷薄で禍いを楽しんだ。天宝年間(742-756)、明経科に推挙され、万年県の尉となった。翌月、監察御史に抜擢され、中丞の宋渾が東畿採訪使となると、引き立てられて判官となった。宋渾が収賄で失脚すると、崔器もまた失脚したが、後に奉先県令となった。

  安禄山が叛乱して京師を陥落させると、崔器は賊の官位任命を受け、奉先を守った。しばらくして、同羅(トンラ)が賊に背き、賊将の安守忠張通儒が死んでしまい、渭水上の義兵はおよそ数万で、崔器は大いに恐れ、ことごとく賊が任命した官符や勅を破棄し、衆を募って官軍に応じた。渭水の戦いで軍は敗北し、遂に霊武に逃走した。普段から呂諲と親しく、御史中丞・戸部侍郎となった。粛宗が鳳翔に到着すると、礼儀使を兼任した。長安・洛陽の二京が平定されると、三司使となった。崔器は謝罪の儀式を定めて、王官で賊の手に陥った者は、すべて含元殿の廷中に入らせ、冠を脱いで首をあらわにして裸足にさせ、哀嘆して頓首、請罪させ、刀仗の役人に取り囲ませ、付き従う群臣に示した。崔器はすでに残忍さで粛宗の意向に迎合し、刑罰を重くしたいと思い、そこで陳希烈達奚珣ら数百人が全員死罪にあたると建議した。李峴が宰相となり、そこで六等級に分けて罪を定め、多く罪を赦した。後に蕭華が賊中からやって来て、そこで「王官たちは安慶緒に脅され、相州に到った時、広平王(後の代宗)が詔して陳希烈らを赦したと聞いて、皆自分を顧みて後悔したものだった。崔器が刑を重くするよう建議したことを聞き及んで、皆が帰順しなくてよかったと心が再び揺れ動いたのだ」と語ったから、帝は「朕はほとんど崔器のために誤られてしまった」と言い、後に吏部侍郎・御史大夫となった。上元元年(760)病が重くなり、叩頭して謝罪したような状況になり、家人がどうしたのかと尋ねると、「処刑した河南尹の達奚珣が私を訴えているのだ」と言い、三日にして卒した。


  毛若虚は、絳州太平の人である。眉が長く目を覆い、性格は残忍で乱暴であった。天宝年間(742-756)末に武功県の丞となったが、すでに年六十すぎであった。粛宗が京師に戻ると、監察御史に抜擢され、国庫が枯渇していたため、しばしば天下の財をかき集めようとし、巧みに法を並べ、毎日毎月献上し、しばらく賞と再利用させた。概ね囚人を審議するのに、まず家財を収公して賠償を定め、望みに満たなければ、郷里・縁戚まで捜索したから、人々はその威を恐れ、約束通りにするしかなかった。

  乾元年間(758-760)、鳳翔府七馬坊の押官がしばしば州県の間を脅かして殺人し、県尉の謝夷甫は怒りにたえられず、笞打ちして殺してしまった。押官の妻は李輔国に訴え、李輔国は御史の孫鎣に取調べさせたが、長い間獄に入れたものの証拠が揃わず、中丞の崔伯陽に詔して三司使とともに取り調べさせたが、結審しなかった。そこで毛若虚に取り調べさせると、すぐに罪は謝夷甫に帰した。崔伯陽が論争したが、毛若虚は傲慢にも拒み、崔伯陽は怒って、毛若虚はそこで帝のもとに逃げて申し上げた。詔して一時的に京師から出すこととしたが、毛若虚は踏ん切りがつかずに訴えて「臣がもし京師から出されれば死にます」と言い、そこで毛若虚を殿中に匿って、崔伯陽を召還した。崔伯陽がやってくると、詳細に毛若虚がお上を騙していると弾劾したが、帝は先の毛若虚の言葉を優先して、崔伯陽を叱って退出させ、あわせて官属のことごとくを嶺外に左遷した。李峴は孫鎣らを左右に置いていたから、宰相を罷免された。ここに毛若虚の権力は朝廷を震撼させ、群臣は伸びやかに休むことがなかった。ついで御史中丞に抜擢された。上元元年(760)、罪によって賓化県の尉に貶され、死んだ。


  敬羽は、河中宝鼎の人である。容貌は風采が上がらないこと甚だしく、性格はねじまがっており、人の意にとりいることをよくした。匡城県の尉に補任され、朔方節度使の安思順が上表して節度府の官属とした。粛宗が即位した当初、監察御史に抜擢され、功利の事を好んだ。京師が平定されると、職務によって次第に有名となり、凶悪さは忍ぶことができず、そこで巨大な枷をつくって、「㔡尾楡」と号し、囚人の多くが死んだ。また囚人を地に倒し、門戸でその腹を押しつぶした。地を掘って杭を立て、席をつくってその上を覆い、穴に落ちるよう迫って囚人を取り調べし、自白しなければ穴に陥れ、人々の多くは死んでいった。累進して御史中丞に遷った。

  宗正卿で鄭国公の李遵が収賄に連座して詔獄に下され、敬羽が取り調べを行った。李遵は肥えていて敬羽は痩せており、そこで李遵を引っ立てて小牀(ベット)に膝立ちさせ、痺れて倒れ、李遵は足を伸ばしたいと述べたが、敬羽は、「公は囚人だから、私は足を伸ばして公は座っているのだ。どうして侮るべきだろうか」と言い、李遵はさらに三・四度倒れ、おもむろに敬羽の言う通りとし、保釈金数百万を得た。嗣岐王李珍が謀反し、敬羽に詔して取り調べが行われ、そこでことごとく支党を呼び寄せて、拷問具を並べ立てると、囚人は恐れおののき、一夜にして自白し、李珍は死を賜わり、左衛将軍の竇如玢ら九人は全員斬刑に処され、太子洗馬の趙非熊ら六・七人も杖刑で死に、聞く者は鳥肌が立った。

  これより先、胡人の康謙が商売で富裕となり、楊国忠が宰相になると、その金を納めたから、安南都護、領山南東路駅事に任命されたが、吏はこれを憎み、史朝義と通じていると誣告した。敬羽は取り調べをし、康謙の髭の長さは三尺あったが、翌日すべて脱落していた。膝やくるぶしはすべて砕け、人がこれを見ると鬼だと思ったから、殺した。

  敬羽と毛若虚裴昇畢曜は同時に御史となり、全員暴虐かつ惨忍で、当時の人は「毛敬裴畢」と称した。しばらくもしないうちに裴昇・畢曜は黔中に流された。宝応年間(762-763)初頭、敬羽は道州刺史に斥けられ、詔して殺された。敬羽は自分を殺す使者がやって来たと聞くと、礼服を来て逃がれようとしたが、吏が拘束した。死刑に臨んで、袖中から数枚の証拠書類が出てきたから、そこで吏が告発して暴こうとすると、叱って「尋問するには及ばない。もう死ぬのだからな。州を治める者は怠けてはならんぞ」と言った。


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最終更新:2024年01月03日 13:11
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