節愍太子 李重俊 りじゅうしゅん
683-707
盛唐の宗室。
中宗の子。母は不明。神龍二年(706)皇太子にたてられたが、
韋皇后・
安楽公主・
武三思・
武崇訓の迫害にあい、景龍元年(707)七月、
李多祚とともに叛乱を起こして武三思・武崇訓を殺害したが、敗れて殺害された。節愍太子と諡された。墓は陝西省渭南市富平県にあり、1995年に発掘調査されたほか、廟が
待賢坊にあった。妃の楊氏は
楊知慶の娘で、
元献皇后楊氏の姉。子に
李宗暉がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『新唐書』
巻八十一 列伝第六 三宗諸子 中宗諸子 節愍太子重俊
『旧唐書』巻八十六 列伝第三十六 高宗中宗諸子 中宗諸子 節愍太子重俊
外部リンク
最終更新:2026年05月06日 01:11