唐書巻八十一
列伝第六
三宗諸子
燕王忠 沢王上金 許王素節 褒信王璆 孝敬皇帝弘 裴居道 章懐太子賢 邠王守礼 広武王承宏 燉煌王承寀 懿徳太子重潤 譙王重福 節愍太子重俊 讓皇帝憲 汝陽王璡 漢中王瑀 景倹 恵荘太子撝 恵文太子範 嗣岐王珍 恵宣太子業 嗣薛王知柔
燕王
李忠は、字を正本といった。
帝は始めて太子となったとき忠が産まれ、宮中で宴会を開いた。突然
太宗の臨幸があり、宮臣に詔していうには、「朕始めて孫ができた。共に楽しみたい」 酔っぱらって帝は立ち上がって舞い、群臣もならい、席次にあるものは皆舞い、下賜品には差があった。貞観二十年(646)、始め陳王となり、永徽年間(650~655)初頭、雍州の牧を拝受した。
王皇后には子がなく、后の舅の
柳奭は王皇后を説得して、忠を母とすれば、これを立てて必ず自身の親とするだろうとした。王皇后は承諾し、帝に願い出た。また
褚遂良・
韓瑗・
長孫无忌・
于志寧らも相継いで願い出た。ついにに皇太子に立てられた。王皇后が廃后となると、
武后の子の
李弘は年三歳であり、
許敬宗は武后の意図をくんで、建言して「国には正嫡があります。太子は漢の劉彊の故事と同じくすべきです」と言った。帝は許敬宗を召見していった。「嫡を立てるにはどのようにする」「正のもとはすなわち万事治まることです。太子は国のもとです。しばらく東宮を微し出せば、今正嫡があることを知るでしょう。自ら安じなければ、位をうかがって自ら安ぜず、社稷のはかりごとではありません」と答えた。帝は言った「忠はもとから謙譲だ」許敬宗が言った「よく太伯のようになれば、またよくないことなどありましょうか」ここに降して梁王・梁州都督に封じ、第一級の邸宅、封戸二千、物二万段を賜い、にわかに房州刺史にうつした。忠は寝ても恐れて安心して生活することができず、婦人の衣を着て刺客に備え、しばしば妖夢があり、かつて自ら占った。事は露見し、廃されて庶人となり、黔州の
李承乾の旧宅に幽閉された。
麟徳年間(664-665)初頭、宦官の
王伏勝が
武后によって罪とされたが、
許敬宗はすなわち忠と
上官儀と伏勝の謀反を誣告し、死を賜った。年二十二歳。子はなかった。翌年、太子
李弘が表を奉って収葬を願ったから、これを許した。神龍年間(705-707)初頭、追封し、また贈太尉・揚州大都督とした。
原悼王
李孝は、永徽元年(650)に始めて許王となり、𣏌王
李上金・雍王
李素節の二王とともに同じく封ぜられた。早く薨去した。神龍年間(707-710)初頭、追封および諡があった。
沢王
李上金は、始め𣏌王となった。永徽三年(652)、益州大都督を遙領した。鄜・寿の二州の刺史を歴任した。
武后はその母を憎み、そのため役人が誣奏し、封邑を削り、うつして澧州に置いた。しばらくして武后は表向きは喜んでいるかのようにしており、𣏌王上金・鄱陽王
李素節に表して朝集を聴かしめ、
義陽公主・
宣城公主の二公主にそれぞれ夫秩を増加した。これによって上金を沔州刺史に、素節を岳州刺史としたが、しかしついに朝廷に参与することはなかった。
高宗が崩じたが、上金・素節・二公主に詔して哀に赴かせた。文明元年(684)、王を畢王とし、またうつして沢王とした。五州の刺史を歴任した。載初年間(690)、
武承嗣は
周興をそそのかして上金・素節の謀反を誣告し、召して御史の獄に繋がれた。上金は素節がすでに殺されたことを聞いて、即ち縊死した。七人の子はあわせて顕州に流刑となり、あるいは死んだ。神龍年間(705-707)初頭、追って官爵を戻し、子の
李義珣に王を嗣がせた。
李義珣は、始め流謫され、身を匿して雇われ人となっていた。許王
李瓘を継いでその爵邑を受け、義珣に告げて仮の継承としたが、再度嶺外に流された。開元年間(713-741)初頭、素節の子
李璆を許王
李瓘の後継としたが、
玉真公主が義珣が実は上金の子であると上表したから、すなわち璆の爵を奪い、再度義珣をして王を継がせ、率更令に任じられた。薨去し、子の潓が嗣いだ。
許王
李素節は、始め雍王となり、雍州牧を授けられた。まさに童子の頃から、即ち日に千言を読んだ。
徐斉聃に師事し、自らつとめ励ました。
帝はこれを愛し、岐州刺史に転じて、さらに郇王とした。母が殺され、素節を地方に出して申州刺史とした。乾封年間(666-668)初頭、素節に詔して病により入朝を免じたが、実際には病んでおらず、忠孝論を著して自らの意見を明らかとしたからであった。倉曹参軍の
張柬之が上奏すると、帝はその誣告を取り上げないようにしようとしたが、
武后はますます喜ばなかったから、収賄に連座して鄱陽王に降格し、封戸什七を削り、移して袁州に置き、終身禁錮とした。儀鳳三年(679)、岳州刺史とし、さらに葛王とし、また王を移して三州の刺史とした。
李上金とともに同じく追捕されて都に赴き、道中葬送の列で哭する者を聞いて、左右に言った、「病死なぞ何の得るところがあろうか。当然哭するべきだというのか」 龍門駅にいたって絞殺された。年四十三歳。葬礼は庶人の礼をもって行われた。子の瑛等九人はすべて誅殺されたが、ただ
李琳・
李瓘・
李璆・
李欽古はまだ幼なかったので、長く雷州に幽閉された。
中宗が復位すると、追ってもとの封とし、また開府儀同三司・許州刺史を贈位し、
乾陵に陪葬された。
李瓘に詔して王を継がせ、実封戸四百とした。開元年間(713~741)初頭、
李琳を封じて越王を継がせ、
李璆に沢王を継がせた。琳は右監門衛将軍に至り、子の
李随は夔国公に封じれた。
李瓘は衛尉卿となり、上金の子に抑えられて封を得ず、鄂州別駕に貶された。よって詔して継嗣王より外れた者は皆宗室に帰すことにし、そこで嗣江王
李禕を信安王とし、嗣蜀王
李䄖を広漢王とし、嗣密王
李徹を濮陽王とし、嗣曹王李臻を済国公とし、嗣趙王
李琚を中山王とし、武陽王李継宗を澧国公とした。瓘は累遷して太子詹事となった。薨去し、蜀郡大都督を贈位した。二子の
李解・
李需は皆幼なく、璆の子
李益に継がせた。天宝十四載(755)、李解に始めて王を継がせた。
李璆は、初めは嗣沢王を継ぎ、降されて郢国公、官宗正・光禄卿となったが、累進して褒信王に封ぜられた。初め
張九齢が龍池頌を撰し、
興慶宮に石碑としたが、宗室の子女が盛徳をなさないため、さらに璆に命じて頌をつくらせ、
花萼楼の北に建てた。天宝年間(742-756)初頭、再度宗正卿を拝命した。性格は友弟には聡敏で、宗室の子女に一善あれば、推薦しないことはなかった。そのため宗室で宮中にある者の多くは璆に申し上げた。薨ずると、江陵郡大都督を贈位された。二子があった。
李謙は郢国公・梓州刺史となり、
李巽は汝南郡公となった。
孝敬皇帝
李弘は、永徽六年(655)に始めて代王となり、潞王とともに同じく封ぜられた。顕慶元年(656)、皇太子に立てられた。『春秋左氏伝』を率更令の
郭瑜より受学し、楚の世子商臣がその君を弑殺する場面に至ると、嘆いて書を閉じて「聖人の垂訓はどうしてこのような邪悪を書くのだろうか」といった。郭瑜は「孔子が春秋をつくったのは、善悪を必ず書き、褒善を推奨するためで、悪を貶しめて誡めとするためです。だから商臣の罪は千年たっていてもなお消えることはないのです。」と言った。李弘は「それならば聞くに忍びないところであっても、その書を読ませていただこう」と言った。郭瑜は拝して言う、「里に勝母と名付ければ曾子は足を踏み入れなかったといいます。殿下生まれつき孝行者で、不道徳の道を退け、見聞きすることはありません。臣はこのように聞いています。君主の地位を安定させ、人民をよく統治するには、人民に礼儀を教えるのが最もよいと。だからこそ孔子は『礼を学ばないと、ひとり立ちしてやっていけない』と言ったのです。願わくば改めて礼を受学して下さい。」 太子は「よし」と言った。顕慶四年(659)、元服した。また賓客の
許敬宗・右庶子の
許圉師・中書侍郎の
上官儀・中舎人の
楊思倹に命じて、
文思殿で古今の文章を抽出して『瑤山玉彩』と名付けた。およそ五百篇。書を奏じて、
帝は賜物三万段、ほかの臣には賜うことそれぞれ差があった。また詔して五日に一度は
光順門に赴き決事させた。総章元年(668)、国学にて釈采(八月の上の丁の日に行なう孔子の祭)し、顔回に太子少師を、曾参に太子少保を贈位することを願い、制可された。
その頃、役人が遼東に遠征する兵士が亡命したり、亡命して原隊に戻らない者を、身は死刑とし、家族は没官とした。李弘は諫めて以下のように述べた。「兵士は病となってもどうなるかわからず、あるいは捕虜、もしくは溺死・圧死しても、軍法は戦死でなければ、則ち隊を同じくする者は全員連座します。法家が亡命と判断すれば、家族は本当に亡命した者と同様に没官となります。伝(『書経』大禹謨)には「罪のない人間を殺すよりは、むしろ法律に合わないことがあってもこれを許すほうがよい」といいます。臣はその科(とが)を条別し、全て一緒にすることが無きようお願い申し上げます」 詔して裁可された。
帝は東都に行幸し、詔して監国となった。時に関中が飢饉となり、李弘は廡下の兵で楡皮・蓬の実を食べる者を見て、うちしおれて
家令寺に命じて米を給付させた。
義陽公主・
宣城公主の二公主は母の故をもって掖廷に幽閉され、四十になっても結婚していなかった。李弘は聞いて見るにたえず、建言して降嫁されることを願い出た。
武后は怒り、即ち当上の衛士に結婚させ、このために寵愛を失った。また同州の沙苑を貧民に分けることを請うた。その頃い、妃裴氏(
裴居道の娘)と結婚したが、役人が贄用の白雁をたまたま苑中で捕獲したこと奏上した。
帝は喜んで「漢は朱雁を獲て楽府の歌とつくった。今白雁を得て結婚の贄となった。結婚はすなわち人倫の首である。我には恥じることなどない。」と言い、礼がおわると、法を曲げて岐州に大赦した。
帝はかつて侍臣に語って「弘は仁孝で、大臣に賓礼していまだかつて過ちはなかった。」と言った。
武后は思い通りにしようとしたが、李弘の奏請はしばしば武后の意向に違った。上元二年(674)、
合璧宮の行幸に従って、鴆毒を盛られて薨去した。年二十四。天下はこれを嘆かない者はいなかった。詔して「太子は若くして病気となり、朕はその回復を待って、まさに位を譲ろうとした。心は広く真心篤く、すでに命をうけ心はのびやかとなったが、病は日に日に重くなり、臨終を迎えてしまった。諡を孝敬皇帝とする」といった。緱氏県に葬り、墓号は
恭陵といい、制度はすべて天子の礼を用い、百官は権制に従って三十六日服喪した。帝は自ら睿徳紀を製り、石を陵の側に刻んだ。陵を造営すること巨費を費し、人民は厭いてこれに苦しんだ。投石して所部の官司を傷つけ、官吏を殺傷した。妃が薨去すると、諡して哀皇后といった。子なく、永昌年間初頭(689)、楚王隆基(後の
玄宗)を後嗣とした。
中宗が即位すると、詔して主を
太廟に合祀し、義宗と号した。開元年間(713-741)、役人が奏じて「
孝敬皇帝の廟を東都洛陽に建てるべきで、諡を廟の名としましょう」と述べた。詔して裁可され、ここに義宗の号を廃止した。
妃は
裴居道の娘で、婦徳があったが、父・
裴居道は妃のために内史納言に任命され、太子少保・翼国公を歴任した。酷吏のために貶められ、獄死した。
章懐太子
李賢は、字を明允といった。容姿端麗で、幼い頃より
高宗に愛された。年数歳にして、一度読書すればたやすく忘れず、『論語』の「賢を賢として色を易(かろん)ず」に至り、一二度これを読んだ。
高宗が理由を問うと、答えて「性実はこれを愛す。」と言った。高宗は
李勣に語って、早熟であると称した。始め潞王となり、幽州都督・雍州牧を歴任した。沛王に移り、揚州大都督・右衛大将軍に累進し、名を徳に改めた。雍王に移り、よって雍州牧・涼州大都督を領し、実封千戸となった。上元年間(674-676)にまた名を賢に戻した。
その頃、皇太子が薨去し、その六月、李賢を立てて皇太子とした。にわかに監国とする詔があり、李賢に決裁させたところ非常に明審であり、朝廷は讃えた。
高宗は手ら勅して褒賜した。李賢はまた諸儒を招集し、左庶子の
張大安・洗馬の
劉訥言・洛州司戸参軍事の
格希玄・学士の
許叔牙・成玄一・史蔵諸・周宝寧らとともに范曄の『後漢書』の注釈書をつくり、上奏した。高宗はよしとして段物数万を賜った。
時に正諫大夫の
明崇儼は左道をもって
武后のために信ずるところとなり、崇儼は英王(
中宗)は
太宗に類し、相王(
睿宗)は貴しとした。李賢はこれを聞いて憎み、宮人はあるいは李賢が武后の姉・
韓国夫人の所生であると伝えたから、李賢はますます疑った。武后は『少陽政範』・『孝子伝』を撰述して李賢に賜り、何度も書簡を送ったが、かえっていろいろ不安になった。調露年間(679-680)、
高宗は東都(洛陽)にあって、崇儼は強盗のために殺された。武后は李賢の謀と疑い、人を遣わして太子の陰謀をあばき、
薛元超・
裴炎・
高智周に詔してこれをまじわりおさめ、甲冑数百領を東宮で発見した。高宗はもとより李賢を愛し、その罪は軽いとしたが、武后は「賢は心に反逆があり、大義は親を滅ぼすことにありました。赦してはなりません」といったから、廃太子となり庶人におとされた。甲冑は
天津橋で焼却処分とし、大安普州刺史に貶し、
劉訥言を振州に配流し、連座して流罪となる者は十数人に及んだ。開耀元年(681)、李賢を巴州に移した。
武后が政権を獲得すると、左金吾将軍の
丘神勣に詔して李賢の邸宅を捜索し、迫って自殺させた。年三十四歳。武后は
顕福門に挙哀し、丘神勣を畳州刺史に左遷した。追ってもとの王号に復した。神龍年間(705-707)初頭、司徒を贈号し、使を遣わして亡骸を移し、
乾陵に陪葬した。
睿宗が即位すると、皇太子および諡を追号した。三子があった。
李光順・
李守礼・
李守義である。
李光順は楽安王となり、義豊王に移された、誅殺された。
李守義は犍王となり、桂陽に徙封され、薨去した。先天年間(712-713)、光順に莒王を、守義に畢王を追封した。
李守礼は、王を嗣ぎ、始め名を光仁と称し、太子洗馬に任じられた。
武后が武周革命をし、宗室は自由を失った。守礼は父のために罪を得て、
睿宗の諸子とともに宮中に幽閉されること十余年におよんだ。睿宗が相王に封ぜられ、許されて外邸に出た。ここにおいて守礼らも始めて外に居住し、改めて司議郎となった。
中宗が即位すると、またもとの封に戻り、光禄卿を拝受し、実封戸五百を得た。唐隆元年(710)、邠王に封じられた。睿宗が即位すると、検校左金吾衛大将軍を兼任し、京師から出されて幽州刺史となり、単于大都護を兼任し、司空となった。開元年間(713-741)初頭、累進して為州刺史となった。その時
寧王・
申王・
岐王・
薛王も同じく刺史となり、皆幕僚を選任してはじめ綱紀を保った。守礼はひとり狩猟・飲酒をし、領事しなかった、そのため
源乾曜・
袁嘉祚・
潘好礼は皆、邠府長史・州佐となって、監督した。後に諸王が京師に戻ると、守礼以外は支えて王となり、特に才能がなくても多く寵愛したから、子は六十余人、称すべき者はなかった。常に息銭数百万の負債があった。ある者は少子を勧めたが、守礼は「どうして
天子の兄を葬むる者がないのだろうか」といった。諸王はにわかに高貴となるたびに歓喜するのであった。
岐王はかつて守礼が雨晴を予測できることを上奏した。
帝はなぜかと問うと、答えて「臣には何があるわけでもありません。
天后の時、
太子が罪を被り、臣は宮中に幽閉されました。その時勅によって杖刑を受けること約四三、皮膚に傷跡が出来、雨の前になると痛みに悶え、晴れになるとよくなります。だから知ることができるのです」といって涙を流し、
帝もあわれに思って心をいためた。薨去した時、年七十歳で、太尉を追贈した。子は
李承宏・
李承寧・
李承寀が記すべき者である。
李承宏は、広武王に封ぜられたが、当人ではないのに連座して、房州別駕に貶しめられた。戻って宗正卿となった。広徳元年(763)、吐蕃が京師に入り、天子は陝西に逃亡した。虜(吐蕃)宰相の馬重英(タクラ・ルコン)が承宏を立てて皇帝とし、翰林学士の
于可封・霍瓌を宰相とした。賊(吐蕃)が退くと、詔して承宏を華州に追放し、死んだ。
李承寀は、燉煌王となり、宗正卿を拝受した。
僕固懐恩とともに回紇に使して和親し、即ちその娘を結納して妃とし、
毘伽公主に封じられた。薨去し、司空を贈位された。
唐制に、郡王を嗣ぐ者は四品の階を加え、親王・王子は緋を服す、とある。開元年間(713-741)、
張九齢が「
寧王・
薛王および
邠王の三子は王でありますが賜紫となっており、ほかは皆緋を服しています。官は六局の郎を越えず、王府の掾・属はよって員外に置かれています。」と奏上した。後に
帝は蜀に到ってから皆紫を服させた。
懿徳太子
李重潤は、もとの名を重照といい、
武后の諱を避けて改名した。帝(
中宗)が皇太子のとき、東宮で産まれ、
高宗は喜ぶこと甚だしく、乳月が満つと、天下に大赦し、永淳と改元した。この年、立てて皇太孫とし、開府して官属を設置した。
帝は吏部侍郎の
裴敬彝・郎中の
王方慶にどうか問うた。答えて「礼に嫡子はありますが、嫡孫はありません。漢・魏に太子があって、子はただ王に封じています。晋に愍懐太子を皇太孫に立て、斉は文恵太子の子を立てて皇太孫としましたが、みな東宮にありました。今太子があって、また太孫を立てるのは、古よりあったことはありません」と答えた。帝は「自ら作るがどうか」と言うと、「礼記に「君子は孫を抱いて子を抱かず」というのは、孫は王の父のかたしろを祭祀の際にもつのは、昭穆が同じだからです。陛下ははじめて皇孫を建てました。もとより千億の慶の支えとなるでしょう」と答えた。帝は喜び、議官属に詔して。敬彝ら奏上して、師・傅・友・文学・祭酒・左右長史・東西曹掾・主簿・管記・司録・六曹等の官を設置し、王府一級を加えたが、士卒を補充することはなかった。まさに嵩山に封禅しようとして、太子(中宗)を東都(洛陽)に赴かせ、太孫に京師(長安)を留守させた。
中宗が廃位されると、太孫府も廃され、庶人に貶され、別に囚われとなった。中宗が皇太子に復位すると、郡王に封じられた。大足年間(701)、
張易之兄弟が
武后の寵愛を得ると、重潤とその妹の
永泰公主とその夫
武延基とともに秘かに謀議を行ったと誣告され、武后は怒り、杖殺した。年十九歳。
重潤は容貌・行いに秀で、孝行で愛され、罪によらず誅殺されたから、人は皆涙を流した。神龍年間初頭(705-707)、皇太子および諡を追贈し、
乾陵に陪葬し、墓を号して陵とし、主を贈って公主とした。
譙王
李重福は、
高宗の時、唐昌郡王に封ぜられ、平恩に移封された。長安年間(701-704)末年に王に進んだ。神龍年間(705-707)初頭、
韋庶人が
張易之兄弟と謗って重潤を陥れ、濮州員外刺史に貶しめ、合・均二州に移ったが、二州を領事することはなかった。景龍三年(703)、
中宗が親ら南郊に祀し、天下に大赦した。十悪はみな許し、流人は帰ることができた。重福は帰ることができず、自ら「人民は皆自ら新しくなっても、一子が棄て去られた。天下は平らかとなったが、もとよりこのようになるのか」と言ったが、答えはなかった。
韋后が政権を握り、左屯衛大将軍の
趙承恩・
薛思簡に詔して兵をもって護衛させた。
睿宗が即位すると集州に移されることになったが、まだ行かないうちに、洛陽の男子の
張霊均が重福に説いて、「大王は嫡長でおられて、まさに天子となるべきです。
相王は大難を平らげたとはいえ、どうして天子の位に越えて即位することがありましょうか。昔、漢は呂氏を誅殺して東より代王(文帝)を迎えました。今、百官士庶は皆、王が来ることを願っています。王がもし秘かに東都(洛陽)に行幸し、留守を殺し、兵を擁して西に陝西を拠点とすれば、河南・河北はしたがい、天下は得られるでしょう」と言った。重福はまた張霊均とその党の
鄭愔を遣わして策謀をし、鄭愔はまた密かに重福を招いて天子とし、あらかじめ睿宗を称して皇季叔とし、
李重茂を皇太弟とし、中元克復元年と称した。鄭愔は自ら左丞相と署名し、内外文武の事を司り、霊均を右丞相・天柱大将軍とし、出征の事を司り、そのほかは職次によって官位を除目した。重福は均州より霊均と早馬に乗って東都(洛陽)に走り、駙馬の
裴巽の家を宿とした。洛陽令の候巽は、重福に驚いてあわてて逃げたから、左右の屯営兵を奪おうとした、
天津橋に到って、従うことを願った者は数百人となった。侍御史の
李邕はこれに遭遇し、まず駆けつけて右屯営に到り、「譙王は
先帝より罪を得た罪人なのに、勝手に都に入って反乱しようとしている。お前たちは努めて功績を立てて富貴を取れ」と言った。ようやく皇城の諸門が閉じられて重福を拒んだ。重福は右営に触れ回ったが動かすことができず、
左掖門に走ったが、すでに閉鎖されていたから、怒って放火してこれを焼いた。左営兵はひたせまり、衆は遂に壊滅し、重福は山谷に走った。翌日、留守の
裴談が全兵を以て大捜索したため、漕渠に身を投げて死んだ。年三十一歳。その死体を磔とした。
帝は詔して三品の礼をもって葬った。
節愍太子
李重俊は、聖暦三年(700)に義興王となった。神龍年間(705-707)初頭に衛王となり、洛州牧を拝し、実封千戸に封じられた。にわかに揚州大都督に任じられ。翌年皇太子となった。
太后の喪とともに、皇太子の冊礼を減らされ、詔して在藩の食封となり、東宮に歳納した。給事中の
盧粲が、「太子と列国と同じく封ずることは法ではありません。」と上言したため、詔してこれを止めた。
重俊は性格は明るく華やかであったが、掟を守ることが少なった。既に
楊璬・
武崇訓を賓客とし、二人は寵愛をたのんで教養がなかった。ただ狩猟や蹴鞠で互いに遊び仲間というだけであった。左庶子の
姚珽がしばしば上疏して諫め導き、右庶子の
平貞慎がまた孝経議・養徳などの伝を献上したが、太子は受け入れたとみえつつ用いることはなかった。
武三思は
韋皇后の勢力と迎合し、まさに反逆を謀ろうとし、内心太子を嫌っていた。
武崇訓と武三思の子は、
安楽公主をたっとび、常に公主をそそのかして重俊を辱め、
韋皇后が産んだ子でなかったから、罵倒して奴だと言った。しばしば皇太子位の廃位を願い、自ら皇太女となろうとした。
神龍三年(707)七月、重俊は怒り、遂に
李多祚を率い、左羽林将軍の
李思沖・
李承況・
独孤禕之・
沙吒忠義と、偽って左羽林および千騎の兵を発して
武三思・
武崇訓、その郎党十余人を殺害し、左金吾大将軍の成王
李千里をして宮城を守らせ、自らは兵を率いて
粛章門にはしり、門を破壊して関に入り、
韋后・
安楽公主・
昭容上官の所在を探した。韋后は
帝を抱えて
玄武門に登り、宰相
楊再思・
蘇瓌・
李嶠および
宗楚客・
紀処訥は兵二千余人を率いて
太極殿を守り、帝は右羽林将軍の
劉仁景らを召喚して留軍の飛騎百人を率いて防御した。李多祚の兵は進むことができず。帝は欄干に掴って重俊についた千騎に語って「お前たちは我が爪牙である。どうしてたちまち反乱をするのか?よく賊を斬った者には褒賞があろう」といったから、ここにおいて士卒は戈をかえして李多祚を斬り、ほかの郎党は壊滅した。重俊は逃亡して終南山に入り、突厥に逃げようとしたが、宗楚客が果毅の
趙思慎を遣わしてこれを追撃し、重俊は野で休憩しているところを左右の者に殺された。詔して首級を朝堂にあげ
太廟に献じ、あわせて武三思・武崇訓の柩に告げた。
睿宗が即位すると、加えて諡され、
定陵に陪葬された。
初め、重俊が殺害されると、役人はあえて顧みる者はなかった。ただ永和県の丞の寧嘉勗が号哭し、衣を解いてその首級を包んだ。当時の人はこれを義とした。
宗楚客は怒り、獄に下して平興県の丞に降格し、卒した。
睿宗の即位にいたってまた永和県の県令を追贈された。
重俊の子の
李宗暉は、景雲三年(709)に湖陽郡王に封じられた。天宝年間(742-756)、太常員外卿にいたり、薨去した。
譲皇帝
李憲は、始め永平王となった。文明元年(684)、
武后は
睿宗を皇帝としたから、憲を立てて皇太子とした。睿宗が廃位され皇嗣に降格されると、李憲もさらに皇孫に冊され、諸王とともにみな宮中から出て、開府して官属が置かれた。長寿二年(693)、寿春王に降格され、
衡陽・
巴陵・
彭城の三王とともに同封とされた。また詔があって宮中に入った。
中宗が即位すると改めて蔡王とされたが、固辞して受けなかった。唐隆元年(710)に宋王に進封された。
睿宗が復位すると東宮を立てようとした。憲が嫡子長男であり、またかつて太子であったが、弟の楚王(
玄宗)に大功がありそのため久しく定められなかった。憲は辞退して「儲君は皇帝の副であり、天下の公器です。平時であれば正嫡が先んじ、国難であれば功績が先んじるのが、社稷の重きとするところです。付授が適正でなければ、天下は失望します。臣死を以て請うとことです。」といって涕泣して固辞した。時の大臣もまた楚王に社稷を定めるの功があると言い、また貴賤を問わず嫡子であるからといって皇太子にすることに抵抗し、朝議が紛糾した。
帝は憲が譲ったことをよしとし、遂にこれを許し、楚王を立てて皇太子とした。憲を雍州牧・揚州大都督・太子太師とし、実封は二千戸に及び、大邸宅・物段五千・良馬二十・奴婢十房・上田三十頃を賜った。尚書左僕射に進み、また司徒を兼任した。司徒は辞退し、さらに太子賓客となった。
当時、
太平公主に謀があり、
姚元崇・
宋璟は
帝に申して、憲および申王
李成義を出して刺史とするよう願い出ると、謀は雲散した。すなわち司徒兼蒲州刺史となり、司空に進んだ。
玄宗が
蕭至忠・
岑羲の難を鎮めると、憲の官職を進めて太尉とし、千戸を増戸したが、固辞した。さらに開府儀同三司を授け、太尉・揚州大都督を解任した。寧王となり、また太常卿を兼任した。開元十四年(726)、太常卿を辞し、しばらくしてまた太尉に復した。沢・岐・涇の三州の刺史を歴任し、累進して封は五千五百戸に到った。開元二十九年(741)に薨去した。
それより以前、
睿宗の五子は邸宅を東都(洛陽)
積善坊にならべて、「五王子宅」と号した。邸宅を上都(長安)
隆慶坊に賜うにおよんで、また「五王宅」と号した。
玄宗は太子となって、かつて大衾で長枕をつくり、諸王とともにこれを共にしようとした。睿宗は知って喜ぶこと甚しかった。先天年間(712-713)に到って、
隆慶坊の旧邸を
興慶宮とし、憲および
薛王に
勝業坊に邸宅を、
申王・
岐王の二王に
安興坊に邸宅を賜い、興慶宮の側に環状に列べ、興慶宮の西・南に楼を設置し、その西には「
花萼相輝之楼」と書き、南には「
勤政務本之楼」と書いた。玄宗は時々これに登って、諸王が楽を奏でるのを聞いて、必ずしばしば召喚して楼に登らせ、ともに同じく榻(いす)に座り、あるいは邸宅に行幸して、詩を詩して大いに嬉び、金帛を賜いともに喜んだ。諸王は朝に側門から帰り、つぶさに楽んでほしいままに痛飲し、撃毬・闘鶏・鷹や犬をはしらせて楽しみ、このようにして歳月は絶えず、いたるところにたやすく勅使の労があいつづき、世に天子友悌といい、古えにはなかったことであった。
帝が情愛厚いのはおもう天性のものだろうか、讒言してその関係を乱そうとしても、ついに揺るぐことはなかった。ある時、鶺鴒数千匹が
麟徳殿の廷樹に集まり、翔棲をひとめぐりした。左清道率府長史の
魏光乗が頌をつくり、天子友悌の祥(しるし)とした。帝は喜んだから、また頌をつくった。
憲は最も慎重な人で、未だかつて政治に干渉したり人と交わったことがなかったから、
帝はますます信に重きを置いた。書を憲らに賜って、「魏の文帝の詩に『西山一に何ぞ高し、高高して殊に極る無し。上に両仙童有り、飲まずまた食わず。我に一丸薬を与う。光耀五色あり。これを服すること四五日、身体羽翼を生ぜり』とあるが、朕は服薬して羽翼を求めるたびに言っている、どうして兄弟も天生の羽翼のようにしなかったのか、と。陳思王(文帝の弟曹植)の才は、国を経営するに充分であったが、その朝廷に謁見することが絶え、ついに憂死し、魏は天下を統一する前に司馬氏に簒奪されてしまった。どうして神丸の効き目などあろうか?虞舜は聖人だったが、驕りを捨て去って九族と和親し、九族はすでに睦じく、百姓に分かち明らかにした。今数千年がすぎ、天下は善に帰している。これは朕が寝食を忘れて慕い感嘆するところである。この頃余暇のため、仙人の記録を撰述して神方への道を得たが、これを食べると必ず長寿であるという。今この薬を持っているが、願わくば兄弟に与えてともに長齢に到り、いつまでも果てしないだろう」と。後に
申王らが相継いで薨去し、ただ憲のみが健在であった。
帝は親しく接することますます厚かった。誕生日のたびに必ずその邸宅に行幸して寿ぎ、往々として邸宅に泊まった。日常でも毎日賜わり物がない日はなかったが、尚食総監やあちこちより進献された酒・酪および珍しい食事などはすべて分け与えた。憲はかつて歳尽録を請い、史官を目付に賜り、数百紙に及んだ。のちに病となり、医者が付ききりとなり膳を、大勢の医者が騎乗してきて互いの顔を見合うほどであった。僧の崇一なるものが治療すると、やや治り、帝は喜ぶことはなはだしく、緋袍・銀魚を賜った。そのうちに重病となり、薨去した。年六十三。帝は声を失うほど慟哭し、左右の者も皆涙を流した。
帝は、憲が実際に天下に推戴され、世の行いは高かったのに、大号を称さなかったから、追諡して譲皇帝とし、尚書左丞相の
裴耀卿・太常卿の
韋縚を遣して持節奉冊した。その子の
李璡は上表して、憲が平素より謙譲であったことを述べ、あえて大号にはあたらないとした。制(みことのり)して許されなかった。葬儀の時、天子の服一揃を出して、右監門大将軍の高力士に詔して、帝自ら手書した位牌を置き、妃の元氏に恭皇后の号を贈り、
橋陵の旁らに葬られた。葬るにあたって、中使に勅して璡らを諭し、死出の具を与え、衆をしてこれを見させ、倹約を示した。担当役人が諸陵のようにするよう請い、千味の食を墳中に設けたが、監護使の裴耀卿が建言して「食料は水陸千余種もいるようであり、馬・牛・驢馬・小牛・鹿・鵞鳥・鴨・魚・雁など肉、および薬酒三十名は、盛夏の育てるものであり、多く殺すべきものではありません。礼の典拠を探してみましたが、依拠できるところはありません。陛下が譲皇帝の志を述べるごとに、つとめは質素倹約にあります。願わくば取り省いて折衷されますように」と。詔して裁可されたが、葬列はすでに出発しており、大雨で、慶王
李潭らに詔して塗泥(内装工事)を実行させた。葬列の歩みは十里に及び、墓を号して
恵陵といった。
憲はかつて
帝に従って万歳楼で舞ったが、帝が複道の上より衛士がすでに食事して、その余りを溝中に投棄したのを見て、帝は怒り、
高力士に詔してこれを杖殺させようとしたが、憲は従容として「複道の上より人を窺っていれば、士を恐れさせて不安になり、かつ大体を失います。どうして生命をその食べ残しより軽んじるのでしょうか」といい、帝はよって杖殺を中止し、
高力士に「王は私の難を救ったというべきであろう。そうでなければ、誤まって士を殺すところであった」と言った。また涼州が新曲を献じ、帝は別室に御し、諸王を召してこれを観覧した。憲は、「曲は良いのですが、しかしながら宮殿より離れて属さず、商は乱れて暴政となり、君主の卑しいこと下にせまり、臣下は僭って上を犯します。音楽が弱くはじまって次第に音声が形となっています。詠歌をひもとき人事を見るに、臣はいつの日か遠くをさすらうの禍があることを恐れます」といい、帝は押し黙ってしまった。安史の乱が勃発すると、世上は憲が音楽を審かにしていったのを思い起こした。
李璡は容貌が優れて整っており、性格は心が清く無私品行で、弓を射るのをよくし、
帝はこれを愛した。汝陽王に封じられ、太僕卿を歴任した。
賀知章・褚庭誨・
梁渉らと親しかった。薨去し、太子太師を贈位された。
李嗣荘は、幼くして令名があり、太子左諭徳となり、済陰王に封じられた。薨去し、幽州大都督を贈られた。
李琳は、秘書監・嗣寧王となり、天子が蜀に行幸するのに従った。薨去した。
李瑀は、早くより優れた人材との声望があり、偉丈夫であった。始め隴西郡公に封じられた。
帝が蜀に行幸するのに従い、河池に到り漢中王に封じられ、山南西道防禦使となった。乾元年間(758-760)初頭、
蕭国公主が回紇に降嫁すると、瑀に詔して特進・太常卿・持節冊となり回紇の威遠可汗に謁した。瑀はまた音楽に詳しく、かつて早朝に
永興里を過ぎると笛の音が聞こえた。周囲に「これは太常寺の笛工か」と聞き、「そうです」との返答があった。ある日面識があり、「何故寝ながら吹いたのか」と聞き、笛工は驚いて謝った。また
康崑崙が琵琶を演奏するのを聞いて、「琵の音が多く、琶の音が少ない、これではまだ五十四絲の大絃を弾くべきではないな」と言った。楽家は自分より下の逆鼓を琵といい、自分より上の順鼓を琶といった。
粛宗が詔して群臣の馬を収公して戦さの助けとしたが、瑀と
魏少游はともに所有したままで手放さなかった。帝は怒り、蓬州長史に左遷した。薨去し、太子太師を贈られ、諡を宣とした。孫に
李景倹がいる。
李景倹は、字は寛中。進士に及第した。博覧強記で、よく古えの王・覇者の成敗の大略をいい、自負が高く士大夫に屈するところがなかった。
王叔文らは更にこれを褒め、管仲・諸葛亮に比するとした。王叔文が失脚・賜死したが、景倹は母の喪に服していたため連座を免れた。
韋夏卿が東都を守ると、幕下に招かれた。
竇群が中丞に任じられると、引き上られて監察御史となり、竇群が左遷されると、景倹もまた江陵戸曹参軍となった。累進して忠州刺史に抜擢された。元和年間(806-820)末、入朝したが用られず、また澧州刺史となった。もとより
元稹・
李紳と親しく、二人は翰林にあっては、景倹の才を述べていた。
延英殿にて
帝の言葉を奉るに及んで、景倹は自ら感情を抑えて知見を述べた。
穆宗はこれを憐れんで、追って詔して倉部員外郎としたが遣されなかった。翌月、諫議大夫を拝した。性格は横柄で、酒を飲んでは気をほしいままにし、語っては宰相を攻撃したから、
蕭俛・
段文昌は帝に訴え、建州刺史に左遷された。元稹は君を得て、これを助けとするためにまた諌議大夫に復任した。
馮宿・
楊嗣復・
温造・
李肇らとともに史官独孤朗所にあり、景倹は酔って、中書省にいたって宰相の
王播・
崔植・
杜元穎を慢罵し、官吏は言をしりぞけてあつく謝罪して去らせたが、結局漳州刺史に左遷された。馮宿らもみな放逐されてしまった。漳州に到着する前に、元稹が輔政し、楚州刺史に改められた。議する者は、景倹が丞相を辱め、左遷されて未だ任地に至る前に任を変更するのはよくない、といった。元稹は恐れ、少府少監に改め、馮宿らもことごとく還した。景倹は不幸にして志を得ずに卒した。しかしその人となりは財を軽んじ、義に篤かったから、没して後、士は悲嘆にくれた。
恵荘太子
李撝は、もとの名を成義といった。生まれた時、
武后は母親が賎しい身分であったから、他の子と同列にせず、僧
万回に示したところ、万回は詭って「これは西土の樹神であり、よろしく兄弟とすべきです」と言ったから、武后は喜んで養った。垂拱三年(685-688)、始めて恒王となり、衛・趙二王と同じく封ぜられた。にわかに衡陽王に改められた。
睿宗が即位すると、申王に進められ、岐・薛と二王同じく封ぜられた。累進して右衛・金吾二大将軍となり、実封は千戸に至った。司徒に進み、益州大都督を兼任し、四州の刺史となった。開元八年(720)、刺史を停め、また司徒となった。薨去し、冊書して太子位および諡を贈られ、
橋陵に陪葬された。
李撝は性格は寛容で、容儀は優れて重々しかった。後嗣がなく、詔して譲皇帝(李憲)の子の
李珣を後嗣とし、懐寧王とし、移して同安に封ぜられた。薨去した。天宝年間(742-756)、また譲皇帝の子の
李璹を後嗣とした。
恵文太子
李範は、始めの名を隆範といった。
玄宗が即位すると、薛王
李隆業とともに
帝の諱を避けて二名(隆字)を撤去した。初め鄭王となり、改めて衛王に封ぜられた。にわかに巴陵王に降封されたが、岐王に進み、太常卿・并州大都督・左羽林大将軍となった。玄宗が
太平公主を誅すると、功によって封を賜り、薛王
李業とともに並んで五千戸となった。為州刺史を歴て、太子太傅に遷った。開元十四年(726)に薨去し、冊書して太子位および諡を贈られ、
橋陵に陪葬された。帝は慟哭して、毎日の食事を下げさせること数十日に至り、群臣がしいて請うたからようやく復した。
李範は好学で、書を巧みにし、儒士を愛し、貴賎分け隔てることなく礼を尽した。
閻朝隠・劉廷琦・張諤・鄭繇らと親しく、常に飲酒して詩を賦し互いに楽しんだ。また書画を蒐集し、皆世間に珍しいものとした。初め、隋が亡ぶと、禁内の図書は湮放し、唐が興ると募り訪れ、ようやくにしてまた出てきて秘府に納めた。長安年間(701-705)初頭、
張易之が奏して天下の名工や表装職人に、密かに肖像画を模写させたが、ほとんど分けずに秘かに家に隠した。誅殺されると、ことごとく
薛稷が取り出して持ち去ったが、薛稷もまた敗死すると、範がこれを入手した。後についに火事によって焼失してしまった。駙馬都尉の
裴虚己は讖緯をよくし,密かに範とともに讖緯を弄んだことに連座して、嶺南に流された。劉廷琦は雅州司戸に左遷され、張諤は山茌丞となった。しかしながら
帝と範の間には少しの間隙などなかった。周囲に言って「兄弟の情は天が至ったもので、我においてはどうして違うというのだろうか!争っては強いて結び付けようとしても、我はついに讖緯の助けなどいらないのだ」と。時に
王毛仲らが卑賎より身分を起こしてにわかに貴族となり、諸王は見れば必ず礼を加えたが、ひとり範のみは接してももとのままであった。子の
李瑾が嗣いだ。
李瑾は落ちぶれて名誉や礼法に飾らず、酒色に沈んだ。太僕卿を歴て、河東王に封じられたが、にわかに薨去し、太子少師を贈られた。天宝年間(742-756)、また薛王
李業の子、略陽公
李珍を嗣岐王とした。
李珍は、容貌は立派な偉丈夫で、宗正員外卿となり、蔚州鎮将の朱融と親しかった。朱融かつて珍が上皇に似ていると言ったから、そのため陰謀となり、金吾将軍の
邢済のところに行って、「関外の敵は間近となったが、京師は騒々しくなっている、どうするか」と言ったが、邢済は「私は金吾であり、天子の押衙(護衛長)である。死生をもって従うから、どうして自分だけ逃れるというのだろうか」と言うと、朱融は「嗣岐王にまみえても深謀遠慮などないのか」と言ったから、邢済は上聞し、
粛宗は詔して珍を廃して庶人とし、死を賜った。朱融の郎党は皆誅殺され、邢済は抜擢されて桂管防禦使となった。
恵宣太子
李業は、始め趙王となり、中山王に降封され、都水使を授けられた。彭城にうつり、陳州別駕を兼ねた。薛王に遷り、羽林大将軍・荊州大都督となった。好学であったから秘書監を授けられた。開元年間(713-741)初頭、太子少保に進められ、太保を拝し、歴州刺史に累進した。
初め、母が早くに亡くなり、従母(ままはは)の賢妃が養った。開元八年(720)、賢妃を外邸に迎え、これに仕えるにはなはだ謹厳であった。その妹の
淮陽公主・
涼国公主もまた早くに卒したが、妹らの遺児の甥と自身の子を均しく育てたから、
帝はますます愛した。かつて病にかかり、帝は自ら鬼神を祀って除災した。病が癒えるとその邸宅に行幸し、酒を置き詩を賦してはじめて生きる喜びとした。帝がかつて病となると、業の妃の弟の内直郎の韋賓と殿中監の
皇甫恂が吉凶の事を妄言したから、韋賓は連座して死罪となり、皇甫恂は錦州刺史に左遷された。妃は恐れて、降服して罪を待ったが、業はまたあえて入謁することもなかったから、帝は聞いて、すみやかにこれを召すと、業は殿下に伏して罪を請うた。帝は走っていってその手を取って「私が兄弟を疑うようなことがあれば、天地がともにこれを咎めるだろう!」といい、ついに兄弟間の友愛に復し、よって妃を諭して復位した。にわかに司徒に進んだ。開元二十二年(734)、業は病となり、帝はこれを憂いて、一昔の容髪が一変し、よって仮眠程度となり、快方を夢見て、目覚めると業の病が少しだけよくなっていた。邠王
李守礼らは請うてこの事を史官に記録させた。薨去すると、帝は悲しみのあまり食事ができなかった。冊書して加贈および諡し、
橋陵に陪葬された。
十一子があり、その聞こえたる者は
李瑗・
李瑒・
李琄がいる。
帝は後で李業を想い出し、瑗らを引見しこれを慰め、詔を下して共に実封千戸を賜った。瑗を楽安王、瑒を滎陽王・宗正卿、琄を嗣薛王、鴻臚卿とした。天宝年間(742-756)、琄の舅の
韋堅が
李林甫のために弾劾され、連座して夷陵別駕に左遷され、夜郎・南浦に移し置かれた。
安禄山の乱がおこると、京師に帰還した。
曾孫の
李知柔は、王を嗣ぎ、再び宗正卿となった。しばらくして京兆尹に抜擢された。はじめ、鄭国渠・白渠がふさがり、民は年を越せなかった。知柔は長安近郊を調査し、治めて旧道を回復し、灌漑できるようになることは昔のようであり、ついに旱魃の恐れはなくなった。民は宮中に詣でて石碑を建てて功績を記すことを請うたが、知柔が固辞したから固讓どうしようもなかった。加えて検校司徒・同中書門下平章事に累進した。また詔して
太廟を修造し、判度支・充諸道塩鉄転運使となった。
昭宗が莎城に出ると、ひとり知柔のみが従い、乗輿の器物・料理などにわかにすべて司り、大いに細やかにすべて備わった。性格は倹約で、位は貴顕に通じていたが、邸宅に居住することがなかった。しばらくもしないうちに出て清海軍節度使に拝せられ、鎮にあっては清廉で、貢献の時に入朝し、検校太傅となり、侍中を兼ねた。仕えることおよそ四紀(48年)、常に宗室の鏡となった。鎮にて卒した。
隋王
李隆悌は、始め汝南王に封ぜられた。早く薨去し、
睿宗は追王し、荊州大都督を贈ったが、爵位は伝わらなかった。
賛にいわく、
中宗は失道し、身は母のために廃位され、妻に弑殺され、四子もみなその終わりをよくせず、後嗣もまた伝わらなかった。ほとんど天がその徳を穢して絶やしたようなものであったが、なぜなのか。彼はもとより自ら天を絶ったに他ならないのだ。
睿宗は聖子があり、一人は天命を受けて天子となり、一人は帝号を追号され、三人は太子号を贈られた。天はこの報いを与え、福は無窮に流れた。なんと盛んなことだろうか。
最終更新:2025年10月29日 17:27