李裹兒
684-710
唐の
中宗の娘。母は
韋后。中宗が
武則天に廃されて房州(湖北省房県)に移されたとき、公主中の末子として生まれ、ことに中宗、韋后の寵愛を受け、中宗復位後、
武三思の次子
武崇訓に降嫁した。韋后が政治に参与すると、その勢いをたのんで専横をほしいままにし、官吏の任免については、官を売ってこれを
斜封官といい、邸宅や宴遊にぜいたくを極めた。武三思が公主とはかって皇太子
李重俊を廃そうとしたことから、李重俊が挙兵して武三思・武崇訓父子らを斬り(707)、そのため公主は寡婦となったが、また
武延秀に嫁した。710(景雲元)年韋后が公主と通し、夫の中宗を毒殺して温王
李重茂を皇帝に立てると、臨淄王李隆基(
玄宗)が挙兵して韋后を殺し、公主も軍兵に斬られ、后とともに長安の
東市にさらし首にされ、庶人におとされた。『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典1』(平凡社,1959年)
外部リンク
最終更新:2025年02月19日 01:37