武三思 ぶさんし
?-707
武周・盛唐の官人・外戚・宰相(在任697、698-700、705)。
武元慶の三男。武審思・武再思の弟。
武則天の甥。
武崇訓・
武崇烈の父。天授元年(690)武則天が即位すると梁王に封ぜられた。契丹が侵攻してくると楡関道安撫大使となり、神功元年(697)同鳳閣鸞台三品(宰相)となったが、翌月に宰相を辞職した。聖暦元年(698)検校内史(宰相)となったが、久視元年(700)罷免されて特進、太子少保となった。武則天は武三思を太子としようとしていたが、
狄仁傑の反対にあって断念。
中宗が復辟後も
韋皇后と結んで権勢を保ち、神龍元年(705)司空に任じられた(在任705)。子の武崇訓が
安楽公主とともに皇太子
李重俊を廃そうと陰謀を企んだが、かえって李重俊の反撃を受け、武三思の邸宅を包囲されて、子もろとも殺害された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年12月08日 21:56