韋后
?-710
中宗の皇后。「唐の女禍」の一人。京兆・万年(陝西省西安)の人。祖父韋弘表は太宗のとき曹王府典軍となり、父
韋弘貞は予州刺史。中宗が皇太子のとき妃に選ばれ、684(嗣聖元)年皇后となったその翌月中宗が生母武后に廃されて、房州(湖北省房県)に流されると、
李重潤および
永泰公主、
永寿公主・
長寧公主・
安楽公主の四公主をかかえ、不安におののく中宗と苦労をともにした。韋后は政権欲が強く、705(神竜元)年に中宗が復位すると、
高宗時代の武后をまねて政治を乱し、
武三思らを寵愛して素行がおさまらなかった。710(景竜4)年6月安楽公主らと共謀し、政権をにぎろうとして夫の中宗を毒殺し、温王李重茂(中宗の第四子、
殤帝)を即位させたが、臨淄王李隆基(
玄宗)が挙兵したため殺され、庶人の地位におとされた。韋后の事件を武后の事件と合わせて武韋の禍という。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典1』(平凡社,1959年)
外部リンク
最終更新:2024年12月01日 01:35