許王節
648-690
初唐の宗室。
高宗の第四皇子。母は
蕭淑妃。永徽二年(651)雍王に封ぜられ、雍州牧、岐州刺史に任じられた。郇王となった。
徐斉聃に師事したが、母が
武后に殺されたため、地方に出されて申州刺史となった。詔して病により入朝を免じたが、実際には病んでおらず、『忠孝論』を著して献じたため、武后の怨みを買い、収賄に連座して鄱陽王に降格させられ、袁州に流謫されて終身禁錮となった。儀鳳三年(679)岳州刺史、葛王となった。載初元年(690)、異母弟の
李上金とともに逮捕されて洛陽に連行され絞殺された。葬礼は庶人の礼をもって行われ、子の瑛ら九人はすべて誅殺されたが、ただ
李琳・
李瓘・
李璆・
李欽古はまだ幼なかったので、長く雷州に幽閉された。
中宗が復位すると、開府儀同三司・許州刺史を贈位し、
乾陵に陪葬された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『新唐書』
巻八十一 列伝第六 三宗諸子 許王素節
『旧唐書』巻八十六 列伝第三十六 高宗中宗諸子 高宗諸子 許王素節
外部リンク
最終更新:2025年02月14日 21:44