康伝圭

康伝圭

?-880
晩唐の武将・藩鎮。もとは河東節度使の牙将。都押衙。乾符五年(878)正月、竇澣によって土団(民兵)二千を率いて代州に駐屯したが、土団が反乱をおこした。同年五月、代州刺史に任じられ、乾符六年(879)七月に軍乱のため節度使の李侃が長安に逃げ帰ったため、河東行軍司馬に任じられた。同年十一月に河東節度使に任じられ、代州から晋陽に赴任すると、出迎えた都虞候の張鍇、郭朏を殺して一族を滅した。広明元年(880)沙陀都督李国昌が侵入してくると、伊釗・張彦球・蘇弘軫に迎撃させたが、敗北したため蘇弘軫を斬ったが、かえって張彦球に軍乱を起こされ殺害された。

本紀・史料

『新唐書』巻九 本紀第九 僖宗 乾符六年十一月戊午条、広明元年二月戊戌条
『資治通鑑』巻第二百五十三 唐紀六十九 僖宗上之下 乾符五年正月癸酉条所引 実録、同年五月丁巳条、乾符五年七月条、同年十一月戊午条、広明元年二月条

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最終更新:2024年03月20日 13:54
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