巻九 本紀第九

唐書巻九

本紀第九

懿宗 僖宗


  懿宗昭聖恭恵孝皇帝は、諱を漼といい、宣宗の長子である。母は元昭皇太后鼂氏といった。始め鄆王に封ぜられた。宣宗は夔王李滋を愛し、皇太子に立てたがっていたが、鄆王のほうが年長であったので、長いあいだ決まらなかった。

  大中十三年(859)八月、宣宗の病は重くなり、夔王を枢密使王帰長馬公儒・宣徽南院使王居方らに委嘱した。しかし左神策護軍中尉の王宗実・副使の丌元実は詔を偽って鄆王を立てて皇太子とした。癸巳、柩の前で皇帝位についた。王宗実王帰長馬公儒王居方を殺した。庚子、聴政を始めた。癸卯、令狐綯が司空となった。皇太后を尊んで太皇太后といった。
  九月庚申、を追尊して皇太后とした。
  十月辛卯、大赦をおこなった。文武の官に階・勲・爵を、耆老に粟帛を賜った。
  十一月戊午、蕭鄴が宰相を退いた。
  十二月甲申、翰林学士承旨・兵部侍郎の杜審権が同中書門下平章事となった。丁酉、令狐綯が宰相を退いた。荊南節度使の白敏中が司徒となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。
  この年、雲南蛮が播州を陥落させた。

  咸通元年(860)正月、浙東の人の仇甫がそむき、安南経略使の王式が浙江東道観察使となってこれを討った。
  二月丙申、聖武献文孝皇帝を貞陵に葬った。
  五月、京師で地震があった。袁王李紳が薨去した。
  七月、叔父の李𢗔を封じて信王とした。
  八月、衛王李灌が薨去した。己卯、仇甫が処刑された。
  九月戊申、白敏中が中書令となった。
  十月、安南都護の李鄠が播州で勝利した。己亥、夏侯孜が宰相を退いた。戸部尚書・判度支の畢諴が礼部尚書・同中書門下平章事となった。
  閏月乙亥、太清宮で朝献した。
  十一月丙子、太廟で朝享した。丁丑、役人が南郊を祀り、大赦をおこない、改元した。この月、慶王李沂が薨去した。
  十二月戊申、雲南蛮が安南を寇した。癸亥、福王李綰が司空となった。

  二年(861)二月、白敏中が宰相を退いた。尚書左僕射・判度支の杜悰が門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。福王李綰が薨去した。
  六月、塩州刺史の王寛が安南経略招討使となった。
  八月、雲南蛮が邕州を寇した。九月、巂州を寇した。

  三年(862)正月庚午、群臣が尊号をたてまつり、睿文明聖孝徳皇帝といった。大赦をおこなった。この月、蒋伸が宰相を退いた。
  二月庚子、杜悰が司空となった。この月、棣王李惴が薨去した。湖南観察使の蔡襲が安南経略招討使となった。
  三月戊寅、帰義軍節度使の張義潮が涼州で勝利した。
  七月、武寧軍が乱を起こし、その節度使の温璋を追放した。剣南西川節度使の夏侯孜が尚書左僕射となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。
  九月、嶺南西道軍が乱を起こし、その節度使の蔡京を追放した。
  十月丙申、子の李佾を封じて魏王とし、李侹を涼王とし、李佶を蜀王とした。杜悰が司徒となった。
  十一月、大叔父の李緝を封じて蘄王とし、叔父の李𢗔を栄王とした。雲南蛮が安南を寇した。丙寅、囚人の罪を一等降し、徐州の秋税を免除した。
  十二月、翼王李繟が薨去した。

  四年(863)正月戊辰、太清宮で朝献した。己巳、太廟で朝享した。庚午、役人が南郊を祀り、大赦をおこなった。雲南蛮が安南を陥落させ、蔡襲がここに死んだ。庚辰、撫王李紘が司空となった。
  二月、十六陵に拝礼した。秦州経略使の高駢が安南経略招討使となった。
  四月、畢諴が宰相を退いた。
  五月己巳、翰林学士承旨・兵部侍郎の楊収が同中書門下平章事となった。戊子、杜審権が宰相を退いた。
  閏六月、杜悰が宰相を退いた。兵部侍郎・判度支の曹確が同中書門下平章事となった。
  七月辛卯朔、日食があった。安南の戸税・丁銭を二年のあいだ免除し、廉州の珠池の禁をゆるめた。
  八月、夔王李滋が薨去した。
  十二月乙酉、昭義軍が乱を起こし、その節度使の沈詢を殺した。

  五年(864)正月丙午、雲南蛮が巂州を寇した。三月、邕州を寇した。
  四月、兵部侍郎・判戸部の蕭寘が同中書門下平章事となった。
  五月丁酉、邕・巂州の戦死者を埋葬した。己亥、彗星が婁に出現した。
  八月丁卯、夏侯孜が司空となった。
  十月、貞陵の隧道が炎上した。
  十一月戊戌、夏侯孜が宰相を退いた。壬寅、翰林学士承旨・兵部侍郎の路巌が同中書門下平章事となった。

  六年(865)三月、蕭寘が薨去した。
  四月、剣南東川節度使の高璩が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。
  五月、高駢が雲南蛮と邕州で戦い、これを破った。
  六月、高璩が薨去した。御史大夫の徐商が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。
  七月、子の李侃を封じて郢王とした。
  十二月、晋・絳の二州で地震があった。壬子、太皇太后が崩じた。

  七年(866)二月戊申、河南府と同・華・陝・虢の四州で一年のあいだ税を免除し、湖南と桂・邕・容の三管と岳州の夏・秋税の半分を免除した。
  三月、成徳軍節度使の王紹懿が亡くなり、その兄の子の王景崇が留後を自称した。
  閏月、吐蕃が邠州・寧州を寇した。
  五月甲辰、孝明太皇太后を景陵の園に葬った。
  六月、魏博節度使の何弘敬が亡くなり、その子の何全が留後を自称した。
  八月辛卯、昼に暗かった。
  十月壬申、楊収が宰相を退いた。この月、高駢が安南で勝利した。
  十一月辛亥、大赦をおこない、咸通三年(862)以前の未納賦税を免除し、文武の官に階・勲・爵を賜った。

  八年(867)正月丁未、河中府と晋・絳の二州で地震があった。
  五月丙辰、不豫のため囚人の罪一等を減じた、宮人五百を出し、神策・五坊・飛龍の鷹鷂を放ち、延慶・端午の節で女口を献上することを禁じた。
  七月、下邳であたたかい雨が降った。壬寅、蘄王李緝が薨去した。乙巳、懐州の民が乱を起こし、その刺史の劉仁規を追放した。甲子、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使の于琮が同中書門下平章事となった。
  十一月辛丑、病が快癒し、正殿を避け、民で年七十歳で長らく病となっている者、および軍士で戦勝の者に帛を賜った。
  十二月、信王李𢗔が薨去した。

  九年(868)正月、彗星が婁・胃の間から出てきた。
  七月、武寧軍節度糧料判官の龐勛が桂州でそむいた。十月庚午、宿州を陥落させた。丁丑、徐州を陥落させ、観察使の崔彦曾がここに死んだ。十一月、濠州を陥落させ、刺史の盧望回がここに死んだ。右金吾衛大将軍の康承訓が徐泗行営兵馬都招討使となり、神武大将軍の王晏権が北面招討使となり、羽林将軍の戴可師が南面招討使となった。
  十二月、龐勛が和・滁の二州を陥落させ、滁州刺史の高錫望がここに死んだ。壬申、戴可師龐勛と都梁山で戦い、ここに死んだ。この月、前の天雄軍節度使の馬挙が南面招討使となり、泰寧軍節度使の曹翔が北面招討使となった。

  十年(869)二月、驩州の流人の楊収を殺した。
  三月、李侃を徙封して威王とした。
  四月、鎮南軍節度使の厳譔を殺した。康承訓龐勛と柳子で戦い、これを破った。
  六月、神策軍将軍の宋威が西北面招討使となった。戊戌、蝗・旱魃のため囚人を再審した。徐商が宰相を退いた。翰林学士承旨・戸部侍郎の劉瞻が同中書門下平章事となった。
  八月、彗星が大陵に出た。
  九月癸酉、龐勛が処刑された。
  十月戊戌、徐・宿・濠・泗の四州で三年のあいだ税役を免除した。
  十二月壬子、雲南蛮が嘉州を寇した。

  十一年(870)正月甲寅、群臣が尊号をたてまつって、睿文英武明徳至仁大聖広孝皇帝といった。大赦をおこなった。雲南蛮が黎・雅の二州、および成都を寇した。
  二月甲申、剣南西川節度副使の王建立が雲南蛮と城北で戦い、ここに死んだ。甲午、剣南東川節度使の顔慶復が雲南蛮と新都で戦い、これを破った。
  三月、曹確が宰相を退いた。
  四月丙午、翰林学士承旨・兵部侍郎の韋保衡が同中書門下平章事となった。
  八月、医待詔の韓宗紹を殺した。魏博軍が乱を起こし、その節度使の何全皥を殺し、その将の韓君雄が留後を自称した。
  九月丙辰、劉瞻が宰相を退いた。
  十一月辛亥、礼部尚書・判度支の王鐸が同中書門下平章事となった。

  十二年(871)四月癸卯、路巌が宰相を退いた。
  五月庚申、囚人を再審した。
  十月、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使の劉鄴が礼部尚書・同中書門下平章事となった。

  十三年(872)二月丁巳、于琮が宰相を退いた。刑部侍郎・判戸部の趙隠が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。幽州盧龍軍節度使の張允伸が亡くなり、その子の張簡会が留後を自称した。
  三月癸酉、平州刺史の張公素張簡会を追放し、留後を自称した。
  四月庚子、浙江東西道で地震があった。子の李保を封じて吉王とし、李傑を寿王とし、李倚を睦王とした。
  五月乙亥、国子司業の韋殷裕を殺した。
  十一月、王鐸が司徒となり、韋保衡が司空となった。

  十四年(873)正月、沙陀が代北を寇した。
  三月、仏骨を鳳翔に迎えた。癸巳、雨土。
  四月、并州の民が二頭四手の子を産んだ。壬寅、大赦をおこなった。
  六月、帝が病となった。王鐸が宰相を退いた。
  七月辛巳、皇帝咸寧殿で崩じ、年は四十一であった。


  僖宗恵聖恭定孝皇帝は、諱を儇といい、懿宗の第五子である。母は恵安皇太后王氏といった。始め普王に封じられ、名を儼といった。

  咸通十四年(873)七月、懿宗疾大漸、左右神策護軍中尉の劉行深韓文約が普王を立てて皇太子とした。辛巳、柩の前で皇帝位についた。
  八月癸巳、聴政を始めた。丁未、を追尊して皇太后とした。乙卯、韋保衡が司徒となった。
  九月、韋保衡を左遷して賀州刺史とした。
  十月乙未、尚書左僕射の蕭倣が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  十二月、震電。癸卯、大赦をおこない、水害や旱害のあった州県の租賦を免除し、鷹鶻の貢納が廃止された。雲南蛮が黎州を寇した。

  乾符元年(874)二月甲午、昭聖恭恵孝皇帝を簡陵に葬った。癸丑、死罪以下を一等降した。趙隠が宰相を退いた。華州刺史の裴坦が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  四月辛卯、旱により囚人を再審した。
  五月乙未、裴坦が薨去した。刑部尚書の劉瞻が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  八月辛未、劉瞻が薨去した。兵部侍郎・判度支の崔彦昭が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  十月、劉鄴が宰相を退いた。吏部侍郎の鄭畋が兵部侍郎となり、翰林学士承旨・戸部侍郎の盧攜が同中書門下平章事となった。
  十一月庚寅、改元した。群臣が尊号をたてまつって聖神聡睿仁哲明孝皇帝といった。この月、蕭倣が司空となった。魏博節度使の韓允中が亡くなり、その子の韓簡が留後を自称した。
  十二月、党項・回鶻が天徳軍を寇した。雲南蛮が黎・雅の二州を寇し、河西・河東・山南東道・東川の兵が雲南を討伐した。

  二年(875)正月己丑、太清宮で朝献した。庚寅、太廟で朝享した。辛卯、有事于南郊、大赦をおこなった。文武の官に階・勲・爵を賜り、文宣王および二王後・三恪の一子に官を授けた。雲南蛮が和を請うた。
  四月庚辰、太白(金星)が昼に見えた。浙西突陣の将の王郢がそむいた。
  五月、右龍武軍大将軍の宋皓がこれを討った。蕭倣が薨去した。
  六月、濮州の賊の王仙芝尚君長が曹・濮の二州を陥落させ、河南諸鎮の兵がこれを討った。吏部尚書の李蔚が中書侍郎・同中書門下平章事となった。幽州の将の李茂勲がその節度使の張公素を追放し、留後を自称した。
  七月、蝗害のため正殿を避け、膳を減らした。
  十一月、震電。

  三年(876)二月丙子、旱によって死罪以下を一等降した。
  三月、野ざらしの骸を葬った。平盧軍節度使の宋威が指揮諸道招討草賊使となり、検校左散騎常侍の曾元裕がその副使となった。募能捕賊三百人者、官以将軍。幽州盧龍軍節度使の李茂勲がその子の李可挙を立てて留後とした。
  五月庚子、以旱理囚、浙東・浙西で一年のあいだ税を免除した。昭王李汭が薨去した。
  六月乙丑、雄州で地震があった。撫王李紘が太尉となった。
  七月辛巳、雄州で地震があった。鎮海軍節度使の裴璩王郢と戦い、これを破った。鄂王李潤が薨去した。
  九月乙亥朔、日食があったので、正殿を避けた。丙子、王仙芝が汝州を陥落させ、刺史の王鐐を捕らえた。
  十一月、王仙芝が郢・復の二州を陥落させた。
  十二月、京師で地震があった。王仙芝が申・光・廬・寿・通・舒の六州を陥落させた。忠武軍節度使の崔安潜が諸道行営都統となり、宮苑使の李琢が諸軍行営招討草賊使となり、右威衛上将軍の張自勉がその副使となった。
  この冬、雪がなかった。

  四年(877)正月丁丑、死罪以下に二等降し、流人の死者の収葬を許した。崔彦昭が司空となった。
  二月、王仙芝が鄂州を陥落させた。
  閏月、崔彦昭が宰相を退いた。昭義軍が乱を起こし、その節度使の高湜を追放した。宣武軍節度使の王鐸が司徒を検校し、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。
  三月、宛句の賊の黄巣が鄆・沂の二州を陥落させ、天平軍節度使の薛崇がここに死んだ。
  四月壬申朔、日食があった。この月、陝州軍が乱を起こし、その観察使の崔碣を追放した。江西の賊の柳彦璋が江州を陥落させ、その刺史の陶祥を捕らえた。高安制置使の鍾伝が撫州を陥落させた。
  五月、彗星があり、正殿を避け、膳を減らした。
  六月、王鐸が司徒となった。庚寅、雄州で地震があった。
  八月、黄巣が隋州を陥落させ、刺史の崔休徴を捕らえた。
  九月、沙陀が雲・朔二州を寇した。塩州の軍が乱を起こし、その刺史の王承顔を追放した。
  十月、河中軍が乱を起こし、その節度使の劉侔を追放した。
  十一月、尚君長が降り、宋威がこれを殺した。
  十二月、安南の戍兵が乱を起こし、桂管観察使の李瓚を追放した。江州刺史の劉秉仁柳彦璋と戦い、これを破った。

  五年(878)正月丁酉、王仙芝が江陵外郛を陥落させた。壬寅、曾元裕王仙芝と申州で戦い、これを破った。元裕が諸道行営招討草賊使となり、張自勉がその副使となった。宋威が招討使を辞任した。
  二月癸酉、雲中守捉使の李克用が大同軍防禦使の段文楚を殺した。己卯、李克用が遮虜軍を寇した。この月、王仙芝が処刑され、その将の王重隠が饒州を陥落させ、刺史の顔標がここに死んだ。江西の賊の徐唐莒が洪州を陥落させた。
  三月、黄巣が濮州を陥落させ、河南を寇した。崔安潜が都統を辞任した。張自勉が東西面行営招討使となった。湖南軍が乱を起こし、その観察使の崔瑾を追放した。
  四月、饒州の将の彭令璋が饒州で勝利し、刺史を自称した。徐唐莒が処刑された。
  五月丁酉、鄭畋盧攜が宰相を退いた。翰林学士承旨・戸部侍郎の豆盧瑑が兵部侍郎となり、吏部侍郎の崔沆が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。この日、雨と雹があり、大風で木が抜けた。
  八月、大同軍節度使の李国昌が岢嵐軍を陥落させた。黄巣が杭州を陥落させた。
  九月、李蔚が宰相を退いた。吏部尚書の鄭従讜が中書侍郎・同中書門下平章事となった。黄巣が越州を陥落させ、観察使の崔琢を捕らえた。鎮海軍の将の張潾が越州で勝利した。
  十月、昭義軍節度使の李鈞と幽州盧龍軍節度使の李可挙李国昌を討った。
  十一月丁未、河東宣慰使の崔季康が河東節度・代北行営招討使となった。
  十二月甲戌、黄巣が福州を陥落させた。庚辰、崔季康李鈞李克用と洪谷で戦い、敗れた。
  この年、天平軍節度使の張裼が亡くなり、衙将の崔君裕が自ら知州事となった。

  六年(879)正月、鎮海軍節度使の高駢が諸道行営兵馬都統となった。魏王李佾が薨去した。
  二月、京師で地震があり、藍田で山が裂け、水が出た。河東軍で乱が起こり、その節度使の崔季康を殺した。
  四月庚申朔、日食があった。涼王李侹が薨去した。王鐸が荊南節度使・南面行営招討都統となった。
  五月、泰寧軍節度使の李係が湖南観察使となり、招討副使とした。黄巣が広州を陥落させ、嶺南東道節度使の李迢を捕らえ、安南を陥落させた。
  八月甲子、東都留守の李蔚を河東節度・代北行営招討使とした。
  閏十月、黄巣が潭・澧の二州を陥落させ、澧州刺史の李絢がここに死んだ。
  十一月丙辰、兩日並出而。戊午、河東節度使の康伝圭が代北行営招討使となった。辛酉、黄巣が江陵を陥落させ、李迢を殺した。丁丑、山南東道節度使の劉巨容黄巣と荊門で戦い、これを破った。
  十二月壬辰、江陵で勝利した。この月、王鐸を左遷して太子賓客とし、東都を分司させた。兵部尚書の盧攜が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  この年、淄州刺史の曹全晸が鄆州で勝利し、崔君裕を殺した。黄巣が鄂・宣・歙・池の四州を陥落させた。朗州の賊の周岳が衡州を陥落させ、その刺史の徐顥を追放した。荊南の将の雷満が朗州を陥落させ、刺史の崔翥がここに死んだ。石門蛮の向瓌が澧州を陥落させ、権知州事の呂自牧がここに死んだ。桂陽の賊の陳彦謙が郴州を陥落させ、刺史の董岳がここに死んだ。

  広明元年(880)正月乙卯、改元した。嶺南・荊湖・河中・河東の税賦の十分の四を免除した。戊寅、荊南監軍の楊復光・泰寧軍の将の段彦謩がその守将の宋浩を殺し、常滋を節度留後とした。淮南の将の張潾黄巣と大雲倉で戦い、これを破った。
  二月丙戌、李国昌が忻・代二州を寇した。戊戌、河東軍が乱を起こし、その節度使の康伝圭を殺した。壬子、鄭従讜が宰相を退いて河東節度使・代北行営招討使となった。
  三月辛未、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。
  四月甲申、京師・東都・汝州で雨や雹があり、大風で木が抜けた。丁酉、太府卿の李琢が蔚・朔招討都統となった。壬寅、張潾が饒州で勝利した。
  五月、汝州防禦使の諸葛爽が蔚・朔招討副使となった。泰寧軍の将の劉漢宏がそむいた。張潾黄巣と信州で戦い、ここに死んだ。
  六月、黄巣が睦・婺・宣の三州を陥落させた。江華の賊の蔡結が道州を陥落させた。宿州の賊の魯景仁が連州を陥落させた。
  七月、黄巣が滁・和の二州を陥落させた。辛酉、天平軍節度使の曹全晸が東面副都統となった。辛未、劉漢宏が降った。李可挙李国昌と薬兒嶺で戦い、これを破った。
  八月辛卯、昭義軍で乱があり、その節度使の李鈞を殺した。癸卯、栄王李㥽が司空となった。この月、李㥽が薨去した。
  九月、忠武軍の将の周岌がその節度使の薛能を殺した。牙将の秦宗権が権知蔡州事を自称した。
  十月、黄巣が申州を陥落させた。
  十一月、河中都虞候の王重栄がその節度使の李都を追放した。黄巣が汝州を陥落させた。壬戌、左神策軍に行幸して閲兵した。護軍中尉の田令孜が諸道兵馬都指揮制置招討使となり、忠武軍監軍の楊復光が副使となった。丁卯、東都留守の劉允章が叛いて黄巣についた。壬申、黄巣が虢州を陥落させた。田令孜が汝・洛・晋・絳・同・華都統となった。
  十二月壬午、黄巣が潼関を陥落させた。甲申、盧攜を左遷して太子賓客とし、東都を分司させた。翰林学士承旨・尚書左丞の王徽が戸部侍郎となり、翰林学士・戸部侍郎の裴澈が工部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。咸陽を行在とした。丙戌、左金吾衛大将軍の張直方が武官を率いて叛いて黄巣についた。黄巣が京師を陥落させた。辛卯、鳳翔に行った。丙申、河陽節度使の諸葛爽が叛いて黄巣についた。丁酉、興元に行った。庚子、広徳公主豆盧瑑崔沆・尚書左僕射の劉鄴・右僕射の于琮・太子少師の裴諗・御史中丞の趙濛・刑部侍郎の李溥・京兆尹の李湯黄巣のために死んだ。
  この年、靖陵で血の雨が降った。

  中和元年(881)正月壬子、成都にいった。壬申、兵部侍郎・判度支の蕭遘が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丁丑、成都に行った。
  二月己卯、剣南三川で赦した。太子少師の王鐸が司徒となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。淮南節度使の高駢が京城四面都統となった。邠寧節度使の李存礼黄巣を討った。鳳翔節度使の鄭畋黄巣と龍尾坡で戦い、これを破った。邠寧の将の王玫が邠州を陥落させた。戊戌、清平鎮使の陳晟が睦州刺史の韋諸を捕らえ、刺史を自称した。
  三月辛亥、黄巣が鄧州を陥落させ、刺史の趙戎を捕らえた。辛酉、鄭畋が京城西面行営都統となった。甲子、鄭畋と涇原節度使の程宗楚・天雄軍経略使の仇公遇が鳳翔で会盟した。この月、王徽が宰相を退いた。諸葛爽が河陽をもって降った。
  四月戊寅、王玫が処刑された。程宗楚および朔方軍節度使の唐弘夫黄巣と咸陽で戦い、これを破った。壬午、黄巣は灞上に逃れた。丁亥、再び京師に入り、唐弘夫程宗楚がここに死んだ。この月、李国昌とその子の李克用を赦して黄巣を討たせた。
  五月丙辰、李克用が太原を寇し、振武軍節度使の契苾璋がこれを破った。辛酉、大風、雨土。この月、劉巨容が南面行営招討使となった。楊復光が鄧州を落とした。
  六月、鄮の賊の鍾季文が明州を陥落させた。辛卯、邠寧節度副使の朱玫黄巣と興平で戦い、敗れた。戊戌、鄭畋が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事・京城四面行営都統を兼ねた。丙午、李克用が忻・代の二州を陥落させた。
  七月丁巳、大赦をおこない、改元した。庚申、翰林学士承旨・兵部侍郎の韋昭度が同中書門下平章事となった。丙寅、神策軍の将の郭琪がそむき、処刑された。辛未、田令孜が左拾遺の孟昭図を殺した。義武軍節度使の王処存が東南面行営招討使となった。
  八月、感化軍の将の時溥がその節度使の支詳を追放し、留後を自称した。昭義軍節度使の高潯黄巣と石橋で戦い、敗れ、十将の成麟高潯を殺し、潞州に入った。己丑、多くの星が成都に落ちた。
  九月丙午、鄜延節度使の李孝章・夏綏銀節度使の拓抜思恭黄巣と東渭橋で戦い、敗れた。臨海の賊の杜雄が台州を陥落させた。辛酉、子の李震を封じて建王とした。己巳、昭義軍の戍将の孟方立成麟を殺し、留後を自称した。永嘉の賊の朱褒が温州を陥落させた。
  この秋、河東で霜が降って禾を枯らせた。
  十月、鳳翔行軍司馬の李昌言がその節度使の鄭畋を追放した。
  十一月、李昌言が鳳翔節度行営招討使となった。鄭畋裴澈が宰相を退いた。遂昌の賊の盧約が処州を陥落させた。
  十二月、安南の戍将の閔頊が湖南観察使の李裕を追放し、留後を自称した。
  この年、霍丘鎮使の王緒が寿・光の二州を陥落させた。

  二年(882)正月辛亥、王鐸を諸道行営都都統とし、承制封拜、太子少師崔安潜を副都統とした。高駢が都統を辞任した。辛未、王処存が京城東面都統となり、李孝章が北面都統となり、拓跋思恭が南面都統となった。
  二月甲戌、黄巣が同州を陥落させた。己卯、太子少傅・分司東都の鄭畋が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。丙戌、李昌言が京城西面都統となり、邠寧節度使の朱玫が河南都統・諸谷防遏使となった。
  三月、邛州蛮の阡能が叛き、西川の部将の楊行遷がこれを討った。李克用が蔚州を陥落させた。
  六月、朱玫が京城西北面行営都統となった。楊行遷阡能と乾溪で戦い、敗れた。己亥、荊南監軍の朱敬玫がその節度使の段彦謩を殺し、少尹の李燧が留後を自称した。
  七月、保大軍節度留後の東方逵が京城東面行営招討使となった。撫州刺史の鍾伝が洪州を陥落させ、江西観察使の高茂卿が江州に逃れた。
  八月丁巳、東方逵が京城東北面行営都統となり、拓抜思恭が京城四面都統となった。魏博節度使の韓簡が孟州を陥落させた。
  九月丙戌、黄巣の将の朱温が同州をもって降った。己亥、朱温は右金吾衛大将軍・河中行営招討副使となった。この月、太原で桃李が実った。嶺南西道軍が乱を起こし、その節度使の張従訓を追放した。平盧軍の将の王敬武がその節度使の安師儒を追放して、留後を自称した。
  十月、嵐州刺史の湯群が沙陀をつれてそむいた。韓簡が鄆州を寇し、天平軍節度使の曹全晸がここで死に、部将の崔用が留後を自称した。諸葛爽が孟州を陥落させた。
  十一月、荊南軍が乱を起こし、衙将の陳儒が留後を自称した。丙子、湯群が処刑された。
  この年、関中で大飢饉があった。南城の賊の危全諷が撫州を陥落させた。危仔倡が信州を陥落させた。廬州の将の楊行密がその刺史の郎幼復を追放した。和州刺史の秦彦が宣歙観察使の竇潏を追放した。

  三年(883)正月、雁門節度使の李克用が京城東北面行営都統となった。乙亥、王鐸が宰相を退いた。
  二月、魏博軍が乱を起こし、その節度使の韓簡を殺し、その将の楽彦禎が留後を自称した。己未、建王李震が太保となった。
  三月、天有聲于浙西。壬申、李克用黄巣と零口で戦い、これを破った。
  四月甲辰、また黄巣を渭南で破った。丙午、京師を奪回した。
  五月、鄭畋が司徒となり、東都留守・検校司空の鄭従讜が司空・同中書門下平章事となった。淮南の将の張が復州を陥落させた。奉国軍節度使の秦宗権がそむいて黄巣についた。
  七月、宣武軍節度副大使の朱全忠が東北面都招討使となった。鄭畋が宰相を退いた。兵部尚書・判度支の裴澈が同中書門下平章事となった。
  八月、黄巣秦宗権が陳州を寇した。淮南の将の韓師徳が岳州を陥落させた。
  九月、武寧軍節度使の時溥が東面兵馬都統となった。
  この秋、晋州で地震があった。
  十月、全椒の賊の許勍が滁州を陥落させた。李克用が潞州を陥落させ、刺史の李殷鋭がここに死んだ。
  十一月壬申、剣南西川行軍司馬の高仁厚阡能と邛州で戦い、これを破った。
  十二月、忠武軍の将の鹿晏弘が興元節度使の牛勗を追放し、留後を自称した。
  この年、天平軍の将の曹存実が鄆州で勝利した。石鏡の鎮将の董昌が杭州刺史の路審中を追放した。

  四年(884)正月、婺州の将の王鎮がその刺史の黄碣を捕らえ、叛いて董昌についた。
  二月、王鎮が処刑された。浦陽の将の蒋瓌が婺州を陥落させた。舒州の賊の呉迥がその刺史の高澞を追放した。
  三月甲子、剣南東川節度副大使の楊師立がそむき、西川節度使の陳敬瑄が西川・東川・山南西道都指揮招討使となった。前杭州刺史の路審中が鄂州を陥落させた。
  五月辛酉、朱全忠黄巣と戦い、これを破った。辛未、河東節度使の李克用黄巣と宛句で戦い、これを破った。癸酉、高仁厚が剣南東川節度使となり楊師立を討った。壬午、福建団練副使の陳巌がその観察使の鄭鎰を追放し、観察使を自称した。
  六月乙卯、剣南三川で赦した。京畿の骸骨を埋葬した。
  七月辛酉、楊師立が処刑された。壬午、黄巣が処刑された。
  九月、山南西道節度使の鹿晏弘がそむいた。
  十月、蕭遘が司空となった。
  十一月、鹿晏弘が許州を陥落させ、節度使の周岌を殺して、留後を自称した。
  十二月甲午、荊南行軍司馬の張がその節度使の陳儒を追放して、留後を自称した。義昌軍節度使の王鐸が盜に殺された。
  この年、関中で大飢饉があった。濮州刺史の朱宣が天平軍節度使の曹存実を追放し、留後を自称した。武昌軍の将の杜洪が岳州を陥落させた。

  光啓元年(885)正月庚辰、荊南軍の将の成汭が帰州を陥落させた。この月、王緒が汀・漳の二州を陥落させた。南康の賊の盧光稠が虔州を陥落させた。
  三月丁卯、至自成都。己巳、大赦をおこない、改元した。時溥が蔡州四面行営兵馬都統となった。蕭遘が司徒となり、韋昭度が司空となった。
  四月、呉迥が処刑された。秦宗権が襄州を陥落させ、山南東道節度使の劉巨容が成都に逃れた。武当の賊の馮行襲が均州を陥落させ、その刺史の呂燁を追放した。
  五月、群臣が尊号をたてまつって至徳光烈皇帝といった。
  六月、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の李可挙を殺し、その将の李全忠が留後を自称した。壬戌、秦宗権が東都を陥落させた。
  七月、義昌軍が乱を起こし、その節度使の楊全玫を追放し、衙将の盧彦威が留後を自称した。
  八月、光州の賊の王潮が王緒を捕らえた。甲寅、右補闕の常濬を殺した。楽彦禎が洺州刺史の馬爽を殺した。
  九月、河中節度使の王重栄がそむき、邠寧節度使の朱玫がこれを討った。
  十月癸丑、朱全忠秦宗権と双丘で戦い、敗れた。
  十一月、河東節度使の李克用が叛いて王重栄につき、王重栄李克用が同州を寇して、刺史の郭璋がここに死んだ。
  十二月癸酉、朱玫王重栄李克用と沙苑で戦い、敗れた。乙亥、李克用が京師を侵した。丙子、鳳翔にいった。

  二年(886)正月辛巳、鎮海軍の将の張郁が常州を陥落させた。戊子、興元にいった。癸巳、朱玫が叛き、鳳翔を寇した。
  二月、鄭従讜が太傅となった。
  三月壬午、山南西道節度使の石君渉が鳳翔に逃れた。遂州刺史の鄭君雄が漢州を陥落させた。丙申、次興元。戊戌、御史大夫の孔緯と翰林学士承旨・兵部尚書の杜讓能が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。
  この春、成都で地震があり、鳳翔の女子が変化して丈夫となった。
  四月乙卯、朱玫が嗣襄王李熅に京師に入らせた。
  五月丙戌、有星孛于箕・尾。武寧軍の将の丁従実が常州を陥落させ、その刺史の張郁を追放した。
  六月、淮西の将の黄皓が欽化軍節度使の閔頊を殺した。衡州刺史の周岳が潭州を陥落させ、節度使を自称した。
  七月、秦宗権が許州を陥落させ、忠武軍節度使の鹿晏弘がここに死んだ。
  八月、王潮が泉州を陥落させ、刺史の廖彦若がここに死んだ。幽州盧龍軍節度使の李全忠が亡くなり、その子の李匡威が留後を自称した。
  九月、隕石が揚州に落ちた。戊寅、静難軍の将の王行瑜が興・鳳の二州を陥落させた。
  十月丙午、嗣襄王李熅が自ら立って皇帝となり、皇帝を尊んで太上元皇聖帝とした。朱全忠が滑州を陥落させ、義成軍節度使の安師儒を捕らえた。丙辰、杭州刺史の董昌が越州を攻め、浙東観察使の劉漢宏が台州に逃れた。この月、河陽節度使の諸葛爽が亡くなり、その子の諸葛仲方が留後を自称した。神策行営先鋒使の満存が興・鳳の二州を落とした。感義軍節度使の楊晟が文州を陥落させた。武寧軍の将の張雄が蘇州を陥落させた。
  十一月庚子、秦宗権が鄭州を陥落させた。
  十二月、魏州で地震があった。丙午、台州刺史の杜雄劉漢宏を捕らえ、董昌を降した。董昌は浙東観察使を自称した。丙辰、朱玫が処刑された。丁巳、李熅が処刑された。秦宗権が孟州を陥落させ、諸葛仲方が汴州に逃れた。
  この年、天平軍の将の朱瑾が泰寧軍節度使の斉克譲を追放し、留後を自称した。湘陰の賊の鄧進思が岳州を陥落させた。杜洪が鄂州を陥落させ、武昌軍節度留後を自称した。

  三年(887)三月癸未、蕭遘裴澈・兵部侍郎の鄭昌図に罪があって処刑された。壬辰、鳳翔に行った。鄭従讜が宰相を退いた。韋昭度が司徒となった。癸巳、鎮海軍の将の劉浩がその節度使の周宝を追放して、度支催勘使の薛朗が知府事を自称した。
  四月甲辰、六合鎮遏使の徐約が蘇州を陥落させ、その刺史の張雄を追放した。甲子、淮南兵馬使の畢師鐸が揚州を陥落させ、その節度使の高駢を捕らえた。この月、維州山が崩れた。
  五月甲戌、宣歙観察使の秦彦が揚州に入った。癸未、秦宗権が鄭州を陥落させた。
  六月、孟州を陥落させ、河陽の将の李罕之が孟州に入り、張全義が東都に入った。己酉、鳳翔節度使の李昌符がそむいた。庚戌、大安門に侵入したが、勝たず、隴州に逃げた。壬子、武定軍節度使の李茂貞が隴州招討使となった。丁巳、護国軍の将の常行儒がその節度使の王重栄を殺し、その兄の王重盈が留後を自称した。壬戌、亳州の将の謝殷がその刺史の宋衮を追放した。
  七月丁亥、降死罪以下、貞観・開元・建中・興元功臣後予一子九品正員官、減常膳三之一、賜民九十以上粟帛。七月、李昌符が処刑された。
  八月、韋昭度が太保となった。壬寅、謝殷が処刑された。朱全忠が亳州を陥落させた。壬子、曹州を陥落させ、刺史の丘弘礼がここに死んだ。
  九月、戸部侍郎・判度支の張濬が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。秦彦高駢を殺した。
  十月丁未、朱全忠が濮州を陥落させた。甲寅、子の李陞を封じて益王とした。杭州刺史の銭鏐が常州を陥落させた。丁卯、銭鏐周宝を殺した。この月、秦宗権の将の孫儒が揚州を寇した。
  十一月壬申、廬州刺史の楊行密が揚州を陥落させ、秦彦畢師鐸孫儒のもとに逃れた。
  十二月癸巳、淮西の将の趙徳諲が江陵を陥落させ、荊南節度使の張瓌がここに死んだ。朱全忠が東南面招討使となった。饒州刺史の陳儒が衢州を陥落させた。上蔡の賊の馮敬章が蘄州を陥落させた。

  文徳元年(888)正月甲寅、孫儒秦彦畢師鐸を殺した。癸亥、朱全忠が蔡州四面行営都統となった。丙寅、薛朗が処刑された。銭鏐が潤州を陥落させた。
  二月乙亥、不豫。己丑、鳳翔から到着した。庚寅、謁于太廟、大赦し、改元した。この月、魏博軍で乱があり、その節度使の楽彦禎を殺し、その将の羅弘信が権知留後を自称した。
  三月戊戌朔、皆既日食があった。壬寅、病が重くなり、寿王李傑を立てて皇太弟、知軍国事とした。癸卯、皇帝武徳殿で崩じ、年は二十七であった。


  賛にいわく、唐は穆宗より以来八世、宦官によって擁立される者は七君であった。だからこそ唐は衰亡し、どうして方鎮の患いを止められただろうか。思うに朝廷は天下の根本であり、人君は朝廷の根本であり、即位の初めは人君の根本なのである。その始元が正しくなければ、天下を正そうと思ったところで、できようか。懿宗・僖宗は唐の政治が衰え始めたのにあたって、暗愚によって相続したのである。乾符年間(874-879)、毎年大旱魃に蝗害で、民は憂いて盗賊が蜂起し、その反乱はついに唐を再び支えることができないものとしてしまい、思うにまた天人の会なのであろう。


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最終更新:2024年02月29日 21:34
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