張彦球

張彦球

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晩唐の武将。河東節度使の牙将。都教練使。広明元年(880)沙陀都督李国昌が侵入してくると、河東節度使の康伝圭の命により蘇弘軫が迎撃するが、敗北したため蘇弘軫が康伝圭に斬られ、今度は張彦球が将兵三千人で追撃を命じられたが、百井鎮で軍乱をおこし、晋陽に戻り、籠城した康伝圭を西明門から兵士を突入させて殺害したが、監軍の周従寓に慰撫されて落ち着き、張彦球を府城都虞候とした。新節度使として宰相の鄭従讜が赴任してくると、軍乱は張彦球の本心ではなく、別の首謀者がいることが判明し、首謀者は斬刑となり、張彦球は誠実さを鄭従讜に信任され、軍権を任されるに到り、その後も何度も敵を破って功績があり、行軍司馬に昇進し、後に金吾将軍に任じられた。

列伝・史料

『新唐書』巻一百六十五 列伝第九十 鄭余慶 従讜
『資治通鑑』巻第二百五十三 唐紀六十九 僖宗上之下 広明元年二月条、三月辛未条

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最終更新:2024年02月05日 00:34
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