鄭従讜 ていじゅうとう
?-887
晩唐の宰相(在任878-880、883-887)・藩鎮。字は正求。
鄭澣の子。宰相
鄭余慶の孫。
鄭処誨は弟。会昌二年(842)進士に及第し、校書郎、左補闕に遷った。宰相
令狐綯・
魏扶は父
鄭澣の門下生であったから引き立てられて中書舎人に昇進した。咸通年間(860-874)、吏部侍郎となり、河東節度使、宣武軍節度使、嶺南東道節度使を歴任。南詔の侵略を受けたが、援軍が途絶する中で土豪を募って撃退した。僖宗が即位すると、刑部尚書となり、乾符五年(878)三月に同中書門下平章事(宰相)に抜擢された。広明元年(880)河東節度使で軍乱が起こって節度使
康伝圭が殺害されると、後任の節度使に任じられて混乱を鎮め、節度使で任用した王調・
劉崇亀・
趙崇・
劉崇魯・李渥・
崔沢がいずれも優れた人材であったため、河東節度使は世間では「小朝廷」と称された。
李克用が侵入すると撃退して大いに破ったが、中和三年(883)李克用が
黄巣の乱の鎮圧に大功をあげると、河東節度使は李克用に代わられるも、その年内に再度宰相に任用された。光啓二年(886)二月に侍中・太傅に任じられ、翌年辞職を求めて太子太保に任じられたが、当時は皇太子がいなかったから、完全に名誉職であった。間もなく没した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年09月27日 08:49