趙彦昭 ちょうげんしょう
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武州・盛唐の官人。中宗・睿宗の宰相(在任709-710)。
趙武孟の子。進士に及第し、南部県の尉、新豊県の丞、左台監察御史と累進。景龍三年(709)中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任じられた。吐蕃編への使者に任じられたが、
趙履温の働きで
安楽公主のとりなしによって使者を辞退した。睿宗が即位すると宋州刺史に左遷され、帰州に貶された。涼州都督となり、吏部侍郎、持節按辺、御史大夫となった。
郭元振・
薛稷・
蕭至忠と親しかったが、先天の変で蕭至忠らが誅殺されると、郭元振・
張説に謀反の企みをしていたと奏進されたが、玄宗は受け入れず、刑部尚書に改められ、耿国公に封ぜられた。巫女の趙挟に仕えた件について弾劾され、江州別駕に貶された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年04月18日 18:31