巻一百二十三 列伝第四十八

唐書巻一百二十三

列伝第四十八

李嶠 蕭至忠 盧蔵用 韋巨源 趙彦昭 和逢尭


  李嶠は、字は巨山といい、趙州賛皇の出身である。幼いときに父を失ったが、母親に孝行を尽くした。子供のころ、夢の中で人から二本の筆をもらい、それ以後、文章が作れるようになった。十五歳のときには五経に通暁し、薛元超の称揚をうけた。二十歳で進士に合格して、最初は安定県の尉に任じられた。制策に優等で及第し、長安に転任した。当時、畿内の諸県の尉の中で、文学において名の高かった者には、駱賓王劉光業がいた。崎はその中で一番年下だったが、同輩として交遊した。

  監察御史に任命された。高宗が邕州と巌州で叛乱を起こした獠族を撃退する際、李嶠を軍隊の監督の任に当てる詔勅が下った。李嶠は獠族のいわやへ入っていって説得し降伏させ、それで兵を引きあげた。だんだんと位がうつって給事中になった。ちょうど来俊臣が、狄仁傑李嗣真裴宣礼らの罪をでっちあげ、死罪にしようとしているところであった。李嶠に大理少卿の張徳裕、侍御史の劉憲と共に再審理を命ずる勅令が下った。張徳裕たちは心の内ではそれがぬれぎぬであるのを知っていたが、異論をはさもうとしなかった。李嶠は、「無実の罪であることを知りながら、口に出さないのは、『義を見てさざる者」というのだ」といって、結局、二人と一緒に彼らの無実の証拠を列挙した。それが武后のおぼしめしに逆うところとなり、州の司馬として都を離れた。だいぶたってから都に呼びもどされ鳳閣舎人となった。天子の冊命・詔勅の多くを起草する任務にあたった。

  それより先のこと、御史台を設置して、州県の事務官の行状や風俗のありさまを調べることになったときは、上流文をたてまつって申しあげた。「法の網の目は荒いのが上策で、法令は簡潔なのがよいのです。簡潔であれば法は実行しやすく、かつ煩雑にはならず、荒ければ網を広げても苛政になることはありません。伏して垂拱年間(685-688)の時代をふりかえってみますと、諸道巡察使の奏上した科目は四十四もあり、別に勅令によって訪問したのは三十にもなります。しかし使は三月に出発して、十一月に奏上を行っていますが、諸道ごとの観察すべき官吏は、多いところでは二千、少すくなくても千ばかりとなり、品格・才行を賞罰しようにも、期限に迫られて、追跡調査する時間もなく、詳細にしようと思っても、難しいのです。これは職を貶めるようとしているのではなく、才能には限りがあり、力は及ばないだけなのです。臣は願わくば、その功程をはかって節制とし、適材の人材を用い、力は時を助け、その後に得失は詳しく明らかになるのです」と述べた。また、「今これをみてみますに、漢の六条に準じて推して広げれば、包括しないものはありません。どうして多く事目を張ることがありましょうか。また朝廷ではすべて何もないということはなく、事の動きに働いて、常に四方にあり、そのため使者が出て冠蓋が互いに見えるということになるのです。今すでに使を設置しており、そこで外州の事はすべてこれを専らにすることができ、伝駅の削減になります。願わくば十州ごとに一御史を設置し、年末を期限とし、その身を属県に派遣し、村里を通過し、邪な人物を査察し、風俗を見て、その後にその任務報告を義務づけるべきです。また御史は朝廷に出入りし、自身を励まして自らを修養することは、他の官吏に比べると百倍になります。もしくは邪な者を弾劾し、欺き隠すのを摘発・糾弾することは、他の官吏に比べて十倍にもなります。陛下は誠に臣の言を用い、よくできる者を択んでこれを委ねるなら、死力を尽くさない者はいないでしょう。」と述べた。武后はそれを認め、天下を二十の道に分けて節度使にできる人材を選ぶ制書を下したが、多数の意見でつぶされてしまった。

  まもなく天官侍郎事に任ぜられ、麟台少監、そして同鳳閣鸞台平章事に昇進し、鸞台侍郎に転任した。ちょうど張錫が宰相になったが、李嶠は彼の甥であるので、辞任して成均祭酒になった。すぐに検校文昌左丞となり、東都洛陽づめとなった。長安三年(703)、本来の官職のままで再び平章事となり、納言に任命された。内史に転任したが、李嶠はつよく辞退し、また成均祭酒・平章事にもどった。

  武后が白司馬坂に大仏像を建てようとすると、李嶠は諌言していった、「仏像を作るには寺に金を出させるとはいえ、州県が引きうけなければ、完成できぬことです。これは名目上は金をとりたてないにしても、実質はとりたてることです。臣が天下の課税世帯をみましたところ、生活が苦しい家が多く、家を売ったり田畑を抵当にいれたりして賦役をさしだしている者もあります。今、仏像の建設費が十七万緡、集まっております。もしこれを貧しい人々に分けて、一軒につき千銭ずつ与えれば、十七万世帯を飢寒の苦しみから解放することになり、天子の徳は限りないものとなるでありましょう」。しかし、ききいれられなかった。

  張易之が滅ぼされると、彼もその徒党にくみしたことで、予州刺史に左遷されることになった。まだ任地へ赴かない前に、通州に変更された。数か月で召還されて吏部侍郎になり、まもなく尚書に転任した。

  神龍二年(706)、韋安石に代わって中書となった。李嶠は吏部郎だった頃、世間の評判によって宰相の地位にかえりざこうとひそかにくわだて、そこで上奏して員外の官数千人を設けた。そうしたことがあって役人はやたらとふえ、国庫財産は空っぽになった。そこで彼は書をたてまつって、あやまちを時世のせいにし、自分の過去の失策をかくした。それにはいう、「元首が尊いのは、数多くの門奥深くにあって警備が柝を撃ち、出御しても道を清めて警備し、非常に備えるから、事を起こそうとするものが止み、本当挙動しやすいのではなく、漫然と閑を防いでいるのです。陛下は朝廷の深いところにいるのを嫌い、尊厳を軽んじ、粗末な服を着てお忍び歩きし、店を見ては市を通過し、道端で議論したので、朝廷は驚愕し、禍いは思ってもみないところから来て、勝手気ままで反省もせず、宗廟・人民をどうされるのでしょうか。また官職を分けても、やたらに多くすべきではありません。伝に、「官が必ずしも備わっていないなら、ただその人にせよ」とあります。帝室が中興してより、爵位や報償の授与されるのを慎まず、階級を踏み越え、朝に昇進して夕方に改め、令官が欠けても補わず、員外の官を加えています。内では府庫がつきてしまい、外では民衆が害を被っており、賢人を探し求めて治世を助けようとする道ではないのです。願わくば、高位にいる者を惜しまれますよう。文武官の六十歳以上は、天子が寛恕し、皆これを憐れますよう。老病の者はすでに官の印授を解いて返し、員外の者は既にまた留められれば、恐らくは疲れを消して時を救うという理由にはならないでしょう。役人に勅して、用い進めるべき、もしくは用い退けるべきではないのを調べさせることをお願いします。また遠方の夷人で治めるにたえられない者でも国家が用向きで慰撫してこれを官とし、功績のない酋長でも俸禄を費やしています。願わくば必要ではないものをはかり、すべて家に帰されますよう。また易に、「何ぞ以て位を守るを仁と曰い、何ぞ以て人を聚むるを財というか」とあり、今百姓は貧しく、安心して暮らす場所がなく、そのため位を守ることができません。倉は使いつくしてしまい、財力は傾きつくし、人を集めるには足りません。山東では雨のあとの水たまりで病気になり、江の左岸では輸送で動きがとれません。国はお上ですら乏しく、人は下になるほど困窮しています。辺境をして少しでも恐れを抱かせるようなことをすれば、おそらく逃亡者が多くなり、盗賊が群がり行くことなり、どうして財を召募することができましょうか。どうして民衆の閑を遮れましょう。また崇めて寺観をつくることも、費用が多大にかかります。今山東は毎年飢饉となり、粗食も嫌がりません。しかし困苦の中に身を投じながら庸調の半ばを納め、嘆きの物を用いて土木を営むことは、恐らくは怨みは三霊に結び、誹りは四海に被ることになるでしょう。また征戍(徭役)にあたると、巧みに百情をいつわり、賦役を破棄して身を隠し、租賦を逃れています。今、道士で私度する者は数十万人にもおよび、その中高の多丁戸は、悪賢く大きな商売をあきない、詭って台符をつくって、名をごちゃまぜにして偽って得度しています。また国で軍防を計上する際には、すべて丁口によっていますが、今丁はすべて出家し、兵もことごとく出家しており、軍征は租賦によっているのに、どうやって備えるというのでしょうか。また賄賂を重ねて貴族に接近し、戸籍を移し、州県の甲等の田は種別を変更して下戸としています。道の城鎮に到っては、駅者をつかまえることができず、賦役は小弱となり、即ちその家を破産させることになります。願わくば十道使訪察括取を許され、狡猾な者をして隠蔽させませんよう。また太常寺の楽戸はすでに多く、また散楽を求め尋ねると、ただ大鼓を持つ者がすでに二万人います。願わくば量って留め、ほかは還籍を記録し、無駄な費用を塞がれますよう」と述べた。中宗は李嶠が宰相でありながら、自分の政策の失敗を開陳して辞任を願い、責任を転嫁しないので、彼の辞任をいましめる詔をみずからかきあたえた。李嶠はおそれかしこまり、再び任務についた。三年して修文館大学士を兼任し、趙国公に封ぜられた。特進の職として同中門下三品になった。

  睿宗が即位すると、内閣から退き、降位して懐州刺史に任ぜられ、退官した。それより先、中宗が崩御されたとき、李嶠は大臣諸王の子弟は都から離すべきだと、ひそかに願いでたことがあった。玄宗が即位して、その時の文書が宮中でみつかると、そのことで彼を処罰することをもとめる者があった。張説が「李嶠はたしかに忠義の道理をわきまえていないが、しかしその時のためにくわだてたことだ。自分の主人でない者に対して吠えついたのだから過去にのぼってすべきではない」といった。天子も、幾たびも赦令が出されているのを気にかけられ、結局、罪を免ぜられて滁州別駕に左遷となった。彼の子の虔州刺史である李暢が任地に赴くのに同行することを許され、廬州別駕に変更された。享年は七十歳であった。

  李嶠は才智豊かで、文章を作ると、多くの人々の間に拡まり愛された。武后の時代に汜水で瑞石がみつかると、御史であったが、一篇の皇符をたてまつり、世間から非難された。しかし彼は仕官すると、はじめは、王勃楊盈川と交際し、中頃には崔融蘇味道と文名ならび高く、晩年にはほかの人々が死んでしまったので、文壇の長老となり、当時の文章を学ぶ者は彼を手本とした。


  蕭至忠は、沂州氶県の人である。祖先の蕭徳言は、秘書少監となった。蕭至忠は幼くして友と道で落ち合う約束をしたが、たまたま雨や雪となり、人は避けるよう誘ったが、蕭至忠は「どうして人と約束があるのに信を失うことができようか」と言い、ついに友がやって来てから去ったから、大衆は感服した。仕官して伊闕県・洛陽県の尉となった。監察御史に遷り、鳳閣侍郎の蘇味道の収賄を弾劾し、抜擢されて吏部員外郎を拝命した。蕭至忠は決断に優れ、当時は名声があった。中宗の神龍年間(707-710)初頭、御史中丞となった。それより以前、蕭至忠は御史となった時、李承嘉が御史大夫となり、かつて諸御史に謙譲して、「弾劾の事で大夫に報告しないというのは、あってよいことだろうか」と言ったが、皆あえて答えなかった。ただ蕭至忠だけが「故事では御史台に長官はいませんでした。御史は、天子の耳や目であって、御史の奏上は独断で行うべきで、もし御史大夫の許可を得てから論ずるようなことがあれば、御史大夫を弾劾するものは、また誰に申せばよいのでしょうか」と言い、李承嘉は恥じ入った。ここに到って、李承嘉は戸部尚書となると、蕭至忠は祝欽明竇希玠李承嘉らの罪を弾劾したから、多くの官僚は震撼した。吏部侍郎に遷ったが、なおも御史中丞を兼任した。

  節愍太子が兵をあげて武三思を誅殺したが敗れると、宗楚客らは侍御史の冉祖雍に非常事態を告発させ、相王(睿宗)と太子が謀反を企てたと申し上げた。帝は審理させようとしたが、蕭至忠は泣いて「かつて、天后(武后)は相王を太子にしようとしましたが、相王は毎日食事をとらず、ただ陛下を迎えることを願いました。その謙譲さは天下で知らない者はおりません。陛下は貴くなられて天子におなりあそばされましたが、ただ一人の弟を容れられず、人からの無実の罪を受け入れるのでしょうか。密かに思いますに陛下のために受け入れてはなりません」と言い、帝はその言葉を受け入れて中止した。ついで中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)を授けられた。上疏して時政を述べた。

    「すぐれた統治を求める最良の道は、賢者を用いるのが一番です。おろそかにも才能ではない者があった場合、官職はむなしいものとなり、官職がむなしければただちに廃止され、廃止されれば人は残り、歴代の王朝が衰微する原因というのはこれなのです。今、職を授けて人を用いるのに、多くは貴人要人であることによって粉飾しており、上も下も互いにその御蔭を被って、おろそかにも官職に任命されるのです。官爵というのは公器です。恩倖は私的な恵みです。王者は金帛で富ませ、穀物や肉を食わせて、これによって私の恵みとすべきなのです。もし公器を私に用いるのでしたら、つまりは公の義は行われず人を労して人心を離反させ、私に開けっぴろげに面会しては正しい言葉を塞ぐのです。日に日に縮み、月々削られ、ついには疲弊凋落させられるのです。

    今、宰相の位に列する者はすでに多く、余剰の人員もまたかつての倍となっています。陛下は数えきれないほどの恩恵を降されていますが、近親に無限ともいえる願いがあるので、閣僚の内、朱紫の衣の者が充満し、官位はますます軽くなり、恩賞はますます多くなるのです。才能がある者は用いられず、用いられる者は才能がなく、そのため人は力を発揮できず、官にある者は不適当なものがいるので、すぐれた統治を求めようとしても最初から困難なのです。

    また宰相や要職の子弟は、多くは美爵に封ぜられていますが、才芸をあわせもっている者はまれであるのに、互いに任用しているのです。詩に「自分の家来たちを、多くの官僚に取り立てる。ある者はその酒に飽き、ある者は飲料も得ず、ある者は玉の佩びものを垂らし、ある者はその長きを佩びず」とありますが、これは王の政治が公平ではなく官が多く職が虚しいものとなり、私の家の子が高位に列し、いたずらに玉の佩びものを長くしているのをいっているだけなのです。臣が願うところは陛下、爵位や褒賞を大事に惜しまれ、官を無意味に授けられることなく、徳が高く才能がある人を進めて政権の近くにおらせ、小人を退けて閑職か左遷とし、政令に集中させて、私に公を害させなければ、それは天下の幸甚なのです。また貞観の故事によって、宰相の子弟の多くを外職におらせますが、直ちに勢家を抑えるわけではなく、またこれによって賢才を選ぶだけなのです。願うところは、宰相から諸司の長官に及ぶまでの子弟に、一斉に外官を授け、共に百姓を安んじ、表裏が互いに一統となることなのです。」

  帝は受け入れなかった。にわかに侍中、中書令となった。当時、宗楚客は奸人を懐かせて党派をくみ、韋巨源楊再思李嶠は自分たちの平和維持につとめ、輔弼して正しくすることがなかったから、蕭至忠はその間をとりもち、一人是非を顧みずみだりに人の意に従うようなことはしなかったから、当時の人々の信望をあつめた。帝は「宰相の中では、蕭至忠が一番私を心配してくれる」と言っていた。韋后はかつてその弟の韋洵のために蕭至忠の夭折した娘と冥婚させた。蕭至忠はまた娘を韋后の舅の崔従礼の子の崔無詖の妻とした。両家は合同で婚礼を行い、帝は蕭氏の婚主(保証人)となり、韋后は崔氏の婚主となったから、当時の人は「天子は娘を嫁がせ、皇后は婦を娶る」と言ったという。

  唐隆元年(710)、韋后の党派は罪に応じて連座し、太平公主の発言によって、京師から出されて晋州刺史となるも、優れた統治によって名声を得た。黙啜が大臣を派遣して来朝すると、蕭至忠の風采を見て、尻込みして恐れ俯き、人に向かって「これは天子の宰相となるべき人だ。どうして外官となっているのか」と言った。太平公主に次第に重んじられ、蕭至忠はそこで自ら付き従って、また帰還を願った。公主は蕭至忠の子が千牛に任じられて韋氏の難で死んだから、恨みの思いが動かしやすく、よく自身の助けになるだろうとみて、帝に要請した。刑部尚書を拝命し、再び中書令となり、酇国公に封ぜられ、そこで公主の逆謀に参じた。先天二年(713)、公主が失脚すると、蕭至忠は逃れて南山に入った。数日して捕えられて誅殺され、その家財は収公された。

  蕭至忠は朝廷にあっては、風望があり、容貌は心も実務を精通して落ち着いており、見る者は推薦して名臣であるとした。外にあっては実直であり、不法を糾弾して、家の内を守ることなく、時の軽重を見て去就を決めた。始めて御史となると、桓彦範らからは非常に重んじて引き立てられた。五王(崔玄暐張柬之敬暉・桓彦範・袁恕己)が失脚すると、さらに武三思にたよって御史中丞となり、安楽公主に付き従って宰相となった。韋氏が失脚すると、ただちに韋洵の墓をあばき、娘の柩を持ち帰った。後に太平公主によって再び宰相となった。かつて公主の邸宅から出てくると、宋璟とばったり会い、宋璟はふざけて「蕭傅(もりやく)の望むところではありませんな」と言うと、蕭至忠は、「宋先生の発言はよろしいですな」と言ったが、自ら返答することができなかった。妹の夫に蒋欽緒がいて、蒋欽緒は事あるごとに諌めていたが、蕭至忠は聞かなかった。嘆いて、「九世もの宰相の一族は、一挙に滅ぶだろう。悲しいことではないか」と言った。賓客と接することを喜ばず、倹約して自らを高め、そのため普段の下賜品は、施したりすることがなかったから、家財が没収されると、珍宝は数え切れないほどであった。しかし玄宗は人となりを賢人であるとし、後に源乾曜を得て、しばらく任用しており、高力士に向かって、「お前は私が突然どうして源乾曜を任用したか知ってるか。私は彼の容貌が蕭至忠に似ているから選んだのだ」と言った。高力士は、「彼はかつて陛下を失脚させようとしませんでしたか」と言うと、帝は「蕭至忠は本当に国家の人材であり、ただ晩年に誤っただけなのだ。その始めは賢人とはいえないのか」と言ったという。


  弟の蕭元嘉は、工部侍郎であった。蕭広微は工部員外郎であった。


  盧蔵用は、字は子潜で、幽州范陽県の人である。父の盧璥は、魏州長史で、才吏と号した。盧蔵用は文章をよくし、進士に推挙されたが、選ばれることがなかった。兄の盧徴明とともに終南山・少室山の二山に隠遁し、練気を学び、穀物を避け、衡山・廬山に登り、岷山・峨山をさまよい遊んだ。陳子昂趙貞固とは友人で親しかった。

  長安年間(701-705)、召されて左拾遺を授けられた。武后は興泰宮を万安山に造営し、盧蔵用は上疏して諌めた。「陛下には離宮や別観がもとより多くあり、また人力をついやして土木に当たらせており、臣が恐れるところは、議論する者が陛下を人民を愛さずに己に奉仕させているとすることです。また最近、穀物は豊作であるとはいえ、百姓には蓄えるところではありません。陛下が巡幸をなされると、人民は休息できず、土木事業は年月を休ませることはありません。このようなときに徳を施して教化を広めず、また宮殿・苑地を拡大することは、臣は下々の者が耐えられないのを恐れるのです。今左右の近臣は、諂うのを忠義としており、逆らって患いとなり、陛下に百姓が業を失っていることを知らないようにさせるようになっており、百姓もまた、左右の者が陛下の仁を傷づけていることを知らないのです。忠臣は誅殺や天子の怒りを避けず君主に仁を納めるものであり、明主は厳しい諌めを憎まず名を後世に残すのものです。陛下はまことにすぐれた制を発せられ、人を労するのにお言葉をなされれば、天下は必ず人の力を愛され自身を苦しめるとみなすでしょう。そうでなければ、臣のこの文章を下して、政務にあたる者に与えて共議されますよう。」武后は従わなかった。

  姚元崇が霊武道に持節すると、奏上して管記となった。戻って県令の推挙に応じて甲科で合格し、済陽県の令となった。神龍年間(707-710)、累進して中書舎人に選ばれ、しばしば偽官を糾弾した。吏部、黄門侍郎、修文館学士を歴任した。親類に連座して、工部侍郎に降格させられた。尚書右丞に昇進した。太平公主に従い、公主が誅殺されると、玄宗は盧蔵用を捕えて斬ろうとしたが、振り返ってみるとまだ宰相でなかったから、理解して、そこで新州に流した。ある者が謀反であると告げたが、審理してみると事実ではなかったから、驩州に流した。当時交趾が叛き、盧蔵用は勇敢で防衛に功績があったから、昭州司戸参軍に改められ、黔州長史、判都督事に遷り、始興県で卒した。

  盧蔵用は蓍亀・九宮術といった占いをよくし、草書・隸書、大小の篆書、八分体をよくし、琴・碁をよくし、思想は精緻かつ深淵であったから、士はその多芸ぶりを貴んだ。かつて巷では陰陽にしたがって恐怖におとしいれ、道理にそむき、変通にまみれ、国にあっては広まることはよくないことであった。そこで次のように述べた。「天道は人に従う者である。古に政治を行う者は、刑罰をみだりに行わなければ人の寿命は長く、納税が少なければ人は豊かになり、法令が常用されれば国は安定し、賞罰が適切であれば兵は強かった。礼は士の帰属するところであり、賞は士が死にあたることころであり、礼や賞は倦まずに行えば、士は先を争うのである。そうでなければ、時をはかって罰をおこない、日を選んで命令したところで、成功しないのである。そのため賢人を任用してその能力を使えば、しばらくもしないうちに利となるのである。法令が明らかであれば、卜筮によらなくても吉である。労を養って功を貴ぶなら、祠に祈らなくても福である」そこで『析滞論』を著してその方策を開陳し、世間は「知言」と言った。陳子昂趙貞固が前に死ぬと、盧蔵用はその孤児を養って恩があり、人々は終始の交わりをよくしたと称えた。始め山中に隠れた時、思いは世の中にあったたから、人々は注目して「随駕隠士」と呼んだ。晩年、利権にしたがい、つとめては驕慢放縦となり、もとの節は尽き果ててしまった。司馬承禎がかつて召されて宮中にいたり、山に帰ろうとすると、盧蔵用は終南山を指さして「この中に大いによきところがある」と言うと、司馬承禎はおもむろに「僕がみたところ、仕官の近道であるだけです」と言ったから、盧蔵用は恥じ入った。子はなかった。

  弟の盧若虚は、多才で物に詳しかった。隴西の辛怡諌が職方であったとき、変わった鼠を捕らえて、豹の首で虎の胸であったが、大きさは拳大くらいであった。辛怡諌はこれを鼮鼠であるといって献上した。盧若虚は、「違う。これは許慎が述べるところの鼨鼠というのは、豹の文様で形は小さい」と述べたから、一同驚き敬服した。起居郎、集賢院学士で終わった。


  韋巨源は、韋安石と同系で、後周の京兆尹の韋総の曾孫である。祖の韋貞伯は、鄖国公を襲封し、隋に入ると、舒国公に改封された。韋巨源は官吏としての才能があり、武后の時に累進して夏官侍郎、同鳳閣鸞台平章事(宰相)に遷った。その治世は些末で大礼がなく、校省中の間違いを訂正し、符を下して注意深くあきらかにせず、その利を収めたが、部下の恨みを買った。李昭徳の罪に連座し、鄜州刺史に貶された。累進して地官尚書を拝命した。

  神龍年間(707-710)初頭、吏部尚書を以て同中書門下三品となる。当時、朝廷の要職が不足しており、宰相は登用するのにその親類を用いており、韋巨源は筆を持って、十人を任命しようとし、そのうちの一人に楊再思はなることができ、残りの採用者を聞いてみると、全員が宰相の近親者であった。楊再思は嘆息して「我らは本当に天下を背負っているのだな」と言ったが、韋巨源は、「最初からそうなる予定なだけだ」と言った。この当時、賢人で有徳の者であっても、終に昇進することはできず、士大夫の人心は離れていった。たまたま韋安石が中書令となると、近親であることを避けて宰相を罷免された。

  ついで侍中、舒国公に遷った。韋后とは親類上では兄弟の間がらであったから、属籍に付された。武三思の封戸が貝州にあり、たまたま洪水となり、刺史の宋璟がその租を免除することを議題にあげたが、韋巨源は蚕の桑を納付すべきとしたから、ここにいたって河朔の人の多くは流人となってしまった。景龍二年(708)、韋后は自ら衣装箪笥に五色の雲があると言い、韋巨源はその嘘を真実のように言い立てて、中宗に天下に宣撫するよう勧め、ここに大赦となった。韋巨源は帝が暗愚であるのを見て、そこで宗楚客鄭愔趙延禧らとともに祥妖を推し進め、密かに韋氏が武后の故事を行うよう導いた。にわかに尚書左僕射に遷り、宰相となった。帝が南郊に祀りすると、韋巨源は韋后を亜献とするよう願い出て、自ら終献とした。臨淄王(後の玄宗)が韋氏を平定すると、家人は難を避けるよう願ったが、韋巨源は「私は大臣だ。難を見て赴かないなんてことはできない」と言い、都街に出て、乱兵に殺害された。年八十歳であった。

  睿宗が即位すると、特進、荊州大都督を追贈された。博士李処直は諡を「昭」とするよう奏請したが、戸部員外郎の李邕は、韋巨源は武三思に付き従って宰相となり、韋后に託して親属となったのであるから、諡を「昭」とするのは非であるとした。李処直は改めず、李邕はその悪を並べ立てたたが用いられなかったものの、しかし世間の大半は李邕があたっているとした。韋氏は韋安石から武后の時の宰相の韋待価韋巨源まで全員近親で、その一族で大官となった者は、また数十人を数えた。


  趙彦昭は、字は奐然で、甘州張掖県の人である。父の趙武孟は、若い頃に遊猟し、捕らえた獲物をその母に贈ったが、母は泣いて「お前は書を好まず放蕩しているが、私を安心させてくれないのか」と言い、食べなかった。趙武孟は感激し、遂に学問に努め、書物に該博となった。長安県の丞から右台侍御史となり、『河西人物志』十篇を著した。

  趙彦昭は若い頃から豪邁で、風貌は優れていた。進士に及第すると、南部県の尉に任命された。郭元振薛稷蕭至忠と親しかった。新豊県の丞から左台監察御史となった。景龍年間(707-710)、累進して中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)となった。金城公主が吐蕃に降嫁し、始めは紀処訥が使者となる予定であったが、紀処訥が辞退したから、そこで趙彦昭が任命された。趙彦昭は自分が領外に出て場合を考え、権力や恩寵が奪われたり移ってしまうことを恐れ、喜ばなかった。司農卿の趙履温は「公は天下の宰相ですが、一介の使者になるなんて、なんといやしいことでしょうか」と言い、趙彦昭はいかなる謀を出せばよいか尋ね、趙履温はそこで趙彦昭のために安楽公主に願い出て留めてもらい、遂に将軍の楊矩が代わりとなった。睿宗が即位すると、京師から出されて宋州刺史となり、罪に連座して帰州に貶された。にわかに涼州都督を授けられ、政務は厳格に行い、部下は全員戦慄した。京師に入って吏部侍郎、持節按辺となった。御史大夫に遷った。蕭至忠らが誅殺されると、郭元振張説がともに趙彦昭が謀反の企みをしていたと奏進し、刑部尚書に改められ、耿国公に封ぜられ、実封百戸となった。

  趙彦昭はもともと権力の厚遇によって昇進していたから、中宗の時、巫女の趙挟が鬼道によって宮中を出入りすると、趙彦昭は様々な事柄によって仕えた。かつて婦人の衣服を着て、車に乗って妻とともに謁し、宰相の地位を得たのは、巫女の力であった。ここに殿中侍御史の郭震が旧悪を暴いて弾劾した。たまたま姚崇が宰相となると、その人となりを憎んで、江州別駕に貶され、卒した。


  和逢尭は、岐州岐山県の人である。武后の時、鼎を背負って宮中に詣でて上書し、自ら天子を助けて百度煮込むことを願うと申し上げた。役人は咎めて「昔、桀は不道であったとき、伊尹は鼎を湯のために担った。今天子は聖明で、百官は和しているが、なおどこに任命されようというのか」と言ったが、和逢尭は答えられず、荘州に流された。十年あまりして、進士に推挙されて優秀な成績で合格し、累進して監察御史に抜擢された。

  突厥の黙啜が公主を娶りたいとして、和逢尭は御史中丞によって鴻臚卿を摂領することとなり、裁可された。黙啜は一族の頡利を派遣してきて「詔に螺鈿金具の鞍を送るとあったが、実際には金を塗っていただけであった。これは天子の意ではなかろう。使者は信じられない。公主を得たとあっても、真実ではないかのようである。和親するのをやめさせていただきたい」と言い、急いで去ろうとしたから、左右は動揺し、和逢尭を呼んで「私は大国の使者で、私の言葉を受けなければ、ただちに去りなさい」と言い、そこでその人を引き連れて「漢の法では女婿を重んじて鞍具を送るのは、安らかかつ久しいことを願うのであり、金を貴んでいるわけではないのである。可汗は金を貪って信を尊ばないのか」と述べた。黙啜は聞いて「漢の使が我が国にやってきたのは多かったが、このように鉄石を食うような人は変えてはならない」と言い、そこで礼を備えて引見した。和逢尭は「天子は昔、単于都護となったのは、可汗と旧好を通じたいと思うからで、可汗が風になびいて義を慕いたいというのなら、冠冕をつけ、取って諸蕃を重んじるべきでしょう」と説き、黙啜はこれを信じ、髪をおさめて紫衣を着て、南面して再拝して臣と称し、子を派遣して入朝させた。和逢尭は使者として有能であるとされ、戸部侍郎に抜擢された。太平公主と親しかったのに連座して、朗州司馬に貶され、柘州刺史で終わった。和逢尭は諧謔的で不思議な人物であったが、大事にあたってはあえて福を求め、そのため権勢に頼ったために失脚した。しかし唐では使者としての和逢尭を称えたのである。


  賛にいわく。なんと奇怪なことであろう、玄宗が蕭至忠を器としたことは、また惑されなかったといえようか。蕭至忠は最初から賢人なんかではなく、賢人側に寄せて利をむさぼり、これを失えば利を迎えて賢人を失い、韋后の一族と婚姻を結び、太平公主の寵をはさみ、宰相の地位をとり、謀略を王室の間に行い、身は誅されて家は滅び、悪名を伝えること後世まで永遠となったのである。しかし帝は源乾曜がこれに似ているとして、突然宰相にさせたのは、これは蕭至忠を用いてはならないことを知らないことの一例をあげたものであり、また源乾曜を用いるべき要処を知らないことでもある。ある者が帝が罪によって才能を覆い隠してしまわないことを称えたが、ますます驚嘆すべきことである。ああ、高力士は本当に腐り果てた凡人であって、天子の道理のわからなさを指摘することができず、もし、「蕭至忠は初め賢人であったなら、最初から末期を誤らなかったでしょう。すでに末期を誤っているのですから、はたして初めから賢人ではなかったのです。以上のことから陛下はこれによって考えてください」と、このように言っていたのなら、帝もまた過失を悟って見る目も正確になったのである。その後李林甫を宰相としたり、安禄山を将軍としたりしたのは、すべて帝の不明が基になっており、身を田舎の山々をさまよい歩くことになったのは、信じて自ら彼らを採用したことにあるのではなかろうか。


   前巻     『新唐書』    次巻
巻一百二十二 列伝第四十七 『新唐書』巻一百二十三 列伝第四十八 巻一百二十四 列伝第四十九

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年04月18日 20:11
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。