張説 ちょうえつ
667-730
唐の
玄宗時代の宰相(在任711、713、722-726)。「ちょうせつ」とも読む。先祖は范陽(河北省浅県)の人。代々山西省方面におり、のち洛陽にうつったと伝えられる。字は道済・説之。諡は文貞。
張均・
張垍・
張埱の父、
張濛の祖父。張説の曽祖父張戈は博徒の親分的人物、祖父張恪は早世、父張隲は地方の小役人、このような微賤の出身の張説が宰相になったのは、
武則天の革新的人材登用主義から、689(永昌元)年ごろ、弱冠にして官吏登用試験に及第したことによる。張説は太子校書郎を振り出しに、右補闕(あるいは左補)となって『三教珠英』の編纂にあずかり、また宮廷詩人としての才能を示し、
魏元忠を弁護して
張易之兄弟におとしいれられ、欽州(広東省欽県北東)に流されたが、
中宗が復位して兵部員外郎に復活した。ついで工部侍郎にすすみ、母馮氏の死によって一時官を去ったが、
睿宗が即位して中書侍郎となり、さらに同中書門下平章事として宰相の1人となった。これは皇太子李隆基(玄宗)の信任によるもので、玄宗が即位すると、
太平公主のために尚書左丞に左遷されたが、公主の陰謀を看破し、玄宗にすすめて公主を除くのに成功し、中書令、燕国公となった。のち
姚崇に嫌われて相州(河南省安陽県)刺史に転出したが、721(開元9)年ふたたび兵部侍郎、同中書門下三品として入閣した。しかし門閥官僚の嫉視をうけた張説は、
宇文融の括戸政策に反対したことから、宇文融および
源乾曜・
李林甫らに弾劾されて下獄し、許されて国史の編纂に専念、729(開元17)年尚書左丞集賢院学士に復活、ついで、左丞相に転じて翌年没した。著に『張燕公集』がある。張説は詩文をよくし、その朝にあるや、朝廷の大作の多くはその手になり
蘇頲とならんで大手筆といわれたという。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2024年12月31日 14:56