応天門
洛陽、宮城の正南門。応天門と北門の
玄武門、皇城南門の
端門、洛水に架かる
天津橋、外郭城南門の
定鼎門を結ぶ線が洛陽都城プラン上の中軸線で、長安城の朱雀大街の線に相当する。1980年の発掘調査の結果、東西120m、南北60m、城門部の厚さ25mで、文献から両闕の高さは35mと推定される。武徳四年(621)焼失し、顕慶年間(656-661)初頭に修造された。隋の時は則天門といったが、神龍元年(705)に
武則天の尊号を避けて応天門に改められ、また
中宗の尊号を避けて神龍門と改められたが、後に応天門に復された。天宝二年(743)六月、応天門観で火災が置き、延焼して左右廷福門が焼失した。
参考文献
愛宕元 訳注『唐両京城坊攷 長安と洛陽(東洋文庫577)』(平凡社、1994年)
最終更新:2025年02月14日 13:00