田布 でんふ
785-822
中唐の藩鎮。魏博節度使
田弘正の子。
田布・田肇・
田群・
田牟の兄。字は敦礼。父が魏博節度使となると、親兵を授けられ、唐群が蔡を討伐すると、
厳綬の指揮下に入った。十八戦して凌雲柵・郾城を陥し、御史中丞となった。
裴度が閲兵中に
董重質の奇襲を受けると、かえって伏兵を設けて突撃して撤退させた。左金吾衛将軍となり、河陽節度使に任じられ、長慶年間(821-825)初頭、涇原節度使に遷った。父が
王廷湊らに殺害されると、魏博節度使(第8代魏博節度使)に任じられて、討伐に赴いたが、かえって牙将の
史憲誠が造反の動きをみせ、さらに軍が騒動したため、皇帝に宛てた謝罪文を認め、剣で自害した。子に
田鐬・
田在宥がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年08月05日 09:51