王廷湊 おうていそう
?-834
中唐の武将・藩鎮(第8代成徳軍節度使)。回紇の
阿布思の一族で、安東都護府に属した。成徳軍節度使
王承宗の部将となる。長慶元年(821)
田弘正が成徳軍節度使として赴任してくると、軍乱をおこして田弘正とその一族を殺害し、自ら留後を称した。冀州を襲撃して刺史の
王進岌を殺したから穆宗の怒りを買い、
田布を魏博節度使に任じて王廷湊討伐に向かわせたから、王廷湊は幽州の
朱克融と同盟を結んで唐に反抗した。そのため四方から攻撃を受けたが、
杜叔良を撃破するなど一部戦局を有利に戦い、魏博の軍乱もあって、ついに朝廷に赦免されて、検校右散騎常侍・成徳軍節度使に任じられた。一方で
牛元翼の深州を攻撃し続け、牛元翼が脱出すると深州の将を虐殺し、牛元翼の家族も皆殺しにした。しかし滄州の
李同捷の襲封問題で、朝廷と対立して討伐を受け、しばしば敗れたため上表して謝罪し、赦免されて兼太子太傅・太原郡公となった。大和八年(834)没すると、子の
王元逵が軍中に推戴された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年08月16日 02:06