巻一百四十八 列伝第七十三

唐書巻一百四十八

列伝第七十三

令狐彰 建 運 通 張孝忠 茂宗 茂昭 裴夷直 陳楚 康日知 志睦 承訓 李洧 劉澭 田弘正 布 牟 王承元 牛元翼 傅良弼 李寰 史孝章 憲忠



  令狐彰は、字は伯陽で、京兆富平県の人で、その先祖は敦煌より内地に移った。父の令狐濞は、世間では良吏であると称えられた。それより以前、范陽県の尉となったとき、民家の女性と通じ、令狐彰を生んだ。辞めて帰る際に、令狐彰を母のもとに留めた。成長すると、豪胆かつ沈着で、書経や左伝の大義を知り、弓射すれば命中する腕前であった。安禄山に従って、左衛郎将に任じられた。張通儒とともに長安に入り、また左街使に任じられた。長安・洛陽が官軍に平定されると、河朔に逃走した。史思明に博州・滑州の二州の刺史に任じられ、滑台に駐屯した。当時、宦官の楊万定が滑州軍を監督し、令狐彰は自ら名を顕したいと思い、水に潜る人を募って夜に河を渡らせ、ことごとく兵士・馬・州県を記録して奉還し、そこで楊万定によって上奏した。粛宗は大いに喜び、書簡を下して慰労した。令狐彰は杏園渡に陣を敷いたから、史思明はこれを疑い、薛岌を派遣して兵で令狐彰を攻撃した。令狐彰は軍に正道を諭したから、全員が感じいって従い、死力をつくし、遂に薛岌の兵を破り、包囲を破って脱出し、麾下の数百人を入朝させ、邸宅・帷帳・什器を賜り、滑亳・魏博節度使を拝命した。河朔が平定されると、兼御史大夫を加えられ、霍国公に封ぜられ、検校尚書右僕射となった。

  それより以前、滑州は要衝を掠奪され、城や村は荒野となり、令狐彰は自ら部下の吏員に訓戒して、軍を調査して農業に力をそそぎ、法令は厳格としたから、あえて犯罪をおかすものはいなかった。耕作地を開墾し、庫は余剰であふれ、毎年の貢賦はいつも通り納められた。その当時、吐蕃は辺境を侵犯したから、防衛の兵を召集した。令狐彰は兵士三千を派遣し、自ら兵糧を持たせ、通過した場所では少したりとも無法な行いをせず、供与しようとする者があっても謙譲して受けず、当時の人々はその良い行いを正しいことであるとした。しかし邪魔する者があれば人の進言を聞き入れず、逆らう者はたちまち死んだ。潁州刺史の李岵に怒り、姚奭を派遣して刺史に代えようとし、「代わらないようなことらあれば殺す」と述べ、李岵はその謀を知って、そこで姚奭を殺し、死者は百人あまりとなり、汴州に逃げ、自身の主張を上書したが、令狐彰もまた弾劾してきた。河南尹の張延賞は令狐彰を恐れ、李岵の使者を留め、そのため令狐彰の書簡が先に上聞され、李岵を夷州に斥けて殺された。魚朝恩と関係が悪く、魚朝恩が用いられることとなると、令狐彰はあえて入朝しなかった。

  たまたま母の喪にあうと、失明し、卒した。まさに病が重くなったとき、令狐彰の子の令狐建令狐通令狐運は東都(洛陽)の私第に帰り、軍府の兵士・兵器・財産の帳簿を奉り、上表して吏部尚書の劉晏と工部尚書の李勉がこの大任に適していると上表し、自らの代わりとするよう願った。代宗は上表文を得て哀悼し、詔を下してその一族に褒賞し、太傅を追贈された。

  令狐建は官を累進して右龍武軍使となった。徳宗が長安を脱出して奉天に行幸すると、令狐建は弓兵を残して、四百人を従え、殿軍となった。行在中軍鼓角使・左神武軍大将軍に抜擢された。その妻は、成徳軍節度使の李宝臣の娘であり、令狐建は妻を棄てようとし、門下客の郭士倫と密通したと誣告し、郭士倫を杖殺してその妻を追い出したから、郭士倫の母は悲痛のあまり死んだ。李宝臣は弾劾して調査するよう願ったが、事実無根として令狐建は赦免された。帝は常膳を減らして得た銭五十万で郭士倫母子を葬り、あわせてその家を憐れんだ。にわかに起用されて令狐建は右領軍大将軍となった。また勝手な殺人を罪とされ、勲功によって死を免れた。濫りに開陳したことを罪とされ、施州別駕に貶され、卒し、右領軍大将軍を追贈され、また揚州大都督を加贈された。

  憲宗の時、宰相の李吉甫が上奏して、「令狐彰は死に臨んで、土地や兵士・武器を記録して奉り、諸子を邸宅に帰しましたが、令狐彰の同時代の河朔の諸鎮は、位を子孫に伝え、勢力は数代にもなりましたが、ただ令狐彰は忠義を奮いました。しかし長子の令狐建は罪とされ、幼子の令狐運も無実の罪で、それぞれ早死し、今は令狐通だけが幸いも生き残っています。謹んで陛下、令狐通を用いられますように」と述べ、そこで令狐通に賛善大夫を授けた。当時、討伐となり、そのため令狐通は寿州団練使に遷った。李吉甫が卒したことを聞いて、不安となった。戦うごとに、虚偽の首級をあげたとし、敗れれば覆い隠して奏上しなかった。戦勝報告を奏上したが、宰相の武元衡は退けた。後に賊に攻撃され、兵糧貯蔵庫を焼かれ、陣地を破られると、令狐通は大いに恐れ、塹壕を重ねてあえて出撃しなかった。金吾大将軍の李文通に詔して宣慰し、到着しようとしたとき、遂に交替させられた。昭州司戸参軍事に貶された。しばらくして召還されて右衛将軍となったが、給事中の崔植が任命の制を差し戻した。帝は崔植に対して、令狐彰に功績があって、その後嗣を棄てるに忍びないと諭し、制はそこで下された。左衛大将軍で終わった。

  令狐運は東都留守将となったが、杜亜に貶められ、流されて帰州で死んだ。


  張孝忠は、字は孝忠で、もとは奚の種族で、代々乙失活の酋長となった。父の張謐は、開元年間(713-741)に部衆とともによしみを納め、鴻臚卿を授けられた。張孝忠は初名を阿労といい、勇敢さによって有名となり、燕・趙の一帯では張阿労・王没諾干の名前をあげる者が多く、二人は名声が等しかった。王没諾干とは王武俊のことである。張孝忠の容貌は魁偉で、身長は六尺、性格は寛大で、親に仕えて孝行であった。天宝年間(742-756)、弓射をよくするから供奉仗内となった。安禄山が上奏して偏将となり、九姓突厥を破り、武功によって漳源府折衝に抜擢された。安禄山・史思明が背いて河・洛が陥落すると、常に賊の先鋒となった。史朝義が敗れると、そこで自ら帰順し、左領軍将軍を授けられ、兵とともに李宝臣の部下となった。累進して左金吾衛将軍を加えられ、張孝忠の名を下賜された。李宝臣は張孝忠が沈着かつ熟考する人物であったから、遂に姻戚関係を結び、易州の諸軍屯は張孝忠に委ねて統制させること十年あまり、威光と恩恵は伝え広まっていった。田承嗣が冀州に侵攻すると、李宝臣は兵四千を与えて、上谷に出撃させ、貝丘に陣を敷いた。田承嗣はその軍が整然かつ厳粛であるのを見て、「阿労がいるのなら、冀州は簡単に手を下せないな」と嘆いて、即時軍営を焼き払って去った。李宝臣は朱滔と瓦橋で戦い、張孝忠を奏上して易州刺史とし、精鋭の騎兵七千を分割して、幽州の攻撃に当たらせた。太子賓客に抜擢され、符陽郡王に封ぜられた。

  李宝臣は晩年、次第に猜疑心がひどくなり、大将の李献誠らを殺して、張孝忠を召還したが、張孝忠は行かなかった。再びその弟の張孝節に召還させた。張孝忠は「諸将が罪もなく、首を連ねて殺戮を受けています。私は禍いを恐れてあえて行きません。またあえて叛かないのは、公が天子に参勤しないようなものです」と復命した。張孝節は泣いて、「帰ったら、また殺されてしまう」というと、張孝忠は「一緒に行ったなら運命を共にすることになるが、私が留るなら、心配はいらない」と言い、はたしてあえて殺さなかった。

  しかし李宝臣はもとより張孝忠と親しく、病状が悪化して語ることができなくなって、手の指で北を示して死んだ。子の李惟岳が勝手に継承し、朱滔に詔して幽州の兵で討伐させた。朱滔は張孝忠がよく戦うのを嫌っており、張孝忠の軍が出撃して自身の災いになるのを心配し、判官の蔡雄を派遣して「李惟岳の小僧は、兵を弄んで命令を拒んだから、私は詔を奉って罪を討伐するのだ。公は宿将であるのに、どうして反逆を助けて自らの福を求めないようなことをするのか。今、昭義軍・河東軍はすでに田悦を破って、淮西軍は襄陽を降し、梁崇義の死体は井戸の中から出てきて、漢江の上の者五千人を斬り、河南軍は日を数えて北に軍を移動させているから、趙と魏の滅亡はまもなくだろう。公は反逆者のもとを去ってこの朱蹈に従い、率先して帰順すれば、不世出の功績を立てることができるだろう」と説いて、張孝忠はそうだと思い、将の程華を派遣して朱滔に答えて和議を結び、易州録事参軍事の董稹を派遣して入朝させた。徳宗は喜び、張孝忠を検校工部尚書・成徳軍節度使に抜擢し、朱滔と力をあわせさせた。張孝忠の子弟で恒州にいた者は全員が死んだ。張孝忠は朱滔に恩義を感じ、子の張茂和を朱滔の娘と娶せ、盟約を締結してますます堅く結びついた。

  李惟岳を束鹿で破り、朱滔は勝利に乗じて恒州を襲撃しようとしたが、張孝忠は軍を西北に引き揚げて、義豊に陣を敷いた。朱滔は疑い、張孝忠の幕僚は諌めて「尚書(張孝忠)は真心を朱司徒(朱滔)に推し量られ、これ以上のことはないといっていいでしょう。今逆賊はすでに壊滅し、もとの功績はあげられていないので、後に悔むことになります」と言ったが、張孝忠は、「最初から賊を打ち破ることを求めていたのだから、賊はすでに破れている。しかし恒州には宿将が多く、迫れば死闘となるが、緩めれば考え直すだろう。また朱滔は大言するが見識は浅く、はじめを慮るべきで、守成をともにするのは難しい。だから私はここで防御を固くして、賊が滅びるのを待っているだけなのだ」と言い、朱滔もまた停止して束鹿に駐屯した。一か月ばかりで、王武俊ははたして李惟岳を斬って献上した。すでに定州刺史の楊政義は定州をあげて張孝忠に降伏していたから、遂に易州・定州を保有した。当時、成徳軍の地を三分割し、詔して定州に軍を置き、義武軍を名付け、張孝忠を節度使・易定滄等州観察使とした。

  後に朱滔王武俊とともに叛くと、再び蔡雄を派遣して張孝忠を説得しようとした。「私はすでに唐の臣下となっており、生まれてつき質朴屈強で、業は忠義を尽くすことで、再び悪を助けるようなことはありません。私と王武俊とは若い頃からの親しい付き合いですが、しかしその心は動乱を喜ぶもので、信を置くべきではありません。司徒にごあいさつしようと、よけいな田舎言葉を書きました」と答え、朱滔は再び金や絹を与えたが、すべて受け取らなかった。易州・定州は二鎮の間に挟まれ、そこで砦の堀を浚い、武器を修築し、将兵を励まし、城によって固く守った。朱滔は全兵力で攻撃したが、帝は李晟竇文場に詔して軍を率いて張孝忠を援助させ、朱滔は解囲して退却し、遂にその軍を保全した。張孝忠はそこで李晟と通婚した。天子は奉天に出発すると、張孝忠は将の楊栄国を派遣して精兵六百で李晟が国難に赴くのを助け、京師を回復させた。興元年間初頭(784)、詔して同中書門下平章事となった。

  貞元二年(786)、河北が蝗害にあい、民は餓死して山のようであり、張孝忠とその部下は一緒に粗食とし、一日に食べた物は豆や干した米だけであり、人々はその倹約ぶりに心服し、賢将であると思った。翌年、検校司空となった。その子の張茂宗に詔して義章公主に娶らせ、張孝忠は妻を遣わして入朝させ、自ら迎えの礼をとり、報奨や賜い物は非常に多かった。貞元五年(789)、側近に惑わされて、兵で尉州を襲撃して、侵入したが、詔を奉って鎮に戻った。役人に勝手に軍をおこしたことを弾劾され、司空の職を削られた。貞元六年(790)、司空に復職した。卒し、年六十二歳で、上谷郡王に追封され、太師を追贈され、諡を貞武という。子に張茂昭張茂宗張茂和 がいる。


  張茂宗は、光禄少卿・左衛将軍に抜擢された。元和年間(806-820)、閑厩使を歴任した。それより以前、至徳年間(756-758)、西戎が隴右を陥落させ、そのため隴右監および七厩はすべて廃止されて、閑厩は私人がその地に入っていたが、宝応年間(762-763)初頭、始めてその地の貧民に賑給した。張茂宗は父の功績による蔭位をたのみとし、上奏してことごとくその賦を収め、また奏上して麟游県・岐陽県の牧地三百頃あまりを取ったから、民は朝廷に訴え、監察御史の孫革に詔して調査させ、覆奏して不可とした。張茂宗は左右の助けによって、孫革が奏上したことは事実ではないと誣告し、再び侍御史の范伝式が調査して再度事実関係を調査し、そこでことごとくその田を奪った。長慶年間(821-825)初頭、岐人が列をなして訴え、御史に下され、すべてその地を民に返した。宝暦年間(825-827)初頭、兗海節度使に遷った。左龍武統軍で終わった。


  張茂和は、左武衛将軍に任じられた。裴度を攻撃すると、裴度の上奏により都押衙となった。張茂和はしばしば胆力と勇敢さによって自らを試したが、裴度には功績ではないとされたから、辞して行かなかった。裴度は軍法によって張茂和を斬ろうと要請したが、憲宗は「予はその家が忠義かつ孝行であるから用いているが、卿のために排斥されるのか」と言った。その後、諸衛将軍で終わった。


  張茂昭は、本名を張升雲といい、徳宗の時に今の名を賜り、字は豊明である。若くして冷静沈着で、非常に書経・左伝に精通した。張孝忠の時、検校工部尚書に抜擢された。張孝忠が卒すると、帝は邕王李謜を義武軍節度大使とし、張茂昭を留後とし、延徳郡王に封じた。二年後、節度使となった。弟の張昇璘は王武俊の人となりを軽んじて、座上から痛罵したから、王武俊は怒り、義豊県・安喜県・無極県を襲撃し、一万人あまりを掠め、張茂昭は籠城し、人を派遣して深々と謝ったから、侵攻は停止した。しばらくして入朝し、帝のために従容として河朔の事を言上し、帝は拝聴し、「卿と出会うのが遅かったのが残念だ」と言った。召し寄せて麟徳殿で宴し、良馬・邸宅・宝物で優れた物を賜り、その子張克礼に詔して晋康郡主を娶らせた。帝は張克礼を北方の辺境に置いて守らせようとしたが、たまたま崩じてしまい、そのため張茂昭は入臨するたびに、たちまち哀んで自分ではどうすることもできなかった。

  順宗が即位すると、同中書門下平章事に昇進し、再度義武軍に派遣されることになり、女楽二人を賜ったが、固辞し、車が邸宅の門にやって来たが、張茂昭は勅使を引き寄せて辞退して、「天子の女楽は、臣下が見るべきものではありません。昔、汾陽咸寧西平北平の諸郡王は皆大功があったから、これを賜りました。今、時代は下って臣は陛下をお守りするために朝廷におりますが、どうして軽々しく賞されることがありましょうか。後日、功績を立てた臣がいた場合、陛下は何を与えられるというのでしょうか」と言った。また安仁坊の中に邸宅を賜ったが、謙譲して受けなかった。憲宗の元和二年(806)、入朝を願い、五たび奏上して聴された。留まることを願ったが、許されず、兼太子太保を加えられた。

  帰還すると、王承宗が叛き、河東・河中・振武・義武軍に詔して軍を合わせて恒州北道招討使とし、張茂昭は輜重を担当し、諸侯を動員して、道路を平坦にし、西軍を待った。王承宗は騎兵二万で木刀溝を越えて王師と接戦し、張茂昭は自ら甲冑を纏って先鋒となり、その子の張克譲、従子の張克倹を従えて諸軍を与えて左右の翼に分割して賊を包囲し、大いに破り、王承宗はほとんど危ういところであった。たまたま詔があって軍を返し、検校太尉、兼太子太傅を加えられた。そこで一族をあげて朝廷に帰ることを願い、なんども上表し、帝は許した。北の藩鎮は説客を派遣してもう少し考えるよう説いたが、すべて受け入れなかった。左庶子の任迪簡に詔して行軍司馬とし、任迪簡は駅馬に乗って赴いた。張茂昭は両州の符節・鍵・地図や戸籍を返還した。先に妻子に命じて長安へと行かせたが、「我が使は俺を簡単に出発させたが、ねがわくば後世、汚れた俗世に染められないことだ」と戒めた。道の途中で、迎えて兼中書令、充河中晋絳慈隰節度使を拝命した。京師に到着すると、双日が延英殿を開き、帝と対面して五刻ほどで暇乞いした。また墳墓を京兆に遷すことを上表し、許された。翌年、疽が首にできて卒した。年五十歳。冊して太師を追贈し、献武と諡した。帝はその忠誠を思い、諸子を全員要職に抜擢し、毎年絹二千匹を給付した。


  幼子の張克勤は、開成年間(836-840)左武衛大将軍となる。詔によって一子に五品官を賜ると、張克勤は息子が幼いから、その甥を推したが、吏部員外郎の裴夷直が弾劾して「張克勤は役人の司法を曲げ、一族の他の者を引き寄せていますが、後日の売爵の発端を開きかねませんから、許すべきではありません」と述べ、詔して聴され、遂に定令となった。


  裴夷直は、字は礼卿で、または幸亮である。進士に及第し、右拾遺を経て、中書舎人に累進した。武宗が即位すると、裴夷直は冊牒を見て、任命されることをよしとしなかったから、そこで京師から出されて杭州刺史となり、州司戸参軍に退けられた。宣宗が即位した当初に量移し、再び江州・華州等の州刺史となった。散騎常侍で終わった。


  陳楚は、張茂昭の甥であり、字は材卿で、定州の人である。武の才能があり、張茂昭に仕え、牙将となり、常に精兵を統括して征伐に従った。張茂昭が入朝すると、諸衛大将軍に抜擢され、普寧郡王に封ぜられた。元和年間(806-820)末、義武節度使の渾鎬が軍を失い、定州が乱れると、陳楚が節度使となり、駅伝で急行して軍に赴いた。街に到着したが、出迎えの者はおらず、左右の者が入らないよう勧めた。陳楚は「定州の軍が迎えに来ないのは、私を試しているからだ。今入らなければ、まさに奴らの計略に陥るだろう」と言い、そこで雪をおかして四十里を行き、夜に定州に入ったが、しかし軍の将校や兵士は、皆陳楚の馴染であり、これによって軍の心は定まった。河陽三城に遷り、京師に入って左羽林統軍、検校司空に遷った。卒した時、年六十一歳で、司空を追贈された。子の陳君奕もまた、鳳翔節度使となった。


  康日知は、霊州の人である。祖父の康植は、開元年間(713-741)に、康待賓を捕縛し、六胡州を平定し、玄宗に召見され、左武衛大将軍に抜擢され、天山県男に封ぜられた。康日知は若くして李惟岳に仕え、趙州刺史に抜擢された。李惟岳が叛くと、康日知は別駕の李濯および部将百人とともに犠牲の血を啜って共に盟約し、趙州を固守して自ら唐に帰順した。李惟岳は怒り、先鋒の兵馬使の王武俊を派遣して攻撃してきて、康日知は客人に王武俊に挨拶させて「賊は弱きこと甚だしいのに、どうして安全や危険を共にするに足りましょうか。我が城は兵士の団結が強く、年月が長引いたとしても降伏するようなことはありません。また賊の恃みとする者は田悦だけです。田悦の兵は邢州で血に塗られ、壕を渡ろうとしても、半分も渡ることができなかったのです。ましてや我が城をどうしようというのでしょうか」と言い、またあざむいて朝廷の公文書を作成し、示して、「使者は詔をもたらして中丞を諭されています。中丞はどうして天子を損なって、小児の跳梁跋扈に従うのでしょうか」と言い、王武俊は悟って、兵を引き返し、李惟岳を斬って献じた。徳宗はその謀を称えて、抜擢して深趙観察使とし、実封二百戸を賜った。

  たまたま王武俊は王命を拒み、将軍の張鍾葵を派遣して趙州を攻撃したが、康日知はこれを撃破し、捕虜を京師に献上した。興元元年(784)、深趙を成徳軍にあわせ、康日知を奉誠軍節度使に遷し、また晋絳に遷し、検校尚書左僕射を加え、会稽郡王に封じた。貞元年間(785-805)初頭に卒し、太子太師を追贈された。


  子の康志睦は、字は得衆である。姿は偉丈夫で、騎射を巧みにした。右神策軍に属し、右神策大将軍に累進した。張韶を討伐し、功績が多かったため御史大夫を兼任し、平盧軍節度使に昇進した。李同捷が叛くと、兵を放って敵の大部隊を攻略し、康志睦は敵の精兵の勢いを挫き、伸長させることはなく、遂に蒲台を降し、ことごとくその械を奪った。検校尚書左僕射を加えられた。涇原節度使に遷り、たまたま会稽郡公となった。卒した時、年五十七歳で、司空を追贈された。


  子の康承訓は、字は敬辞である。一族の功績によって推薦されて左神武軍将軍に任命された。宣宗は抜擢して天徳軍防禦使としたが、軍中の馬は乏しく、敵が襲撃してくると、しばしば敗北していたから、康承訓は冗費を削り、馬を買って軍に増やし、軍はそこで勢力を振るうことができた。それより以前、党項(タングート)は射鵰軍を洛源鎮で破り、その軍の人を全員捕虜としたが、康承訓の威信を聞いて、すべて捕虜を返還してあえて聞き入れないことはなかった。詔して検校工部尚書とし、会稽県男に封じ、義武軍節度使に抜擢した。

  当時、南詔が安南を破り、詔して嶺西南道節度使に遷り、邕州を根拠地とし、容管経略使を合わせて属させ、遂に諸軍行営兵馬を総べた。南詔が深く侵入し、康承訓は兵を六道に分けて出撃して蛮(南詔軍)を奇襲したが、戦況は不利で、兵士で死んだ者は十人中八人に及び、ただ天平軍の兵士が二千陣地に帰還しただけで、全軍が震撼した。ここに節度副使の李行素は城を保全して出撃せず、南詔はこれを包囲すること四日、ある者が夜に出兵して蛮を襲撃するよう願ったが、康承訓はあれこれ理由をつけて許さなかった。天平軍の部将が密かに勇士三百で、夜に接近して蛮の陣営を焼き、五百人を斬首したから、南詔は恐れ、翌日解囲して去った。康承訓は偽って賊を大いに破ったと進上し、朝廷に報告すると、群臣は全員祝賀を述べ、検校尚書右僕射を加えられたが、子弟や姻戚や昵懇の者に賞を与えるのみで、兵士には与えなかったから、怨みごとで騒動となった。嶺南東道節度使の韋宙が事実を宰相に申し上げたから、康承訓は恥じて、病と称して離任し、右武衛大将に遷り、東都に分司となった。

  咸通年間(860-874)、南詔が再度辺境を掠奪した。武寧の兵七百で桂州を守備とさせたが、六年たっても交替のできず、将校の許佶趙可立が軍とともに怒って隊長を殺し、監軍使のところに行って兵糧と甲冑を支給して北に帰すよう要求したが、許さなかった、そこで勝手に武器庫の武器を掠奪し、糧料判官の龐勛を推戴して長とし、軍をまとめて帰還の途についた。懿宗は宦官の張敬思を派遣して、本道観察使の崔彦曾に詔して慰撫した。潭州に行き、監軍が偽ってその兵を奪い、龐勛は必ず誅殺されるのではないかと恐れ、舟を奪って流れに従って長江を下り、兵を集めて増やし、亡命する者を招き、銀刀の逃亡している兵士を収容して舟に匿った。徐城に到着すると、謀って「我らが城の外から呼びかければ、軍は必ず応じるだろう。先日の賞金五十万緡は得られるというわけだ」と言うと軍は喜んだ。牙兵の趙武らは逃亡しようとしたが、龐勛は斬首して首級を崔彦曾に送って、「これが乱の首謀者だ」と言ったが、崔彦曾は問い詰めることができなかった。龐勛は都押衙の尹戡・教練使の杜璋・兵馬使の徐行倹を恨んで、また崔彦曾に「兵士は罪をおかした負い目から、あえて武装をとくことができません。彼らだけで二営を設けていただきたい」と言い、さらに尹戡らを追放するよう申し伝えた。府の属吏の温廷晧は崔彦曾に向かって、「龐勛は勝手に守兵を率いているのが、殺すべき第一の理由です。勝手に大将を殺すのが、殺すべき第二の理由です。私的に兵を置くのが、殺すべき第三の理由です。軍中の兵士は子弟でなければ父兄の関係であり、扇動によって内外必ず応じ、銀刀は逃げて、またその中にいることになるでしょう。これが殺すべき第四の理由です。二営を分けて三将軍を排除しようと要請する、これが殺すべき第五の理由です。」と言ったから、崔彦曾は嘆息した。そこで旗指し物を官衙の正殿前に並べて、兵三千を選抜して都虞候の元密に授けた。任山に駐屯し、龐勛が来るのを待って攻撃しようと、警備兵を変装させて賊を偵察させた。日暮れになって、龐勛が到着すると、警備兵は捕らえられてその計画は知られ、そこで人形をつくって偽物の旗をもたせ、間道から苻離を襲撃した。しばらくしてから発覚し、軍を城南に駐屯させた。龐勛は宿将の喬翔と睢河で戦い、喬翔は大敗し、太守を代理していた焦璐は遁走した。龐勛は宿州を占領し、兵馬留後を自称した。

  それより以前、焦璐は汴河を決壊させ、龐勛の北上を阻もうとしたが、水が到着する前に龐勛は渡河し、元密の兵が宿州を攻撃する時には、水は深くなっており、渡河して城を取り囲んだが、攻撃することができなかった。龐勛は舟百艘を奪って兵糧を運送して泗州に行き、婦人や弱兵を留めて守らせた。翌日、元密に発覚して、追跡されたが、兵士はまだ食事をしていなかった。賊が兵を舟に伏せて汴河の上に陣取り、軍は元密を見てすべて逃走した。元密は追跡したが、伏兵が現れて挟撃され、元密は敗れ、軍は殲滅された。遂に徐州に入り、崔彦曾および官吏を捕らえ、尹戡らを殺した。また下邳県・漣水県・宿遷県・臨淮県・蘄県・虹県の諸県を従わせ、すべてが降伏した。偽将を派遣して柳子県・豊県・滕県・沛県・蕭県に駐屯させ、その軍の勢力を振るい、そこで上奏文をつくって節度使を求めた。周重なる者がいて、濠州・泗州のあたりで隠遁しており、自ら智謀があると自称しており、龐勛は迎えて上客とし、どうすればよいか策略を尋ねた。そこで龐勛に「囚徒を赦し、揚州を占領して拠点とし、北は兗州・鄆州を収め、西は汴州・宋州により、東は青州・斉州を奪い、境を大河にひらき、敖倉を食料庫として、持久すべきです」と教えたが、龐勛には英雄たる才能がなく、受け入れなかった。偽将の劉行及は濠州を攻撃し、刺史の盧望回を捕らえ、自ら刺史と称した。帝は宦官の康道隠を派遣して徐州に宣慰し、龐勛は郊外まで出迎え、旗や甲冑を来て矛や戟を持った兵士を三十里に渡って整列させ、騎馬や号令の声や太鼓を鳴らして、山谷を震わせた。酒を毬場に置いて、康道隠を招いてその軍を閲兵させ、賊のために投降してやって来る者を六十人偽装し、みだりに平民を殺戮し、首級を奉って勝利を誇った。康道隠が帰還する際には、強く節度使とするよう求めた。そこで魚台県・金郷県・碭山県・単父県の十県あまりを残して、官吏を斬り、金帛を出して兵士を募集し、流民の多くはこれに従った。

  帝はそこで康承訓を検校尚書右僕射・義成軍節度使・徐泗行営都招討使に任じ、神武大将軍の王晏権を武寧軍節度使・北面行営招討使とし、羽林将軍の戴可師を南面行営招討使とし、魏博・鄜延・義武・鳳翔の各節度使、沙陀・吐渾の兵二十万で龐勛を討伐させた。

  龐勛は鬼道を好み、ある者が漢の高祖廟で夜に閲兵しており、人馬が汗を流していると言ったから、龐勛は毎日行ってその命令を受けようとした。占い師が毬場に龍が潜んでおり、龍を得ると戦いに勝てると言ったから、龐勛は役夫を大動員していたずらに地を掘らせたが、得ることはできなかった。賊将の李円・劉佶が泗州を攻撃し、欧宗・丁従実は舒州・廬州・寿州・沂州・海州の諸道を分けて巡った。兵は海州に駐屯し、賊が到着して渡河しようとすると、縄の橋をつくり、長い縄でまとめてあり、賊が半分渡ると、縄を切り、半分が溺死し、渡った者も戦うことができず、殲滅された。賊は別軍を派遣して和州を奪取し、沐陽県・下蔡県・烏江県・巣気の諸県を破り、揚州は大いに恐れ、民はことごとく長江を渡った。淮南節度使の令狐綯は書を朝廷に送って利害について説明し、節度使を求めているのを助けるのなら、龐勛は甲冑を脱いで命令を聴くだろうとした。淮南は宣州・潤州の兵を合わせて都梁山を防衛した。龐勛は夜に淮河を渡り、夜明けに陣地に迫り、賊将の劉行立王弘立は龐勛の軍と合流し、淮南の将の李湘を破り、淮口に駐屯し、盱眙県を掠奪した。帝はまた将軍の宋威に詔して淮南とともに力を合わせさせた。

  康承訓は新興に駐屯し、賊は戦いを挑んできたが、当時、諸道の兵はまだ集まっておらず、康承訓の軍は一万人にも満たないから、退却して宋州に立て籠もった。龐勛はますます驕慢となった。光州・蔡州の大賊は滁州を攻め落として、刺史の高錫望を殺害して龐勛に呼応した。戴可師は兵三万を率いて淮口を奪い、龐勛を都梁山の麓で包囲し、その軍をその軍を降伏させた。戴可師は勝利に気を良くして警戒を怠り、王弘立は兵で奇襲してきて、戴可師は敗北して陣地は潰滅し、兵士は淮河で溺死し、逃れた者は数百人ほどで、賊は戴可師の首級を取って徐州に伝送した。詔して馬士挙を淮南節度使・南面行営諸軍都統とし、駅伝で急派して揚州に入った。馬士挙は「城は堅固で兵士は多いから、賊にはどうすることができようか」と言うと、軍はようやく安心した。それより以前、帝は王晏権が亡き王智興の子であったから、武寧節度使とし、これによって賊を恐れさせようとした。ここに到って、かえって賊に窮せられ、あえて戦わなかったから、改めて隴州刺史の曹翔を兗海節度使・北面都統招討使とし、滕州・沛州に駐屯させ、魏博の将の薛尤を蕭州・豊州に駐屯させた。

  賊の部将の孟敬文龐勛との関係を絶って自立したいと思い、密かに文を刻んで「天口云々、錫爾将軍」とあり、夜に野に埋め、耕す者がこれを得て献上したから、軍は驚き、そこで三日斎戒して受けた。龐勛はその謀を知って、人に襲撃させて殺させた。

  ここに康承訓は柳子の西に駐屯し、汴を挟んで砦を築き、連なること一舎(16km)であった。龐勛は城中の兵を取り立てたが、三千にとどまり、民を拐って兵士としたから、皆穴を掘って逃れ去った。王弘立は睢水を渡河し、新興・鹿塘を包囲した。康承訓は沙陀の騎兵を解き放って蹂躙させ、王弘立は敗走し、兵士は水辺で死に、鹿塘から襄城まで、遺棄死体は五十里続き、首級は二万を数え、捕獲した武器は数え切れなかった。康承訓は柳子を攻撃し、姚周は河を渡って戦ったが、再度敗北し、風に乗じて賊に火を放つと、姚周は残兵とともに退却し、沙陀がこれを追撃し、芳亭に至ると、枕を並べて討ち死にし、劉豊を斬り、姚周は十騎とともに宿州に逃げたが、宿州の守将が姚周を斬った。龐勛は恐れ、そこで崔彦曾らを殺害し、部下に向かって、「お上は私に節度使の任命を許されず、諸君らとともに真の反乱者となった」と言い、大規模に募兵し、三万人を得た。許佶趙可立が龐勛に「天冊将軍」と称するよう勧め、龐勛は漢の高祖廟に謁して受命し、その父の龐挙直を大司馬とし、徐州を守らせた。ある者が、「大事を行おうというのに、私事で父親に拝礼するようなことがあっては、上下の秩序を失います」と言ったから、龐挙直はそこで役所にて拝礼を行い、龐勛はそこで座ったままで拝礼を受けた。兵を率いて豊県を救援し、木を刻んで婦人をつくり、衣服をつけて髪をつけていたが、軍が通過すると、切って放火してから行った。龐勛は夜に入城したが、外部の者は知らなかった。龐勛は精兵を出撃させて攻撃して援軍とし、魏博の軍は龐勛が自ら軍を率いているのを知り、驚いて潰滅した。賊は鹵獲した物資を徐州に送って勝利を誇った。曹翔は退却して兗州を確保した。龐勛は勝利に乗じて康承訓を攻撃しようとしたが、ある者が「今、北の官兵を破り、西の官軍は動揺しており、さらに打ち破ることも容易いのです。これから養蚕や麦作で忙しい月となり、軍を休めて農耕に力をそそぎ、秋になれば兵士も馬も強化されるので、このときに決戦して勝利すべきです」と言ったが、龐挙直は、「時宜は二度と得られません。願わくば将軍よ、敵をゆるしてはなりません」と言ったから、龐勛は「その通りである」と言い、康承訓は臨渙を攻撃しようとしたが、龐勛の計略を聞いて、兵を戻して待ち伏せした。龐勛の軍は皆市井の人であり、喧しく騒ぎ立てて、陣につくまでに逃げてしまい、互いに踏み合って死ぬ者は四万人に及んだ。龐勛は甲冑を脱いで一般の民衆の服を来て逃れ、敗残兵三千人を収容して帰還し、張行実を派遣して第城に駐屯させた。

  馬士挙が泗州を救援すると、賊は解囲して退却したから、進撃して賊を濠州で攻撃した。この時、また黔中観察使の秦匡謀に詔して賊を討伐させ、招義・鐘離・定遠を降した。龐勛呉迥を派遣して北津に駐屯させて濠州への援軍とし、馬士挙は精兵で淮河を渡り、その軍営を粉砕した。それより以前、龐勛が遁走すると、軍が崩壊するのを恐れ、妄言して神を野に呼び出したとし、「天符が下った。国兵は休め」と言い、部下に互いに語らせたが、符は降らず、そのため北津で敗北した。

  帝は魏博の軍が勝てないことを残念に思い、宋威を西北面招討使とし、兵三万を率いて蕭県・豊県に駐屯させ、龐勛に「降伏する者は赦そう」と約束した。それより以前、宿州の無官の人である劉洪なる者は、黄袍を着て、白馬に乗り、人に手紙を送らせて観察府に対して「私は徐州で王となろう」と言ったから、崔彦曾はこれを斬り、残党は山谷に隠れ、龐勛に従いたいと思っていたが、康承訓は諭して降伏させた。王師は臨渙を破り、一万人の首級を斬り、襄城・留武・小睢の諸城を奪取した。曹翔は滕県を降し、賊将は蘄県・沛県とともに降り、賊将の李直が逃走して徐州に入った。曹翔はまた豊県・徐城・下邳県を破り、賊はますます勢力を失った。

  龐勛張玄稔に宿州を守らせ、張儒・劉景をその補助とし、自ら統軍と称し、城壁を並べて互いに対峙した。康承訓は第城を陥落させ、張行実は宿州に逃走し、康承訓は遂に宿州を包囲した。張行実は龐勛に「官軍は全軍がここに集結しており、西方は手薄になっております。将軍は直ちに宋州・亳州の周辺に出撃して不意をつけば、宿州の包囲は自然と解けるでしょう」と教え、龐勛は喜び、軍を率いて西に向かい、龐挙直許佶に徐州を守らせた。康承訓は攻撃したが敗れ、十たび戦ったがすべて宿州側が勝利した。弁が立つ者を派遣して張玄稔を動かした。張玄稔は、賊の重職にある将であり、矢文を城外に射て、龐勛を誅殺して自ら帰順することを約束し、張臯を派遣して降伏の期日を定めた。にわかに二将ととともに柳渓で会同し、兵を付近に伏せ、張玄稔は騎馬で駆けて「龐勛の首はすでに僕射(康承訓)の城寨に梟首されているぞ」と叫ぶと、伏兵が攻撃して、劉景・張儒を斬った。張玄稔は諸将を率いて肌脱ぎになって康承訓に会見し、自ら賊を陥落させてすぐには出させず、しばらくして王師を登場させると述べ、賊を捕らえて死罪の贖罪とすることを願った。康承訓はこれを許した。また軍が潰滅したように偽って符離県を奪うことを願った。符離県は計略を知らなかったから、城内に入れ、入ると直ちに守将を斬り、兵一万人を得て、北は徐州を攻撃した。許佶らはあえて出撃しなかった。張玄稔は城を取り巻き、崔彦曾のもと部下の吏の路審中は門を開いて張玄稔の兵を中に入れ、許佶らは北門を開いて逃走し、張玄稔は自ら追撃し、賊軍を崩壊させ、皆水辺で死に、龐挙直・許佶・李直らを斬り、叛乱兵の親族を収容して全員を皆殺しとした。

  龐勛は徐州がすでに陥落したのを聞いて、気持ちを失い、顧みたり頼る者もなかったが、それでも軍はなお二万あり、石山から西に向かい、通過した場所を掠奪・放火した。康承訓は全軍八万で北に追撃し、沙陀の将の朱邪赤心は急追して宋州に到着し、龐勛は南城を焼き払ったが、刺史の鄭処冲に敗れ、軍を率いて南は亳州に逃走したが、康承訓は軍を渙水に沿って東進させ、賊は蘄県に逃走したが、官軍は橋を断っており、渡ることができず、康承訓はそこで思う存分に攻撃し、一万人を斬首し、ほかは全員溺死した。三日たって、龐勛の死体を発見した。龐勛の子を京師で斬った。呉迥は濠州を守り、兵糧が尽きて食人し、女子供を駆り立てて薪を運んで城壁を塞ぎ、あわせて修繕し、軍を整えて出発したが、馬士挙が斬って首級を朝廷に献じた。龐勛が初めて徐州を占領して、財貨の蓄えは尽き果て、そこで四方に出て盗み取り、男子十五歳以上は全員徴兵され、鋤や鉤を持って兵となり、「霍錐」と号し、十余州を破り、およそ二年で滅んだ。

  詔して張玄稔を右驍衛大将軍に抜擢し、康承訓を検校左僕射・同中書門下平章事に遷し、河東節度使に遷した。ここに宰相の路巌韋保衡は、康承訓が賊を討伐するのにあたって怠慢であり、敵の鹵獲物を貪り、予定外に功績を立ててお上に奏上したことを弾劾した。蜀王傅に貶され、東都に分司となった。再び恩州司馬に貶された。僖宗が即位すると、左千牛衛大将軍を授けられた。卒した時、年六十六歳であった。


  子の康伝業は、かつて父に従って征伐し、鄜坊節度使で終わった。


  李洧は、淄青節度使の李正己の従父兄である。始め徐州刺史に任じられた。建中年間(780-783)初頭、李正己が卒すると、子の李納は叛き、宋州を攻撃したが、李洧は徐州を引っ提げて自ら朝廷に帰順し、兼御史大夫を加えられ、潮陽郡王に封ぜられ、実封戸二百を得て、招諭使に充てられた。それより以前、李洧は巡官の崔程を派遣して入朝し、また宰相に「徐州は単独で賊に抵抗することはできません。海州・沂州を得て節度使となれば、共に成功できるでしょう。李洧はもとより二州の刺史と盟約があり、また賊のために守備することをよしとしません」と申し上げて、崔程はまず張鎰に諮問したが、盧𣏌は宰相に自分に申し上げなかったことを怒り、そのため李洧の件を中途に留め置くことを願った。李納が徐州を攻撃すると、劉玄佐は諸将とともに撃退した。すでに賊の勢力は伸長し、そこで李洧に徐海沂密観察使を加えた。当時、海州・密州は賊が守備していたから、命令を受けず、李洧はこの二州を奪って領有することがなかった。検校戸部尚書に遷った。たまたま疽が背中にでき、しばらくして、肩輿で市を通過すると、市の人が歓喜の声を叫んだから、李洧は驚き、疽が潰れて卒した。尚書左僕射を贈位された。李洧の将の高承宗を代任とした。


  その弟の李淡は、邪悪の人であり、家で養われているのを恥じ、密かに李納と徐州を攻める際に内応すると約束し、あわせて滕州の将の翟済を説得しようとしたが、翟済は捕らえて上奏した。翟済を抜擢して沂州刺史とした。李淡を召還して京師に入れ、李洧の赦免によって罪としなかった。


  劉澭は、盧龍節度使の劉怦の次子で、劉済の異母弟である。史書を広く読み、武の才能があり、好んで兵士を愛して施したから、人に死力を尽くさせることができた。始め朱滔に仕え、常に君臣の大分を述べ、その邪悪さを制止しようとした。劉怦が幽州を得ると、三か月もしないうちに病で死んだが、劉澭は看病で侍って離れず、たちまち父の命令によって劉済を莫州に召還し、劉済に継承させて軍事を総べさせ、そのため劉澭の謙譲を徳とし、瀛州刺史に任じられたが、もし劉済が死亡した場合は、自分の代わりとなることを許した。

  しばらくして、劉済は自らその子を用いて副大使としたが、劉澭は恨まないでいることができず、そこで所属する部隊で天子のために隴州を守ることを願い出て、全兵の千五百を発して馳せて京師に帰順し、一兵としてあえて違令する者はいなかった。徳宗は非常に寵遇し、秦州刺史を拝命し、普潤に駐屯した。軍中では音楽を設けなかった。兵士が病となると、親しく訪ねて望む者を尋ね、不幸にして死んだ場合は、哭泣した。

  憲宗が即位すると、方士の羅令が劉澭の軍営を訪れ、廃立を妄言して劉澭の軍を動かそうとしたから、命じて拘束し、拒否して「我が党は非常に多く、公は私を捕らえることはない。大行(徳宗)の梓宮におられるときに約束して兵を発したところで、無事に済むわけがあるまい」と言い、劉澭は捕らえて朝廷に送り、これを殺した。攻撃を記録して、その軍を保義軍と称した。蕃戎の異民族は恐れ憚って、あえて侵入することはなかった。常に憤っており、再度河湟を回復しようとする志があり、しばしば朝廷のために申し上げたが、採用されることはなかった。累進して彭城郡公に封ぜられた。病となると、兵士や馬を記録して代任の者を求めた。帰還することになったが、道の途中で卒した。年四十九歳。尚書右僕射を追贈され、諡を景という。


  田弘正は、字は安道である。父の田廷玠は、儒学を尊び、行軍を楽しまず、田承嗣の従弟にあたり、仕えて平舒県の丞となり、楽寿県・清池県・束城県・河間県の四県令に遷り、優れた治世を称えられた。滄州刺史に遷った。李宝臣朱滔は田承嗣と仲が悪く、兵を合わせて滄州を包囲し、田廷玠は固守すること連年となり、食料は尽きたにもかかわらず叛く者はいなかった。朝廷はその忠節を嘉び、相州に遷った。田承嗣は磁州・相州を奪い、田廷玠は悪事に染まることはなかった。田悦が田承嗣に代って節度使となると、田廷玠の実正さを嫌って、呼び寄せて節度副使とした。田廷玠がやって来ると、田悦を責めて「伯父の諸業を受け継いで、朝廷の法令を守って富貴を保つべきであるのに、何の苦みがあって恒州・鄆州とともに叛臣となるのか。兵乱がおこってから、天子に叛いて宗族を全うできた者に誰がいたというのか。思いを悔い改められないのなら、まず私を殺せ。私に田氏一族が血塗られるのを見させるでない」と言い、遂に病と称して出なかった。田悦は過ちを謝罪したが、門を閉ざして受け入れず、憤死した。

  田弘正は幼くして兵法に通じ、騎射をよくしたから、田承嗣に可愛がれ、必ず我が一族を興すと思われ、名を興とした。田季安の時代に、衙内兵馬使・同節度副使となり、沂国公に封ぜられた。田季安が奢侈にふけり、誅伐を行ったから、田弘正は従容として諌めたから、軍中は頼りとし、人々の心が集まって帰服した。田季安は心の内で嫌い、臨清の鎮将とし、罪を帰して誅殺しようとした。田弘正は表向きは中風による麻痺だと称し、家で臥せって出なかったから、死を免れた。田季安が死ぬと、子の田懐諌が節度使を継承し、召還されて旧職の復した。

  田懐諌は政務を家奴の蒋士則に委ねており、措置が公平ではなかったから、軍は怒り、全員が「兵馬使が我らの長である」と言い、牙兵はそこで田弘正の家に迎え、田弘正は拒んで受け入れず、軍は門で騒いだから、田弘正は出てきて、軍は拝礼して、府に帰るよう脅した。田弘正は地に伏せることたびたびであったが免れず、そこで軍に命令して、「お前たちは私が不肖であるにも関わらず、軍務を司らせようとしているが、今君らと約束したいが、よく命令を聞くか」と尋ね、「公の命令に従います」と言い、そこで「私は守天子の法を守りたい。六州の版籍をあげて朝廷に吏が来るよう願うが、いやしくも天子はまだ命じられていない。あえて我が旗節を願う者は死罪である。殺人や掠奪する者は死罪である」と言い、全員が「わかりました」と言った。遂に府に到着し、蒋士則と支党十人あまりを殺した。ここに魏州・博州・相州・衛州・貝州・澶州の地を版図とし、その地を記録して朝廷に献上し、あえて部下を任命せず、朝廷の官吏が来るのを待った。

  それより以前、諸将は屯営から出て、妻子を人質にし、里民は互いに往来することができなかった。田弘正はことごとくその禁を廃止し、民が通行したり贈与・慶弔の祭事をするのを許した。服飾や装飾が華美な者は、即日撤廃させた。田承嗣の時、正寝(宮殿)は華美であったから、田弘正は避けてあえて住まず、さらに采訪使の庁舎を盛大にして政務を行った。幽州(劉総)・恒州(王承宗)・鄆州(李師道)・蔡州(呉少陽)は大いに恐れ、客を派遣して団結するよう促したが、田弘正は全員を拒否して送り返した。憲宗はその忠誠を褒め、詔して検校工部尚書とし、魏博節度使に任命した。また司封郎中、知制誥の裴度を派遣して宣慰し、その軍の銭百五十万緡をもたらして、六州の民に一年間の免税を賜り、囚人を赦し、老人・孤独・病気で動けず、自ら生活できない者を慰労し、たびたび物事の道理をはっきりとわきまえ、具に朝廷の厚意を述べたから、田弘正は不覚にも我を失ってしまい、そこで深く結びつきを強め、お上に奉ることますます謹直であった。裴度にその地に赴いて、天子の恩詔を宣示することを願った。そこで節度僉謀布衣の崔懽に謝意の上表文を述べさせた。また「天宝年間(742-756)以来、山東の奥地は、戦乱の地と化し、官や封地は世襲となり、刑罰や褒賞は自弁して出し、国家が恥辱に耐えることは六十年になろうとしています。臣がもし天の齢を仮り、陛下の宸算を奉り、太平の宣揚を願い、偽風を洗濯し、その後に郷里に戻って、人材の進路を妨げないようにできれば、死んでも恨みません」と述べたから、詔によってお褒めのお言葉をいただき、また今の名(弘正)を賜り、財物を賜った。

  天子はを討伐し、田弘正は子の田布を派遣し兵三千で戦わせ、しばしば功績があった。李師道は自分を攻撃してくるのではないかと疑い、あえて表立って蔡を助けず、そのため呉元済の救援に失敗し、王師は呉元済を誅殺することができた。王承宗が叛くと、田弘正に詔して全軍で国境から圧迫させ、その軍を南宮で破ったから、王承宗は恐れ田弘正に帰順を懇願し、田弘正は朝廷に上表し、遂に徳州・棣州二州の割譲をもって謝罪し、二子を人質とした。

  突然、李師道が背いたから、田弘正と宣武等の五節度に詔して兵で討伐させた。田弘正は楊劉から渡河し、鄆州から隔たること四十里のところに陣を敷き、李師道の大将の劉悟は精兵を率いて河東に駐屯した。陽谷で戦い、二度遭遇して二度とも敵を敗走させ、一万級あまりを斬り、賊の勢いは衰えた。劉悟はそこで兵を返して、李師道の首を斬って、田弘正のもとに行って降伏し、十二州を取って献じた。それより以前、劉悟は賊を平定すると、大いに軍中で飲み、三日して、各種演劇の席を設け、魏博の使者を呼んで庭にやって来ると歓待し、劉悟は眉目をつりあげ肘を払い、その決行を助けさせたが、席に座していた一同は全員が劉悟の勇猛さを憚った。客がそのことを田弘正に言った者がいたが、田弘正は、「鄆州の兵士は戦いに疲れ、傷ついた者はまだ起きあがれず、劉悟はまさに死者を憐れみ、戦いに疲れた者を労わなければならないが、士大夫の心を慰めたとて、どうして快楽を目前に優先するのだろうか。私は詔を奉って軍を調査し、劉悟の去就を伺っていたが、今劉悟がよくできない人間だとわかったよ」と言った。すでに劉悟に詔して義成軍節度使としたが、軍は途中で疲れ果て、当時の人は田弘正が劉悟のことをよくわかっていると明敏さを称えた。

  軍功によって田弘正に検校司徒・同中書門下平章事を加えられた。この年来朝し、麟徳殿で対面し、慰労に等級があった。幕僚・補佐の将校二百人あまりを引見し、全員に頒賜があり、田弘正を昇進して侍中を兼任させ、実封三百戸となった。その兄の田融を抜擢して太子賓客・東都留司とした。田弘正はしばしば上表して宮中に留めてくれるよう強く願ったが、帝は労って、「先年、韓弘が病のため軍務につけないと辞退してきたが、朕はこれに従ってしまった。今、卿もまたそうであるなら、朕は違えるべきではない。ただ魏の人は卿の政事を楽しみ、四隣は卿の武威を恐れている。朕の長城となっているのに、またどうして辞退してくるのか」と言い、田弘正は遂に帰還した。常に山東の一門が継承する旧風を改めたいと思っていたから、ことごとく子女を長安に送って朝廷に仕えさせ、帝は皆抜擢して任命したから、朱紫の衣を着た者は一門に満ち溢れ、栄誉は当時で最も高かった。

  穆宗が即位すると、王承元は成徳軍に新たな節度使を願い、帝は田弘正に詔して中書令を兼任させ、節度使とした。田弘正は新任地で鎮州兵と戦っていたから、父兄の怨みを買い、魏兵二千を採用して自らの護衛とし、その軍に入れた。当時、天子は銭百万緡を賜ったが、到着しなかったから、軍は恨み言による騒動があり、田弘正は自ら慰撫して安じた。そのため魏兵を留めて綱紀粛正しようと願い、それによって軍の士気を保とうとしたが、度支の崔倰が吝嗇で、阻んで斥けた。長慶元年(821)七月、護衛の兵士を魏に返したが、この月軍乱がおき、家族・将校・吏員三百人の全員とともに殺害された。年五十八歳であった。帝は聞いて驚愕悲嘆し、太尉を追贈し、諡を忠湣とした。

  田弘正は幼くして父を失い、兄の田融に仕えて非常に謹直であった。軍中でかつて組分けして弓射を習わせたが、田弘正は矢をつがえては連続で的中させた。田融が退くと、田弘正を笞打って怒り、そのため田季安が猜疑心で凶暴であった時期にはよく自らを保全した。軍中に節度使となるよう強制されると、田融は喜ばず、「お前はついに自分の才能を隠さず、災いの道を選ぶのか」と言った。朝廷はその友愛を知り、詔して田融に相州刺史を拝命し、金紫を賜り、互いの身分が離れている望まなかった。

  田弘正は、性格は忠孝で、功名を好み、楼を建てて万巻の書を集めた。『春秋左氏伝』に通暁し、部下と終日講論し、客人が『沂公史例』を著し、世に行われた。田弘正の禍いの時、その判官の劉茂復一人だけが死を免れた。士は互いに戒めて「この人は事を議して忠を尽くしたから、我らの信を受けたのだ。敢えてその家にさからう者は共に殺す」と言った。

  田弘正の子に田布田群田牟がいる。


  田布は、字は敦礼で、幼い頃から物わかりが良かった。田弘正が臨清を守備すると、田布は田季安が危険であることを知り、密かに父に伝え、軍とともに唐に帰順するよう願ったから、田弘正は他とは違う人物だと思った。父が節度使となると、田布に親兵を指揮させた。王師がを討伐すると、軍とともに厳綬の指揮下に入り、唐州に駐屯した。帝は田布が大臣の子であるから、あるいは罪があっても、法を曲げようとしたから、田弘正は董畹に代わらせるよう願ったが、兵士は田布を愛して留めるよう願ったから、帝は沙汰止みとした。およそ十八戦し、凌雲柵を破り、郾城を下し、功績によって御史中丞を授けられた。裴度は軽率に出て沱口で閲兵し、賊将の董重質が奇襲を仕掛けてきたが、田布は騎兵数百を伏兵し、突撃して迫ると、諸軍も続いたから、賊は驚いて引き還した。蔡が平定されると、京師に入って左金吾衛将軍となった。諌官がかつて帝の前で論功を行い、同列の将軍が退けようとしたが、田布は「天子が直臣を入れたのだから、軽々しいことはしてはならない」と止めた。田弘正は成徳節度使に遷り、田布は河陽節度使となり、父子同日に拝命した。当時、韓弘と子の韓公武もまた節度使を領したが、天下は忠義によって田氏が多しとした。田布が到着すると、必ず冗将を省き、兵士を募集し、賦税を緩めて農耕を勧め、人々は皆安んじた。長慶年間(821-825)初頭、涇原節度使に遷った。

  田弘正が殺害され、魏博節度使の李愬は病んで軍を指揮することができず、公卿は議して、魏は強いが鎮は弱く、また魏の人はもとより田弘正を徳としていたから、田布は賢人であってその官を世襲してきたのだから、成功するだろうとした。穆宗はにわかに田布を召し寄せ、喪服を脱がせて検校工部尚書・魏博節度使に任じ、駅伝に乗って行かせた。田布は号泣して固辞したが、聴されなかった。そこで伎楽を催して、妻子と賓客に「私は戻らない」と決意を述べ、魏に到着するまでの三十里、裸足で出発し、号泣しながら入り、殯室にいては、軍旗の節旄を立てた。おおむね将兵で老いた者は、田布を兄のように仕えた。俸禄は月に百万に及んだが、一つとして自分や一門に入れず、また家の銭十万緡あまりを出して士卒に分け与えた。牙将の史憲誠に麾下を出して任すべく、精鋭を委ねた。当時、宦官はしばしば戦に赴いたが、度支の兵糧の補給は続かなかったから、田布はたちまち六州の租賦によって軍に給付した。兵三万を率いて進軍して南宮に駐屯し、賊の二砦を破った。

  ここにおいて、朱克融は幽州を根拠とし、王廷湊とは唇と歯のような相互関係にあった。河朔三鎮はもともと連衡しており、凶暴・屈強で自己の利益をほしいままにし、史憲誠も二心を企て、密かに隙に乗じようとした。また魏軍は驕慢で、戦うことを嫌がり、当時大雪となり、軍が寒さと兵糧の欠乏となり、軍中は誹謗して、「他日に兵団を用いる時、兵糧はすべて朝廷に仰いでいた。今六州は自らを犠牲にして鎮州・冀州と死生を争い、尚書であっても自分を痩せさせて国を太らせている。魏人に何の罪があるのか」と言い、史憲誠は隙に乗じて、乱を誘発した。たまたま田布の軍を分けて李光顔に合流させて深州を救うよう詔があると、兵は怒り、東に行くことをよしとせず、軍は遂に崩壊して、皆史憲誠に帰し、ただ中軍のみが動かなかった。田布は中軍と魏に戻った。翌日、諸将と軍議を行ったが、軍が騒いで「公が河朔の旧事を行うことができるのなら、生死は公に従おう。そうでなければ戦うことはできない」と言った。田布はたびたび軍が乱れるから、嘆いて「功は成らなかった」と言い、そこで書簡を記して帝を謝し、「臣は軍の意を見ますに、終に国は失敗していまいました。臣に功なく、あえて死を忘れることはありません。願わくば速かに牛元翼をお救いになられ、忠臣義士を河朔で塗炭の苦しみを味わせないようにしていただきたい」と述べ、泣いてその従事の李石に授けると、入って机と席に向かい、刀を抜いて心臓に刺し、「上は君主や父に謝し、下は三軍に示せ」と言い、絶命した。年三十八歳で、尚書右僕射を追贈され、諡を孝という。子の田鐬は、宣宗の時に銀州刺史を経て、私鎧を辺境の馬に換えたために、罪に問われて死罪に値したが、宰相の崔鉉が、田布が国に忠節をつくして死んだから、田鐬を許して忠烈を勧めるべきだと上奏したから、為州司馬に貶された。


  田群は、会昌年間(841-846)に蔡州刺史となったが、収賄を罪とされ死罪に相当した。兄の田肇はこれを聞いて、絶食して卒した。宰相の李徳裕は「漢の河間の人である尹次と、潁川の人の史玉は殺人を罪とされ死罪に相当しましたが、次兄の尹初と史玉の母の渾氏は官に代わりとなるよう願い、そこで縊死したため、その時皆死罪を赦しました」と奏上し、ここに武宗は詔して死一等を減じた。


  田牟は、寛大で官吏の事務に精通し、神策大将軍となった。開成年間(836-840)初頭、塩州刺史の王宰が羌人との和を失い、田牟に詔して交替させた。累進して鄜坊節度使に遷り、再び天平節度使となり、三遷して武寧節度使、一遷して霊武軍節度使となった。官は検校尚書左僕射となり、卒した。諸子は皆各方面に功績があり、忠義によって当時の評価は高かった。


  王承元は、王承宗の弟である。沈着で謀があった。年十六歳で、王承宗にしばしば兵を率いて共に李師道を討つよう勧めたが、王承宗は若い者の考えだとして、用いなかったが、軍中では往々として注目を集めた。王承宗が死ぬと、まだ喪を発せず、大将が謀って節度使に他の姓の者を採ろうとした。参謀の崔燧が将校らと図り、祖母の涼国夫人李氏は王承元の後を継ぐよう命じた。王承元は泣いて拝礼して受けず、諸将は懇願し、王承元は「お上が中貴人監軍を派遣してくるから、思うにまずそれに願っては」と言い、監軍が到着すると、また命令は同様であった。そこで謝して、「諸君が王氏を忘れず、それを小僧に及ぼすのだから、いやしくも命令があれば、私に從うのか」と尋ねると、軍は「ただ命令のままに」と言ったから、そこで牙軍の門の扁額を見て、左右に留後と称することができないこと、すべての事は参佐が決すること、密かに上表して節度使の派遣を朝廷に要請することを約束した。穆宗は起居舎人の柏耆に詔して宣慰させた。王承元に検校工部尚書・義成軍節度使を授けた。北鎮は両河の故事で脅し誘ったが、王承元は受け入れず、諸将は全員後悔した。柏耆が到着すると、兵士は軍中で慟哭したが、王承元は命令して「諸君は私が去ることを望んでいないが、思いが堅いことはよいことなのだ。そうでなければ、天子の詔をはばむことになり、私が罪を得たらどうするのか。先に李師道は詔があって死を赦され、一族を挙げて西に行こうとしたが、諸将は止めて行かせなかった。他日ともに殺された。今君らが私が留まるのを幸いとすれば、李師道の比ではないだろう」と言い、そこでくまなく諸将に拝礼し、諸将は言葉に詰まった。王承元はそこで家の財産をすべて出して賜い、命令に従わない者十人ばかりを斬り、軍はそこで定った。ここに諌議大夫の鄭覃が宣慰し、その軍に銭百萬緡を賜い、囚徒を赦し、問孤独・病気で自活できない者を尋ねて粟帛を序列に分けて給付した。

  王承元が鎮を去ると、側近は財産を集めて自ら従おうとしたが、王承元は袋を空にして留めさせなかった。入朝すると、弟で刺史を拝命する者は四人、朝廷で官位を得た者は四十人であった。祖母が入見すると、帝は中宮に命じて礼遇・賜物に等級をつけた。王承元を鄜坊丹延節度に遷した。にわかに鳳翔節度使とした。鳳翔は右に涇州・原州が広がり、地は平らで険しい場所は少なく、吐蕃はしばしば入寇してきた。王承元は優れた土地に砦を築き、守備兵千人を置き、詔して臨汧城と号した。鳳翔府の外城の東に多くの商人が集まり、緊急時に敵に襲撃されると、篝火をあげて警告するだけであったが、王承元は城壁をつくって取り巻き、人々はそこで安泰となった。功労によって岐国公に封ぜられた。大和年間(827-835)初頭、祖母を喪い、詔して、「王武俊が動乱にあたって、逃散から救い定めたことは、功績はすでに史官の手によって書かれている。今、李氏は不幸に遭った。贈恤(香典)は加えて手厚くせよ」と述べ、また儀仗を給付して葬った。

  大和五年(831)、平盧軍淄青節度使に遷った。それより以前、塩の禁令はまだ河北・河南では行われておらず、王承元は役人に帰することを願い、これによって兗・鄆の諸鎮でも皆法を奉るようになった。王承元の性格は寛大で心は広く、周囲を愛護した。卒した時、年三十三歳で、司徒を追贈された。


  牛元翼は、趙州の人である。才能があって謀に優れた。王承宗の時にその計略にたよって強雄となり、傅良弼と二人で諸将に冠たるものがあった。王廷湊が叛くと、穆宗は牛元翼を成徳軍節度使としたが、名目は王廷湊から出て遠いこと甚しかったから、深州刺史より抜擢して深冀節度使とし、その軍を携えさせた。王廷湊は怒り、部将の王位に精兵で牛元翼を攻撃させたが、勝てず、そこで朱克融と合同して共に包囲した。詔して牛元翼を成徳軍節度使に称しさせ、宣武軍の兵五百で援軍を進発させ、牛元翼は堅く守った。長慶二年(822)、詔して王廷湊の罪を赦し、牛元翼を山南東道節度使に遷し、深州を王廷湊に賜い、宦官に牛元翼を促して南に向かわせた。王廷湊は恨み、すでに詔を受けたが、兵は解かなかった。招討使の裴度は書簡を送って難詰すると、朱克融は解囲して帰還し、王廷湊も軍を退かせた。詔して双方を検校工部尚書を加えると、二人とも喜んだ。一か月して、牛元翼は十騎あまりを率いて包囲を突破して徳州・棣州を越え、京師に入朝した。王廷湊は侵入し、牛元翼の親将の臧平ら百八十人のことごとくを殺した。牛元翼は延英殿で謁見し、賜い物は手厚く、中人の楊再昌を派遣して、牛元翼の家族、および田弘正の遺体を引き取らせようとした。王廷湊は言辞を低くして、田弘正の遺体は場所がわからず、牛元翼の家族は秋に送り届ける予定であると述べた。魏博節度使の史憲誠はその弟を派遣して趙に入らせ、四度繰り返して、王廷湊に説いて、「田公は趙に罪を得たわけではないのだから、死体なんぞどうして惜しもうか。牛元翼は深州を去って、ただの一人の孤将にすぎない。どうしてその家で利することがあろう」と言い、王廷湊はそこで田弘正の遺体を京師に返した。牛元翼は臧平らが死んだことを聞いて、怒りのあまり卒し、賜ったところをすべて朝廷に返還した。王廷湊は遂に牛元翼の家族を皆殺しにした。


  傅良弼は、字は安道で、清河の人である。弓をよくすることは軍中に冠たるものがあった。それより以前、瀛州の博野県・楽寿県では、范陽節度使・成徳節度使との間で、戦闘を交えるごとに、まず二城に迫っていたから、そのため常に重要な軍事拠点であった。徳宗は王武俊が朱滔を破った功績によって、すべて成徳軍に属させ、そのため傅良弼に楽寿県を守らせ、李寰に博野県を守らせた。王廷湊が叛くと、両賊はそれぞれ誘い、城壁を堅くして固く守った。詔があって楽寿県を左神策行営とし、傅良弼を都知兵馬使とし、李寰の部下の兵士を右神策軍に所属させ、忻州営と名付け、また李寰を都知兵馬使とした。京師に邸宅を賜った。にわかに傅良弼を沂州刺史とした。傅良弼は軍を率いて出撃し、奮戦し、そのため去ることができた。李寰は兵三千を率いて忻州に走り、王廷湊は迎撃したが、李寰は三百級を斬り、追撃する者はあえて前進しなかった。天子は傅良弼・李寰の忠が確かなものであったから、そこで改めて奴婢・服・馬を賜った。傅良弼を召還して左神策軍将軍とした。宝暦年間(825-827)初頭、夏綏銀節度使に抜擢された。他日、蕃帳の亡命者がやって来ると、亡命者を受け入れた代償として必ず馬を賠償として与えていたが、傅良弼がやって来ると、全員捕らえてその部に引き渡したから、部族は喜び懐いた。横海節度使で終わった。李寰は保義軍節度使に抜擢された。

  王智興李同捷を討伐したが勝てず、烏重胤が卒したから、李寰がともに功績を立てるべきであると言ったから、朝廷に要請して、そこで横海節度使を授けられた。軍が通過した所は掠奪し、軍営に到着すると、軍を留めて進まず、遂に自身は入朝し、盛んに賊の勢いを述べ、増援を要請し、大いに徴発しようとした。群臣は李寰の兵が非常に鈍重で、また滄州・景州を掠奪し、まだ棣州の平定もできていないことを議した。李寰は心の中で恥じて不安となり、京師に留めるよう願い、遂に保義軍節度使・忻州営を罷免され、改めて夏綏宥節度使を授けられ、卒した。

  李寰は二度鎮を変えたが、統治に言うべきものはなかった。しかし王廷湊の乱で、軍十五万を連ねて功績をなさせず、賊の攻撃に取り囲まれず、楽寿県・博野県ははっきりとその中で屹立して年を重ね、その貪欲暴虐さを遮ったことは、議する者は難しいことであるとした。敬宗の世になって、李寰はその事を描いて献上した。


  史孝章は、字は得仁で、性格は謹厳で礼法を守った。父の史憲誠は、戦闘で奮闘し、賓客は引き留めて撃剣を強いて自慢しあったが、史孝章は一人退き譲ることは諸生のようで、称揚するのはすべて『詩』・『書』であった。魏博節度使の李愬が大将の子弟を調べて軍籍に入れたが、史孝章は文官を職に任じるよう求めたから、不思議に思い、試験に招いて都督府参軍に任じた。

  史憲誠が魏博節度使となると、士曹参軍に遷った。史孝章は父がしばしば命令に違っているのを見て、心の中では非としたが、機会をとらえて諌めて、「大河の北は富強を号し、しかし乱を呈して地を取っており、天下は河朔を指して夷狄のようだと言っています。今王侯となって身は侯に封ぜられ、家が富むことははかりしれず、過失を改正し、節をつくしてお上にお仕えするのは心が痛み、我が踵に旋らず禍いがまたやって来るのを恐れるのです」と言い、そこで涙を流して襟を濡らした。父は粗暴で、ことごとく受け入れられなかった。文宗は賢人だと思い、史孝章を節度副使に任じ、累進して検校左散騎常侍に遷った。父は李同捷を助けようと思ったが、史孝章は厳しく諌めたから、史憲誠はしばらくその義を憚った。また出軍して李同捷を討つよう自明に勧めたから、帝はますます喜び、検校工部尚書に昇進した。出兵すると、父は史孝章に命じて軍を指揮させた。入朝し、労われて賜い物はあつかった。史憲誠もまた上書して朝覲を求めたが、帝は史憲誠の意からではないことを知っていたから、特に史孝章によって導き、そのため相州・衛州・澶州を分けて史孝章に授けて節度使とした。まだ到着する前に、魏人が軍乱をおこし、父が軍中で死んだ。帝は史氏の禍を思って史孝章を憐れみ、そのため奪喪(服喪が終わる前に強制的に官に呼び戻されること)して右金吾衛将軍を拝命した。鄜坊節度使に遷り、検校戸部尚書に昇進した。しばらくして、邠寧節度使から病によって帰還を願い、帰還中に卒した。年三十九歳で、尚書右僕射を追贈された。史孝章の本名は史唐で、後に今の名に改めた。


  史憲誠の弟の史憲忠は、字は元貞で、若くして魏の牙門将となった。田弘正が斉・を討伐すると、常に先鋒となって、三十戦もの戦闘を経験し、流矢に当たったが、戦いの真っ最中であったから戦闘を継続し、これによって有名となった。史憲誠の上表によって貝州刺史となった。魏が軍乱となると、京師に奔り、検校右散騎常侍・隴州刺史を加えられた。東屋を増設し、客館を外に移したから、戎の間諜は様子を伺うことができなかった。

  会昌年間(841-846)、三原城を築城し、吐蕃はこれによってしばしば辺境を侵犯した。史憲忠は涇原節度使を拝命し、その侵犯を恐れた。吐蕃は使者を派遣して城の破却を要求し、またかつて使者を殺した者を砦の上に置くことを要請した。史憲忠は「以前、我々に城がなかった時、お前たちは我が地を侵犯した。どうして我が城を禁ずることができようか。お前たちは我々が使者を殺したのを知って責任を負わせようとしているが、まずは罪人を捕らえて我らに謝罪すべきで、できないことはない。今お前たちと約束したのは、前の節度使の事であってすべては関係がない」と拒絶したから、吐蕃はそれが的を得ているを思った。史憲忠は涇河を浚渫して城の堀とし、銭十万緡・粟百万斛を積み、守備兵はよしとした。党項羌で内寇がおこると、また朔方節度使に遷り、駅馬で馳せて屯地に赴くよう詔があったが、史憲忠は辞退して「羌はその心を得られないのは、自ら安穏とできないからです。今しばらく行けば、我々が備えのためであることを知るでしょうから、戦ってますます強健となってしまいます。おもむろに行くことを願います」と言い、許された。そこで書簡を羌人に送って、要約を示した。羌人はそこで皆喜び、牛乳酒を奉って道で出迎えた。

  大中年間(847-860)初頭、突厥が河東を騒がし、漕米と行商人から掠奪したから、振武軍節度使に遷った。前任の節度使は貪欲で、遊弈兵が良馬・良牛を戎が持っているのを発見したから強奪させ、値段は十分の一しか与えなかったから戎人は怒り、そのため掠奪がおこったのである。史憲忠は清廉倹約で、少しも欲することがなく、かつて「私が河朔にいたとき、ここから三千里離れており、五頭の健馬に乗っていた。今辺境を守っていて、私は有り余る俸禄をいただいており、馬がいなくても心配はない。どうして無理やりの売買にたえられようか」といい、そのため至る所で徳を思わない者はいなかった。累進して北海県子に封ぜられ、検校尚書左僕射となり、金吾大将軍を兼任した。病によって辞職を願い、左龍武統軍に改められた。卒した時、年七十一歳で、司空を追贈された。


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最終更新:2024年06月19日 10:06
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