楽従訓 がくじゅうくん
?-888
晩唐の武将。魏博節度使
楽彦禎の子。魏博の牙将であったが、暴虐で前宰相
王鐸が義昌軍節度使に赴任する途中で魏州に立ち寄ると、襲撃して王鐸と家族・部下三百人あまりを殺害・掠奪した。牙軍とは別の私兵「子将」を創設し、軍の怒りを買うと、父より六州指揮使・相州刺史に任じられて魏州より逃れ、相州で軍備を整えたから、文徳元年(888)軍乱となって父は出家を強要され、軍は
趙文㺹を推戴して留後とした。楽従訓が怒って魏州を攻撃すると、
羅弘信が擁立され、
羅弘信と戦うも敗れて戦死し、首は軍門に晒された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年05月17日 09:51