羅弘信 らこうしん
838-898
晩唐の藩鎮(第17代魏博節度使)。字は徳孚。魏州貴郷県の人。騎射に優れ、魏博の裨将となった。文徳元年(888)軍乱によって
楽彦禎・
趙文㺹が相次いで倒されると、軍より推戴され、唐朝より知留後に任じられ、後に正式に魏博節度使、検校司空・同中書門下平章事・予章郡公となった。
朱全忠と対立したが、戦闘で大敗したため、講和した。朱全忠が兗鄆の
朱宣を攻撃すると、
李克用に救援を求め、李克用の軍は魏にたびたび侵入したから怒り、朱全忠の策謀もあって李克用の部将
李瑭を攻撃して破ったが、李克用に相州・魏州を劫略させて、民で死ぬものは十人中九人にものぼった。朱全忠の救援により最終的に李克用の駆逐に成功し、魏博は事実上朱全忠に臣従した。光化元年(898)卒し、子の
羅紹威が襲封した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年08月05日 10:07