趙文㺹 ちょうぶんべん
?-888
晩唐の武将。魏博の牙将。中和二年(882)魏博節度使
韓簡が鄆州の
朱宣を攻撃すると、河陽を守備したが、河陽の人が
諸葛爽を呼び寄せ、趙文㺹と守備兵には厚く礼をしたから魏州に引き返した。文徳元年(888)軍乱がおき、節度使
楽彦禎は出家させられて、軍は趙文㺹を留後に推戴した(第16代魏博節度使)。
楽従訓が相州から軍三万を率いて到着したが、出撃しなかったため、軍に殺害されて
羅弘信が擁立された。
志・列伝
最終更新:2024年08月05日 10:06