巻二百一十 列伝第一百三十五

唐書巻二百一十

列伝第一百三十五

藩鎮魏博

田承嗣 悦 緒 季安 懐諌 縉 史憲誠 何進滔 弘敬 全皥 韓允中 簡 楽彦禎 羅弘信紹威



  安禄山史思明が天下を乱したが、粛宗が大難をほぼ平定するにいたり、君臣は皆平安となり、そのため河北の地を分割し、叛将に授けたが、邪悪を保護することになり、かえって禍根となったのである。乱人はこれに乗じて、遂に官吏を気まま勝手に使い、賦税を私にし、朝廷に謁見しなかった。戦国の世にならい、互いに結びつきを強め、土地を子孫に伝え、百姓を脅し、その頸に鋸引きを加え、利で誘って汚職に背かせ、遂に羌狄のような異民族のような状態を見させるようにさせたのである。一寇が死んでも、さらに一賊が生じ、唐が滅ぶまでの百年あまりまで、ついに王土とはならなかった。

  その最盛期にあたっては、蔡は斉に従って連合し、内は河南の地を分け、合従して天子に抗った。杜牧は「山東は、王者が獲得できなければ王業はならず、霸者が獲得できなれば霸道は得られませんが、狡猾な匪賊でも得られれば、天下を不安にすることが十分にできるのです」と述べた。また次のように述べた。

    「今天下はどうなっているのか。武器の干戈は朽ち果て、刑罰に使う鉞は鈍り、貨幣が混濁しているのを我慢し、反逆の悪人を養育するのは、ほとんど常例となってしまった。しかし政権を担当するお歴々はかつて周思を周密考慮せず、これによって宿謀とし、山や岸を上り下りし、自ら大きく栄えて、自分自身の保身にこしたことがないようにするのである。ああ、なんて物知らずであろうか。つまずき倒れるのを待ってから後に計画しようというのか。また天下にどれくらい村々があって、郡はどれくらいあって、河から以北は、城は数百に蟠踞し、角笛の合図で侵攻してきて、こちら側の人々の困苦を伺い、気象は不利で、そこでその友軍とともに我が民を手足のもとに混乱に陥れようとしている。今は我軍が優勢であるから、奪取を計画しておらず、そこで安逸をぬすみ、後世の子孫の背後を脅かす病根となっている。この上どうすればよいのだろうか。

    議するものは、「屈強な連中に対して、我々は良将と精兵で捕縛し、高位美爵で腹の中を飽食させ、安んじても剛直で屈せず、外面には拘らず、虎狼を養ってその心を払わないかのように、怒りの気持ちを芽生えさせなかった。これが大暦・貞元(766-805)のときに国を守った理由なのである。どうして必ず即戦して我が民に焦土の苦しみを味あわせようか。その後に喜びとすればいいのである」と述べている。

    私は愚かにも以下のように考えています。大暦・貞元(766-805)の間、城は数十、千百の兵士があり、朝廷は法に違えば法令で裁き、そのためここに巨視大言し、自ら一家をたて、制を破って法を削り、領土の一角で尊大に振る舞いました。天子が不問とするので、役人もとがめられません。王侯は爵位を通じて、禄を拝受しています。朝覲するよう招いても来ることはなく、本来老人に与える几杖を賜って助けとしました。逆賊の息子や敵の血統は、皇子が嫁取りしました。地はますます広くなり、兵はますます強くなり、未分不相応なことはますます甚だしく、奢侈の心はますます盛んとなりました。田土や名器は、大半が分割されて、それでも賊夫は心が貪欲で、まだ際にすらいたっておらず、みだりに僭越にも王号を称し、兵を四略に走らせ、その志を飽ますのです。趙・魏・燕・斉は同日に蜂起し、梁・蔡・呉・蜀は後追いしてこれらと和し、その他は混沌として騒擾し、互いに倣おうとしている者は、往々にして承諾しています。尚武の時運に遭遇し、前後の英傑、朝夕たえまない朝議があり、そのため大なる者は族滅され、小なる者は朝廷にやって来たのです。大抵、衆人は自然と物事を欲することが多く、欲して得られなければ怒り、怒れば争乱となって従うのです。これによって家ではむち打ちの体罰とし、国では刑罰となり、天下では征伐となり、その欲を裁いてその争いを塞ぐのです。大暦・貞元の間はこれに背けば、対処法もまちまちであって、果てのない争いを塞ぎ、これによって首尾は体の四股のようで、いくばくも互いに動かすことができないのです。おしなべて今はそうではないことを知らず、かえって常法として用いることは、賊となるものに面会しようとして河北に留めるだけになってしまうのです。ああ、大暦・貞元の国を守った方法は、永く戒めとしなければなりません。」

  魏博は五世を伝え、田弘正になってから入朝し、十年後に再び軍乱となり、四姓を変え、十世に伝え、州は七州を領有した。成徳は二姓を変え、五世に伝え、王承元の時代に入朝したが、翌年王廷湊が叛き、六世に伝え、四州を領有した。盧龍は三姓を変え、五世に伝え、劉総は入朝したが、六月に朱克融が叛き、十二世に伝え、九州を領有した。淄青は五世に伝えて滅び、十二州を領有した。滄景は三世に伝え、程権の時に入朝したが、十六年にして李全がほぼ領有し、その子の李同捷になって滅び、四州を領有した。宣武は四世に伝えて滅び、四州を領有した。彰義は三世に伝えて滅び、三州を領有した。沢潞は三世に伝えて滅び、五州を領有した。

  しかしながら、その由来を辿り、事実には理由があり、地に軽重があるのだから、人が見て謀を隠すことができようか。今、詔によらず兵力を領有した者、もしくは代々継承した者を、「藩鎮伝」とする。田弘正張孝忠らのように、にわかに忠誠を納めて、王室の藩屏となった者は、自ら別伝にした。


  田承嗣は、字は承嗣で、平州盧龍県の人である。代々盧龍軍に仕え、豪傑として有名となった。安禄山の麾下に属し、奚・契丹を破り、功績をあげて武衛将軍となった。安禄山が叛くと、張忠志とともに賊の先鋒となり、河南・洛陽を陥落させた。たまたま大雪となり、安禄山は諸駐屯地に行って査察し、田承嗣の軍営に到着すると、無人であるかのようであったが、すでに完全装備の兵士が整列し、点呼を受けるところであり、一人として欠ける者はいなかった。安禄山はその能力を優れたものとし、潁川を守らせた。

  郭子儀が東都(洛陽)を平定すると、田承嗣は郡とともに降伏したが、突然再度反旗を翻した。安慶緒が鄴に逃亡すると、田承嗣は潁川からやって来て、蔡希徳武令珣とともに兵を合わせて六万となり、安慶緒の勢力は盛り返し、唐軍に抵抗した。一年ほどして、史思明が叛き、田承嗣もまた賊のために道案内をしたが、史朝義が敗れると、ともに莫州を保持した。僕固瑒が北に追撃してくると、田承嗣はさしせまり、そこで史朝義に自ら幽州を救わせた。田承嗣は莫州を守り、賊の妻と息子を捕らえて僕固瑒に降伏し、厚く金帛を贈って僕固瑒と将兵の間の関係を悪くしようとした。僕固瑒は部下が叛乱するのではないかと思い、そこで降伏の受諾を約束した。田承嗣は仮病して出ず、僕固瑒は中に入って略奪しようとしたが、田承嗣は兵士千人に帯刀して並べて備えたから、僕固瑒は思い通りにできず、田承嗣は重ねて賄賂を贈って免れた。そこで張忠志李懐仙薛嵩とともに全員で僕固懐恩に詣でて陳謝し、軍中に加わることを願った。

  朝廷は安禄山史思明の二賊が相次いで叛き、州県は傷つきながらも残り、しばしば大赦し、そこでだいたい賊の係累のために、一切不問とした。当時、僕固懐恩の功績は高く、また賊が平定して任重からざるを恐れ、そこで建白して田承嗣らに河北を分割して率いさせ、鉄券を賜い、殺さないことを誓った。田承嗣は莫州刺史を拝命し、三遷して貝博滄瀛等州節度使、検校太尉に任じられた。

  田承嗣は沈着で賊の心を隠し、礼義を習っていなかった。思い通りになると、そこで戸口を計算し、重税を課し、兵を励まして甲冑を修復し、老弱の者には耕やさせ、壮健な者には軍に属させ、数年もせずに、軍勢十万となった。また素早く力が強い者を一万人選び、牙兵と号し、自ら任命して官吏を置き、版図の税収は、すべて私にした。まさに宰相の兼任を求めると、代宗は戦乱が始めて平定されたから、多く赦免の思いがあり、そこで同中書門下平章事を加えられ、鴈門郡王に封ぜられ、その軍を天雄といい、魏州を大都督府とし、そこで長史を授け、詔して子の田華永楽公主を娶せ、田承嗣の心との結びつきを願った。しかし性格は凶悪かつ欺瞞が多かったから、いよいよ退かなかった。

  大暦八年(773)、相衛の薛嵩が死に、弟の薛㟧が仮の節度使とするよう求めたが、牙将の裴志清が薛㟧を追放し、薛㟧は軍勢とともに田承嗣に帰順した。しかし帝は自ら李承昭を用いて相州刺史とし、まだ到着する前に、田承嗣は人を派遣して役人や兵士を誘って背かせ、表向きは救援すると言って、実は襲撃して奪い取ろうとした。帝は使者を派遣して兵を引くよう諭したが、田承嗣は詔を奉らず、将軍の盧子期を派遣して洺州を奪い、楊光朝は衛州を奪い、刺史の薛雄を脅して叛乱させようとしたが、従わなかったから、その一族を皆殺しと、四州の兵や財産を尽くして帰還し、勝手に刺史を置いた。使者(孫知古)に迫って礠州・相州に行き、劉渾を派遣して従わせようとしたが、密かに従子の田悦に諸将をそそのかして使者のもとに行き、顔面を引き裂いて田承嗣を総帥とするよう願わせ、人はあえて詰め寄ることはなく、ここに賞をあつくして自身に従うよう願わせた。帝はそこで詔を下して田承嗣を永州刺史に貶し、一子のみ従うことを許し、田悦および諸子は皆悪地に追放とした。河東節度使の薛兼訓・成徳軍の李宝臣・幽州の朱滔・昭義軍の李承昭・淄青の李正己・淮西の李忠臣・永平の李勉・汴宋の田神玉ら詔して、兵六万で挟撃させ、もし田承嗣が命を承らなければ、在所での討伐・捕縛を許し、軍法で従わせることとした。その配下の霍栄国は礠州もろとも降伏した。李正己は攻撃して徳州を陥落させ、李忠臣は衛州を攻撃し、偃月壁を河上に築こうとしたが、田承嗣の列将は何度も阻もうとし、数十人が殺されて平定された。帝はまた御史大夫の李涵を派遣して諸節度使を監督させて力をあわせさせた。田承嗣は裴志清らを派遣して冀州を攻撃したが、裴志清は兵とともに成徳軍に従ったから、田承嗣は全軍をあげて裴志清を包囲したが、李宝臣に駆逐され、輜重は放火して貝州に戻り、出ることができなかったから、その配下の郝光朝を派遣して上表文を奉って身を朝廷に委ねた。その一方で田悦と盧子期に一万人で礠州を攻撃させようと、東山に駐屯させた。宣慰使の韓朝彩らは固守し、薛兼訓は一万騎で西山に駐屯し、成徳軍・幽州はそれぞれ兵を派遣して礠州を救援した。その時、田承昭は神策軍の射手を後続として軍を進めさせ、河東に砦を築いた。諸軍は進軍し、しばしば功があり、極めて報奨を気にしたから、天子は宦官をして多く御服・良馬・黄白金を万を計えるほどもたらし、人をして功績を帳簿に記録して大宴会した。諸軍はやや怠けるようになって、李正己・李宝臣の二軍は棗彊で合流し、互いに相見した。李正己の軍はたちまち引き上げ、李忠臣はそこで偃月壁を放棄し、河を渡って陽武に駐屯した。李承昭は成徳・幽州の兵に東山を迂回させて盧子期の軍を襲撃させ、自らは壁を閉じて賊をほしいままにした。盧子期は歩兵と騎兵一万人を分けて李承昭の立てこもっているのを包囲し、兵四千で高所からの指揮に乗じて進撃させた。河東の将の劉文英・辛忠臣らは決戦し、成徳軍・幽州の兵は盧子期軍の背後に出て取り巻き、ここに包囲は解けた。さらに高原に陣どり、諸将と李承昭は挟撃し、大いに臨水で戦い、賊は敗北し、死体は数里に入り乱れ、斬首九千級、馬千匹で、盧子期および将兵二千三百人を捕虜とし、軍旗・甲冑・軍楽器二十万を鹵獲した。諸軍は勝利に乗じて進み、礠州から十里で、日が暮れたため野営した。李承昭は松明を掲げて、韓朝彩は精兵を出して突貫して魏軍の陣営に迫り、斬首五百となり、田悦は驚き、敗残兵を率いて夜に逃げ、ことごとく旗・陣幕・甲冑・武器五千乗を放棄した。成徳軍の将の王武俊は盧子期を李宝臣のもとに送り、李宝臣は洺州を攻撃しようとし、そこで盧子期を城下に示して降伏させた。また瀛州にも示して、瀛州もまた降伏した。兵一万人、粟二十万石を得て、盧子期を京師に献じて斬った。

  天子は宦官を派遣して李宝臣を労ったが、その宦官が礼をなさなかったから、李宝臣はそこで二心を抱き、かえって朱滔を攻め、田承嗣と和睦し、田承嗣は李宝臣に滄州を与えた。李正己はまた天子に田承嗣の入朝を許されるよう願った。大暦十一年(776)、帝は諌議大夫の杜亜を持節して派遣し、魏に到着すると降伏を受け入れ、門を閉ざして京師に帰ることを許し、赦魏博が所管するところ改めて一新して始めた。田承嗣は逗留するもやって来なかった。その秋、再び滑州を略奪し、李勉の兵に敗れた。たまたま李霊耀が汴州で叛くと、李忠臣・李勉・河陽の馬燧に詔して合同で討伐させた。李霊耀は魏に救援を求め、田承嗣は田悦に将兵三万を率いて救援し、李勉の将杜如江・李正己の将の尹伯良が合同で攻撃したが、死者は半分にも達し、勝利に乗じて汴北郛に駐屯し、李霊耀と合流した。馬燧・李忠臣は反攻に転じ、これを破って、田悦は身をもって逃れ、斬首・捕虜数万となった。李霊耀は東に敗走し、田承嗣に帰属しようと図ったが、杜如江に捕虜とさせられ、魏将の常準とあわせて京師に献上した。翌年、田承嗣は上書して罪を請い、詔して官爵を復し、子弟は全員もとの官とし、また鉄券を賜った。

  田承嗣は貝州・博州・魏州・衛州・相州・礠州・洺州の七州を攻撃し、未だかつて天子に北面して臣と処したことはなかった。おしなべて軍を採光し、たまたま国威が発揚して奪われると、窮乏して再び従い、そのため田承嗣は気まま勝手に悪事を行い、恐れなどなかった。大暦十四年(779)死んだ。年七十五歳、太保を追贈された。


  田悦は、早くに父を失い、母は平盧軍の守兵に再嫁し、田悦は母に従って淄州・青州の間を転々とした。田承嗣が魏を得ると、訪ねて面会することができた。その時十三歳であったが、拝伏すると礼儀にかない、田承嗣は優れていると思い、試しに号令させてみると、采配はすべて田承嗣の意にかなった。成長すると、勇敢で戦いに優れることは全軍に冠たるものがあり、賊は忍んで偽ろうとし、外は行義を飾り、財を軽んじて施しをあつくし、名声に鉤たから、人々はすべて従った。田承嗣はその才能を愛し、死ぬ間際に、幼い子どもたちを顧みて、そこで田悦に命じて知節度事とし、子どもたちに補佐をさせた。帝はそこで田悦に詔して中軍兵馬使・府左司馬から留後に抜擢し、にわかに検校工部尚書となり、節度使となった。

  田悦は始め賢才を招致し、館を開いて、天下の士に礼儀をつくし、外は恭順を示し、心の中ではその悪事を助けた。帝は晩年非常に寛大となって緩みきり、田悦が奏請するところは従わないことはなかった。徳宗が即位すると、方鎮に遠慮せず、諸将はしばらく休息した。当時、黜陟使の洪経綸が河北にやって来て、田悦が兵士七万を養っているのを聞き、たちまち官符を下して四万を兵士の職から解任して田畑に帰させることとした。田悦はただちに命を奉り、そこで大いに将兵を集め、好言によって演説して「諸君らは軍中に籍を置いてから久しいものがあるが、絹や兵糧で父母妻子を養ってきた。今辞めてしまっては、どうやって生活していこうか」と言い、軍衆は大いに泣いた。田悦はそこでことごとく家の財貨を出して給付し、それぞれを故郷に帰らせた。これより魏の人は田悦を徳とした。

  劉晏が死ぬと、藩鎮の総帥らはますます恐れ、帝がまた東は泰山に封禅すると伝え聞き、李勉は遂に汴州に城塞を築いた。しかし李正己は恐れ、兵一万人を率いて曹州に駐屯し、そこで人を派遣して田悦に対して同じく叛こうと説いた。田悦は梁崇義らとともに兵を連ねて阻もうと和し、王侑扈萼許士則を腹心とした。邢曹俊孟希祐康愔を爪牙将とした。建中二年(781)、鎮州の李惟岳・淄青の李納が節度使を襲封するのを求めたが、許されず、田悦は彼らのために願い出たが、返答はなく、遂に謀をあわせて同じく叛いた。于邵令狐峘らが上表して仏教を選り分けようとし、田悦はそこで軍に偽って「詔があって軍の老人・病人・虚弱者を調査するのだ」と言い、これによって全軍は恨みに思った。田悦は李納と濮陽で会見し、李納は兵を分けて田悦を助けた。

  たまたま幽州の朱滔らが詔を奉って李惟岳を討伐すると、田悦はそこで孟希祐を派遣し兵五千で李惟岳を助けた。別に康愔を派遣して兵八千で邢州を攻撃した。楊朝光は兵五千で盧疃に立て籠もり、昭義軍の糧道を途絶させた。田悦は自ら将兵数万を率いて後詰し、また楊朝光に洺将の張伾を攻撃させた。張伾は堅く防衛したが、食料は尽き、賞与とする物が不足した。そこで愛娘を飾りたてて軍に示し、「兵糧庫は枯渇してしまった。願わくばこの娘で賞与に代えてほしい」と言い、兵士は感泣し、死戦を願い、大いに田悦軍を破った。河東の馬燧・河陽の李芃と昭義軍に張伾を救援するよう詔があった。三節度使は狗・明の二山の間に行ったが、また進軍しなかった。張伾は救援を求め、紙で風鳶(凧)をつくり、高さ百丈(300m)あまり、田悦の軍営の上を通過し、田悦は弓をよくする者に射させたが、届かなかった。馬燧の軍営では騒ぎながら迎えると、「三日で解囲しなければ、臨洺の兵士は田悦のために食べられるだろう」と書かれていた。馬燧は壺関鼓より東進し、盧疃を破り、双岡で戦い、賊の大将の盧子昌を捕虜として楊朝光を殺し、田悦は撤退して洹水を保全した。

  ここに邢曹俊が貝州刺史となったが、田承嗣の時からの旧将で、智謀の人であった。田悦は思い通りにできず、召してどのように行動すべきか計画を尋ねた。「兵法では十倍ならば攻撃しますが、今公は逆によって順に背いています、勢いは敵いません。兵一万人を留めて𡻳口に駐屯して西の軍を遮るのなら、河北二十四州をあげて公の命ずるところとなりましょう。今臨洺を攻めて、兵糧がつきて兵士が命を落としています。それを可とすべきではありません」と答えたが、田悦は扈萼孟希祐らと昵懇であって全員が譏ってこれを悪しざまに言ったから、そのため田悦はその進言を聴かなかった。馬燧らは田悦の軍から三十里を隔てて、砦を築いて睨み合いをした。田悦は李納と兵を合わせて三万で、洹水に陣取った。馬燧は神策の将の李晟を率いて田悦を挟撃し、田悦は大敗し、戦死・負傷は二万ばかり、壮騎数十騎を率いて夜に魏に逃走したが、その将の李長春は関を閉じて入れず、官軍を待った。しかし三軍はにわかに進撃せず、翌日、田悦は関に入り、李長春を殺し、佩刀を持って軍門に立ち、涙を流して「この悦は伯父の余業をかりて、君らと同じく苦楽をともにした。今敗れてこうなり、どうすることもできない。しかしながら悦が長らく天子の討伐を拒んできたのは、特に淄青・恒冀の子弟が襲封することができず、私はそれに答えることができなかった。そこで兵を用いることになったのだが、兵士や民を塗炭の苦しみをなめさせることになった。悦は老いた母を置いては逆縁になってしまうから自剄することができない。願わくば君らが悦の首を斬って富貴を取られんことを。どうしてともに死ぬことがあろうか」と言って、自ら地に体を投げ出した。軍は憐れみ、皆抱きかかえて、「今、兵馬の部隊は、なおも一戦すべきです。事を脱するのも助からないのも、死生はこの一戦にあるのです」と言い、田悦は涙を拭って「諸公は悦の敗北を問題にせず、存亡を同じくすると誓ってくれた。たとえこの身が地下に先んじようとも、敢えて厚意を忘れることがあろうか」と言い、そこで断髪して誓いとし、将兵もまた断髪して、約して兄弟となった。そこで富豪や豪族の財産および府庫のある限りを用いて、大いに賞与を行った。しかし李再春およびその子の李瑤は博州とともに降伏し、田悦の従兄の田昂は洺州とともに降伏し、馬燧らは降伏を受け入れ、田悦は田昂らの家族を皆殺しにした。田悦は自ら兵や武器を視察したが不足しており、軍は極限まで消耗し、恐れてどうしていいかわからなかったから、再び邢曹俊とともに謀した。邢曹俊は軍を整え、砦を修復して士気を回復し、全員の心は再び堅固となったが、その後十日あまりして、馬燧らが進軍を始めて城下に迫った。

  しばらくもしないうちに、王武俊李惟岳を殺し、深州は朱滔に降伏し、朱滔は兵を分けて守備した。天子は王武俊に恒州刺史を授け、康日知を深・趙二州観察使とした。王武俊は褒賞が薄いことを恨み、朱滔は深州を得られなかったことを恨んだから、田悦は二将に不満があると思い、そこで間道を通って王侑許士則を派遣して朱滔に説いて、「司徒は詔を奉って賊を討伐し、十日もたたずに、束鹿を陥落させて、深州を降伏させ、李惟岳は勢力を弱めたので、そのため王大夫は逆賊の首を得られたのです。聞くところによると、幽州から出発された日に、詔があって、李惟岳を破った者はその地を得て、麾下を隷属させることになっていたとのことですが、今深州は康日知に与えられており、これは朝廷が公を信用していないからです。また、お上は英武独断で、秦の始皇帝・漢の武帝の風があり、将軍を誅殺して豪族を滅ぼし、河朔を掃除して、父から子に襲封させません。また功臣の劉晏らは全員相次いで破滅し、梁崇義を殺し、その人々三百人あまりを誅殺して、漢江を血塗らせました。今日魏を破り、そこで燕・趙を取って車を下馬させるだけになったのです。魏博が全うすれば燕・趙は安ずるので、我が州の尚書は必ずや死を以て徳に報います。また合従連衡し、災いを救えば、不朽の業です。尚書の願いは貝州を上って湯沐を広くし、王侑らをして帳簿出納の官吏とし、司徒は朝は魏州にやって来て夕には貝州に入るのです。熟考してお計らいください」と述べた。朱滔は心底では最初から貝州を得たいと思っていたから、大いに喜び、王侑に先ず帰らせて出兵の時期を告げさせた。

  これより先、王武俊に詔して恒冀の粟三十万を出して朱滔に賜り、使者が幽州から帰還すると、突騎五百を馬燧の軍の援軍とさせた。王武俊は田悦が敗れるのを恐れ、軍をおこして北伐しようとしたが、粟・馬を帰させるのをよしとしなかった。朱滔はそこで王郅を派遣して王武俊に説いて、「天子は君が戦いをよくするから、天下に前となる者がおらず、だから粟・馬を分散して君の軍を弱くしているのだ。今もし魏博が挙兵し、王師が北に向えば、漳水・滏水の勢いは危うい。本当に軍営を連ねて軍旗を南にすれば、田悦の軍事上の重大事を解くことになり、大夫の利なのです。どうして特に粟を倉から出さず、馬を厩から離さず、また危険を排するようなことがあれば、名声が天下に満ちるのでしょうか。大夫は自ら逆賊の首をうち、血は衣袖に濡らしましたが、康日知は趙城から出ず、何の国に功績があって二州を兼任して居座っているのでしょうか。河北の兵士は深州を得られなかったのは大夫の恥であるとしています」と延べ、王武俊は深州を得たかったから、また喜び、即日使者を派遣して朱滔に返答した。

  ここに朱滔は兵二万を率いて寧晋に駐屯し、王武俊は兵一万五千を率いて会同した。田悦は救援が到着するのを頼みとし、康愔に兵を率いて王師と御河上で戦わせたが、大敗し、甲冑を脱ぎ捨てて城に逃走した。田悦は怒り、閉門して中に入れなかったから、踏み合って塹壕内で死ぬ者が非常に多かった。その夏、朱滔・王武俊の軍が到着し、田悦は牛酒を用意して迎えて労った。馬燧らは魏河の西に駐屯し、王武俊・朱滔・田悦は河東に立て籠もり、楼櫓を営中に立て、両軍は互いに睨み合い、秋から冬になった。馬燧は李晟に兵三千で派遣し、邢州・趙州より張孝忠と合同で涿・莫の二州を攻撃し、幽州・薊州の道を途絶させた。

  田悦は朱滔を徳とし、推して盟主として臣従しようとした。朱滔はあえて当たらず、そこで議して七国の故事のようにした。田悦は国号を魏とし、魏王を僭称し、府を大名府とし、子を任じて府留後とした。扈萼を留守とし、許士則を司武、曾穆を司文、裴抗を司礼、封演を司刑とし、あわせて侍郎とした。劉士素を内史舎人とし、張瑜・孫光佐を給事中とし、邢曹俊孟希祐を左右僕射とし、田晁・高緬を征西節度使とし、蔡済薛有倫を虎牙将軍とし、高崇を節知軍前兵馬とし、夏侯赬を兵馬使とした。田晁は兵数千で李納を助けて鄆州を守った。翌年夏、朱滔は河間に駐屯し、留大将の馬寔は兵一万人で魏を守備した。たまたま朱泚の乱がおき、帝は奉天に脱出し、馬燧は太原に帰還したから、王武俊らは全員免れ、田悦は餞とし、厚く王武俊・馬寔に派遣し、属官らは全員贈り物があった。

  興元元年(784)、朱滔は自ら兵を率いて欲南は河を渡って朱泚を助けようと思い、王郅に田悦に会見させて計画を伝えて、「この頃大王は重囲にあって、孤(わたし)は趙(王武俊)とともに期限を定めて王難に赴いて魏州・貝州を保全しています。今、秦帝(朱泚)はすでに関中によっており、孤は歩兵・騎兵十万で回紇とともに東都に急派して秦帝と接しなければなりませんから、王はよく孤を従えて河を渡り、勢力を合わせて大梁を取り、孤は西を得て鞏州・陝州を収め、秦兵と会同すれば、天下は定まるでしょう。そこで王は趙王(王武俊)と永く南に心配りすることなく、唇と歯の間柄の国となりますよう、速やかにお考えくだされば幸いです」と言った。この時、田悦は天子がすでに赦し、官爵を復したから、心の中では実行したくないと思っており、重ねて朱滔と絶縁したいと思っていたが、表向きは薛有倫を派遣して朱滔に約束のようにすると回答していた。朱滔は大いに喜び、再び舎人の李琯をして言うところを繰り返し強く主張したが、田悦は決断を降さなかったから、許士則は諌めて、「冀王(朱滔)は勇敢かつ果断で謀略があり、一代の雄なのです。李懐仙を殺し、朱希彩を屠り、兄を誘って京師に行かせてその権を奪い、恩ある者を殺し、同じく謀る者を滅ぼし、彼の腹の中はどうして図ることができましょうか。今大王が親しいことは朱泚ほどではなく、勇は李懐仙・朱希彩ほどではないのに、恩情はやまず、匹夫の義に拘束され、外に出て見れば、まるで禽獣を見るかのようです。彼が魏博を得て、北は幽薊と連なり、南は梁・鄭に入って、朱泚と連合することは、筋道が通っています。大王は心を偽って出迎えを許すにこしたことがなく、州県に派遣して牛酒を備え、やって来れば事態によって自ら弁解することになります。恩を顧みて禍いを取ってはなりません」と述べたから、田悦はその通りだと思った。これより以前、王武俊が密かに田悦と盟約して朱滔に叛き、使者は互いに望遠していた。朱滔が田悦を西に派遣しようとしていると聞くと、田秀に田悦を説得させて「大王が朱滔に従って河を渡ろうとしていると聞きましたが、朱泚のために挟撃することはよくありません。朱泚が京師をとろうとする前、朱滔は列国にあって、また自ら高く、東都を得るかのようで、朱泚とともに禍いを連ね、兵は多く勢いを張っているのは、返って小僧を制するというのでしょうか。今日天子は官を復して罪を赦しているのは王臣であって、どうして天子を棄てて朱滔・朱泚に北面して臣と称するのでしょうか。願わくば大王よ、砦の門を閉ざして出ず、王武俊が昭義軍を来るのを待ってから出て、王のためにこれを討伐します」と述べ、田悦はそこで田秀を帰還させ、詳細にその謀を言わせて、曾穆を派遣して朱滔に報告した。朱滔は喜び、河間より全軍で南進し、貝州を越えて、清河に行、人を派遣して田悦に知らせたが、田悦はやって来なかった。進軍して永済に駐屯し、王郅らを派遣して督促して、「王は館陶を出て大王と会同すると約束し、そこで河を渡りました」と述べたが、田悦はしばらくしてから、「始めは王に従うと約束したが、今は軍がこぞって悦に向かって、「魏はこの頃侵略に苦しみ、供給は欠乏している」と言っており、そのため悦は毎日慰撫しており、なお人がまた間隙を利用する恐れがあるからで、一日城邑を去って、朝に出て夕に変事がおこれば、またどうして帰ることができようか。そうでなければ悦はあえて約束に背くことはない。今、孟希祐を派遣して全軍五千で王を助けよう」と言い、そこで部下の裴抗盧南史を派遣して命を返答した。朱滔は怒って、「裏切り者どもが先日救援を求めてきたとき、私に貝州の領有を許したが、私は取らなかった。私を尊んで天子にしようとしたが、私はともに同じく王となった。私に遠来であると教えているのに出撃しない。この賊を撃たなければ、なお何を殺すというのだろうか」と罵り、そこで裴抗らを捕らえ、馬寔に数県を取らせると、裴抗を釈放して帰した。田悦の兵はあえて出撃せず、遂に貝州を囲んだ。朱滔は武城を奪取し、徳州・棣州を打通し、兵糧を供給し、ことごとく諸県の官吏を捕らえ、ただ清陽のみは降らず、朱滔はこれを包囲した。馬寔は清平を陥落させて、五百人を殺し、男女を捕らえて財貨とともに去った。

  ここに李抱真王武俊は出兵して魏を救援すると約束した。その時、詔があって田悦を検校尚書右僕射に拝命し、済陽郡王に封じ、給事中の孔巣父に持節して慰労させた。始め田悦は兵を阻むことおよそ四年、暴虐専横にして謀が乏しく、しばしば戦うも敗北し、死者は十人中八人に及び、兵士は苦しみ、戦争を忌諱した。孔巣父が到着すると、喜ばないことはなかった。田悦と孔巣父が帷幄を設けて酒を飲み、門や階はすべて護衛を撤廃した。夜分になると、従弟の田緒が族人と密かに語らって、「僕射はみだりに兵をおこし、何度も我が一族を辱めてきた。金帛を天下にあつくしても、兄弟にはよこさないのだ」と言い、ある者が諌止すると、田緒は怒って、諌めた者を殺し、そこで左右の者とともに垣根を越えて侵入した。田悦は酔って寝ていた。田緒は刃を引っ提げて堂に登り、二人の弟が諌止したが、田緒はこれも斬り、そして手づから田悦を刺し、あわせてその母と妻も殺した。田悦が死んだとき、年三十四歳であった。明け方、田悦の命令として許士則蔡済に大事を協議すると呼び寄せ、やって来ると殺した。劉忠信なる者が、田悦が常に田緒から防がせるため寝門に宿直していたが、田緒が「劉忠信が僕射を刺して、扈萼とともに叛いた」と叫び、軍は劉忠信を捕らえたが、「そんなことあるか」と語っていたが、四股を分裂されて絶命した。


  田緒は、字も緒で、田承嗣の第六子である。田悦は諸弟を待遇して悪くすることなく、田緒に牙軍を指揮させたが、凶悪で過失が多かったから、かつて笞打った。田悦は飲食や衣服に関しては、節約して節度があったが、田緒は常に足りないと苦しみ、かなり恨みを抱いており、そのため変事をおこした。田悦が死ぬと、軍が従わないのを恐れており、数百将が出奔したが、邢曹俊が軍を率いて追跡して帰還させた。田緒はそこで軍中に下令して、「私は先王の子である。私を立てることができるものには賞を与えよう」と言ったから、軍はそこで共に田緒を推して留後とし、罪を扈萼を帰して、その首を斬って全軍に布告した。また田悦に信頼されていた薛有倫ら数十人を殺し、因孔巣父は使者を派遣して天子に報告した。

  朱滔田悦が死んだのを聞き、兵五千で馬寔軍と合流し、魏州に進攻した。馬寔は王莽河(黄河から濮陽までの古道)に迫って立て籠もり、南は河を隔て、東は博州にあたり、殺戮すること非常に多かった。人を派遣して魏に入って田緒に降伏するよう誘った。田緒は簒奪したばかりで、馬寔の包囲が急なことであったから、そこで使者を派遣して甘言によって朱滔に会見しようとし、朱滔は盟約することを許した。曾穆は田緒に朱滔と絶縁して、田緒の部下を分けて定め、そこで城に乗じて戦うよう勧めた。王武俊李抱真はそれぞれ田悦の時のように修好した。詔して田緒は節度使を拝命した。馬寔は魏州を包囲すること三ヶ月に及び、朱滔は敗走した。

  貞元元年(785)、嘉誠公主を田緒に降嫁させ、田緒は駙馬都尉を拝命した。李希烈が平定されると、功によって一子に八品官を賜った。田緒は猜疑心のため、兄弟や妻の姉妹数人を殺した。

  兄の田朝は、李納に仕えて斉州刺史となった。ある者が李納に田朝を魏に入れて田緒の代わりとするよう進言したが、田緒は李納にあつく賄賂を送り、また田朝を召寄せたが、田朝は死ぬことになるからと行かないよう願った。そこで田朝を京師に送還したが、滑州を通過すると、田緒は奪い取ろうとし、賈耽が兵で助けて護衛したから、死を免れた。

  累進して検校尚書左僕射・常山郡王となり、また鴈門王に移封され、実封五百戸となり、同中書門下平章事を加えられた。突然病により死に、年三十三歳であった。司空を追贈された。幼子の田季安が継承した。


  田季安は、字は夔である。母は卑賤で、公主は命じて自分の子としたから、寵は他の兄に勝った。数年して左衛冑曹参軍・節度副使となった。田緒が死んだ時十五歳で、喪を秘匿して変事がおこるか観察したが、軍中は推して留後とし、そこで節度使を授けられた。喪があけると、検校尚書右僕射を加えられ、位は検校司空に進み、にわかに同中書門下平章事となった。田季安は公主の厳しさを恐れ、非常に礼法に従った。公主が薨去すると、始めて自らほしいままにし、鞠を打ち、酒色にふけり、軍中の政務は思いのままに行い、官吏や部下が進言や諌言しても受け入れなかった。

  当時、中尉の吐突承璀に詔して神策軍の兵をもって王承宗を討伐し、田季安は謀って「王師は河を越えることなく今まで二十五年がたったが、今魏を越えて趙を討伐するなら、趙は本当に捕らえられ、魏もまた捕らえられるであろう。どうか」といい、ある者が五千騎で君の憂いとなるものを除こうと決した。田季安は「よろしい。軍を阻む者は斬る」と言った。当時、幽州の劉済の将の譚忠は魏に派遣され、これを聞いて、田季安に入見して、「往年、王師は蜀や呉を取り、数えるのに一つも失うことがありませんでしたが、これは宰相の謀です。今、趙を討伐しようとしていますが、老臣・宿将ではなく宦官に行わせようとしており、天下の兵ではなく関中の兵をおこしていますが、あなたは誰がこの謀をしているか知っていますか。これはお上が自ら謀をなしており、計略をひけらかして臣下の心を服しようとしているのです。もし軍が趙を叩けなければ、まず魏を打ち砕き、これは上策の謀が下策におよばなくても、世間に恥じることがないのです。既に恥じ、また怒るようなことになれば、必ず智者の計画に任せ、猛将に率いさせ、再び河を渡る挙に出るでしょう。以前の失敗を鑑みるなら、必ず魏を越えずに趙を攻撃するでしょう。罪の軽重を考えるなら、必ず先に趙を攻撃して後で魏を攻撃することはないでしょう。これは、上策は上ではなく、下策は下ではなく、ただちに魏に来襲するでしょう」と述べた。田季安は「どんな計略をすればよいか」と尋ねると、譚忠は、「王師が魏に入ったなら、あなたはあつく労ってください。全軍で趙を討伐するなら、密かに趙に書簡を送って、〝魏がもし趙を討伐するなら、友を売ることになります。魏がもし趙とともにあるのなら、お上に叛くことになります。友を売ったりお上に叛くことは、魏は受けるに忍びないのです。事にあたって城塞の警備を緩め、一城をよこして、魏がこれを得て天子に勝利を報告して証拠とするなら、魏の北部を趙に奉ることができ、長安に対しては臣と称することができ、こちらにとっても非凡の利となるのです〟と述べたなら、趙はお上を拒まず、そこで魏も安泰なのです」と言い、田季安はそうだと思い、大将を派遣して兵を率いて王師と会同して王承宗を討伐し、兵糧は自弁し、堂陽を奪って報告したから、太子太保を加えられた。丘絳なる者がおり、父田緒の時に側近となったが、同府の侯臧と権力を争い、田季安は怒って、斥けて下県の尉としたが、にわかに召還し、先んじて道の横に穴を掘り、やって来ると生きたまま丘絳を埋めた。残忍冷酷で恐れ知らずであることは、大抵このようであった。死んだ時、年三十二歳で、太尉を追贈された。

  妻は元誼の娘で、諸将を召集してその子の田懐諌を立てたが、非常に幼く、政務を行うことができず、政務は私奴の蒋士則が決済していたが、しばしば簡単に諸将の配置換えを行ったから、軍中は怒り、田興を留後とした。これが所謂田弘正なる者で、田懐諌を邸宅に帰し、蒋士則ら十人あまりを殺した。田季安の葬儀を行うと、田懐諌を京師に送り、右監門衛将軍を授けられ、恩寵があつかった。

  田緒の弟の田縉田華は朝廷で顕官となった。

  田縉は、字は雲長で、貞元十年(794)入朝し、左驍衛将軍を授けられ、扶風郡公に封ぜられた。元和年間(806-820)、夏綏銀節度使を拝命した。開元年間(713-741)に初めて、宥州を設置して、掠奪の道を抑えたが、長らく廃されており、田縉は再び城郭を築いた。王師が蔡を討伐すると、田縉は橐它(ラクダ)・牛馬を献上して軍を助けた。吐蕃が豊州に侵攻すると、田縉は伏兵を設けてその帰路を迎撃し、捕虜や斬殺した者は過半となった。京師に入って左衛大将軍となり、李聴がこれに代った。李聴は田縉が軍糧四万斛を盗み、羌人の羊馬を強奪し、そのため吐蕃が隙に乗じることができたと弾劾した。衡王傅に貶された。にわかに吐蕃がまた塩州を攻めると、房州司馬に貶された。長慶年間(821-825)初頭、左領軍衛将軍で終わった。

  田華は、太常少卿で、永楽公主新都公主の二公主を娶った。

  田氏は田承嗣から田懐諌まで四世、およそ四十九年であった。


  史憲誠は、その先祖は奚の人であり、内地の霊武に移り、建康の人となった。三代にわたって魏博の将に任命され、祖父と父の爵位は王であった。史憲誠は始め勇敢で敏捷であったから父の軍に従い、田弘正李師道を討伐すると、先鋒の兵四千を率いて渡河し、城柵を陥落させ、軍は相次いで進み、勝利に乗じて敵を北に駆逐し、鄆の城下に迫った。李師道の首がもたらされると、功績によって御史中丞を兼任した。

  長慶二年(822)、田布が自殺すると、軍乱となり騒動となった。当時、史憲誠は中軍兵馬使であり、頻繁に河朔の旧事(河朔三鎮が自立・世襲状態にあること)を述べてその軍を動揺させ、軍はそこで府に戻るよう迫り、ほしいままに軍務を総べた。穆宗は朱克融王廷湊が幽州・鎮州を盗み、未だに制することができず、そこで節度使を史憲誠に授けた。史憲誠は、表向きは謝罪して王命に従う素振りを見せ、密かに幽州・鎮州と結託し、そのようにして自身を防衛した。

  当時、李㝏が叛乱しており、密かに通交し、しばしば信物を請うのを助け、馬頭に城を築き、舟を黎陽に繋ぎ、まさに軍で助けようと示した。たまたま天子が司門郎中の韋文恪を派遣して宣慰しており、史憲誠は使者に引見するとふるまいが傲慢であり、言葉も傲岸不遜であった。にわかに李㝏が斬られたことを聞いて、態度を恭謹に改めて韋文恪に向かって、「私はもともと奚であって、犬のようなものだ。ただ主を知っているだけで、毎日鞭打たれても離れるのに忍びないのだ」と言い、その偽りや狡猾さはこのようであった。検校司空に昇進した。

  李全略と通婚し、大和年間(827-835)、その子李同捷が叛くと、密かに兵糧を支援した。文宗は重ねて盟約を結ぶよう申し伝え、使者は互いに行き来し、そこで同中書門下平章事に昇進した。史憲誠は大将を派遣して京師を偵察させ、放言して自大にみせたが、宰相の韋処厚はその偽りを論破し、帰らせた。史憲誠は恐れ、兵を出して王師に従って李同捷を討伐し、また大将の丌志沼に軍二万を率いて徳州を攻めた。当時、王廷湊李同捷を助け、密かに丌志沼に利を以て誘った。丌志沼は叛くと、永済に駐屯し、兵は非常に精鋭で、諸鎮は共に防御した。史憲誠は急を告げ、天子は義武軍節度使の李聴に詔して討伐のため進軍させた。ここに丌志沼は王廷湊とともに兵を合わせて貝州を掠奪したが、李聴のために敗北し、王廷湊は逃走した。滄景が平定されると、史憲誠は不安となり、地の奉還を請い、検校司徒兼侍中に昇進し、河中節度使に遷り、千乗郡公に封ぜられ、魏博節度使は李聴に代わった。

  それより以前、史憲誠は一族を引き連れて行こうとしたが、魏軍に留められるのを恐れ、策を弟の史憲忠に尋ね、史憲忠は相州・衛州に分割し、軍の長を置くことを願い、それによって魏を弱めようとした。また李聴に詔して、表向きは丌志沼攻撃のため清川を通過するものとするよう願い、帝は従った。史憲誠はそこで李聴に従って魏を去ろうとし、李聴が清河に行くと、魏人は驚いたから、史憲忠は、「彼は道を通過して賊を討とうとしており、我が軍は朝廷に負うことはない。どうして恐れるのか」といい、そこでしばらく安心した。しかし魏軍は最初から兵を清河に集めており、李聴が到着すると、全兵士が出て、まさに魏に入ろうとしたから、魏軍はこれを聞いて恐れ、翌日全軍が出撃した。李聴は軍を館陶に停止させて進まなかった。軍は史憲誠が自分たちを売ったのだとして、「我らを騙して恩を売るのか」と言い、夜に攻撃して史憲誠と監軍の史良佐を殺し、何進滔を推して帥とするよう願った。詔して史憲誠に太尉を追贈した。実に大和三年(829)のことであった。史憲誠がたっておよそ七年で死んだ。


  何進滔は、霊武の人であり、代々霊武軍の将校となった。若くして魏に客人となり、委ねられて軍中をただし、田弘正に仕えた。田弘正王承宗を攻めると、夜に兵で鎮州を圧した。王承宗は猛将に鉄で顔を覆わせ、精鋭の騎兵千人あまりを率いて魏の陣地に向かわせた。何進滔は猛士を率いて追い払い、何人かを捕虜としたから、鎮州の人々は大いに恐れた。李師道の討伐に従い、軍功によって侍御史を兼任した。史憲誠が死ぬと、軍中が大声で叫んで「何公が節度使となって仕えることができれば、軍は安泰だ」と伝えたから、何進滔は下令して「君らが私に迫ったのだから、私の命令を聞け」と言い、軍は言うがままに承諾した。「誰が前の節度使と監軍を殺したのか、明らかにしてここに引き出せ」と言い、およそ九十人あまりを斬ったから、脅しを解いて従わせた。素服(喪服)で哭礼を行い、将や吏の全員に弔いに入らせた。詔して留後を拝命し、にわかに昇進して節度使を拝命した。魏にいること十年あまり、民は安穏とした。累進して検校司徒・同中書門下平章事となった。開成五年(840)死ぬと、太傅を追贈され、諡を定という。

  子の何重順が襲封した。武宗は河陽の李執方・滄州の劉約に詔して、京師に朝覲し、また地を割譲してみずから誠をつくすよう諭させたが、命令を聞かなかった。当時、帝は新たに即位したばかりで、重ねて兵を起こそうとし、そこで福王李綰に節度大使を授け、何重順を副とし、名を何弘敬と賜った。帝は劉稹を討伐すると、東面招討使を加えた。何弘敬は劉稹によって互いに脣と歯の間柄であったから、深入りする気持ちはなく、そこで母に仕えて孝であることを称えて、軍に久しくあって、すみやかに戦うよう詔した。何弘敬はまた平然たるものがあった。王宰が乾河を越えて沢州を攻撃すると、天子は劉稹が山東の兵をおこすのではないかと心配し、何弘敬に命じて呼応してその道を塞がせようとしたが、詔を奉らなかった。王元逵が邢州で勝利し、上党を攻撃すると、何弘敬はやむを得ず、そこで軍を出兵させた。しばらくもしないうちに、王宰が陳州・許州の兵を率いて道を借りて磁州を手中に入れたから、何弘敬は恐れて、そこで進軍し、平恩を陥落させ、詔して検校尚書左僕射となった。沢潞が平定されると、同中書門下平章事を加えられた。懿宗が即位すると、中書令を兼任し、楚国公に封ぜられた。咸通七年(866)に死に、太師を追贈された。

  子の何全皥が襲封し、翌年、節度使を拝命した。龐勛が平定されると、功績によって検校司空・同中書門下平章事となった。母を喪うと、節度使を奉還して、喪に服することを願ったが、詔して許されなかった。何全皥は幼くして殺戮を好み、部下に小罪であっても笞打ちしたから、人々は恐れた。後に軍中で兵糧や給料が削減されると伝えられると、軍中は遂に叛乱がおき、何全皥は騎馬で逃れ、軍は韓君雄を推戴して軍事を総べさせ、何全皥を殺した。咸通十一年(870)のことであった。詔して太保を追贈された。

  何進滔から何全皥まで、およそ三世、四十二年であった。


  懿宗は改めて普王(後の僖宗)を節度大使とし、韓君雄を留後とした。韓君雄は、魏州の人である。五か月もしないうちに、副大使に昇進し、三遷して検校司空となった。僖宗が即位すると、同中書門下平章事に昇進し、名を韓允中と賜った。死んだ時、年六十一歳で、太尉を追贈された。

  子の韓簡が、留後を襲封した。俄かに節度使を授けられ、検校太尉・同中書門下平章事に昇進し、魏郡王に封ぜられた。帝が蜀にあって、天下が乱れると、韓簡は強勢であることをたのみとし、地を広げようとし、企図することは普通ではなかった。当時、諸葛爽黄巣のために河陽を守っていたが、韓簡はこれを攻撃し、諸葛爽は敗走し、そこで兵で防衛し、北は邢州・洺州を掠奪して帰還した。東は鄆州を攻撃し、鄆の将の曹存実は出撃したが、敗死し、その将の朱宣が軍を率いて守り、しばらくしたが降伏せず、諸葛爽はその隙に乗じて、再び河陽を奪取した。韓簡は戻って攻撃したが、諸葛爽は新郷で迎撃し、韓簡は大敗し、楽彦禎は一軍を率いて先に戻り、韓簡は逃げ帰り、背中に疽ができて死んだ。楽彦禎がこれに代わった。二世、およそ十二年であった。


  楽彦禎なる者もまた魏州の人である。韓簡の時に博州刺史となり、河陽を下して功績があり、澶州刺史に遷った。魏の人々に推戴されると、詔して検校工部尚書となり、留後を領し、節度使に昇進し、検校尚書左僕射・同中書門下平章事を加えられた。

  楽彦禎は儒教を好み、公乗億李山甫を引き立てて皆幕府にあった。嗣襄王李熅の乱で、楽彦禎は李山甫を鎮州の王鎔のもとに派遣し、幽・邢・滄の諸鎮を合わせて同盟して賊を防ごうとしたが、王鎔は断ったから、ついにならなかった。楽彦禎は王室が衰微しているのを見て、非常に傲慢不遜となり、大いにその軍をおこし、魏の周囲八十里を城壁で囲み、一か月で完成させたから、人々はその残忍さを恨んだ。子の楽従訓は、凶悪非道で、王鐸を襲撃し、その家を掠奪したから、魏の人は正しいことではないとした。また亡命者五百人を集め、「子将」と号して、自らの寝室に出入りさせたが、軍中は口々に言い騒いで憎んだ。楽従訓は恐れ、服を換えて近県に逃げ、楽彦禎はそこで六州指揮使・相州刺史とし、兵に兵器・貨幣・布を運び込ませ、道に連なったから、軍中はますます二心を抱いた。楽彦禎は、服を脱ぎ、帯を解き、沓を脱いで歩く夢を見て、目覚めると「これは神が私に告げたもので、部下の将が叛くということか」と言い、すでに軍乱がおこり、果して楽彦禎は捕らえられ、迫られて仏門に入れられたが、ついで殺された。大将の趙文㺹を推戴して留後を総べさせた。

  楽従訓は救援を朱全忠に求め、朱全忠はそのため軍をおこし、内黄に行軍した。楽従訓は相州から軍三万で城下に到着したが、趙文㺹はあえて出撃せず、軍は恐れて、趙文㺹を殺し、更に羅弘信を推戴して軍を統率させた。羅弘信は出撃すると、楽従訓は敗れ、残った軍を集めて洹水に立て籠もり、羅弘信は将の程公佐に攻撃させて楽従訓を斬り、軍門に梟首した。文徳元年(888)のことであった。楽彦禎がたってから、およそ七年であった。


  羅弘信は、字は徳孚で、魏州貴郷県の人である。騎射に優れ、容貌は雄々しく立派であった。裨将となり、馬牧を司った。魏で占いする者が羅弘信に告げて「白頭の老人が使いして君に謝している。君はこの土地の主となるだろう」と言うと、羅弘信は「神は私を危険な目にあわせようとしているのか」と言ったが、趙文㺹が死ぬと、軍は「誰が我が軍の主になりたいか」と言うと、羅弘信はたちまち「神が私に命じたのだ」と答え、軍が注視してみると、適任であったから、遂に擁立された。詔して知留後に抜擢され、再び節度使に遷り、検校司空・同中書門下平章事・予章郡公を加えられた。

  朱全忠黄巣を討伐すると、粟三万斛・馬二百匹を送った。秦宗権が叛くと、再び羅弘信に粟二万斛を送って軍を助けるよう詔があったが、まだ輸送する前に、検校工部尚書の雷鄴が粟を送るよう強要し、羅弘信はもとより牙軍を脅し、勝手に雷鄴を殺した。朱全忠は手紙を送ってその行動を責めたが、羅弘信は返答しなかった。大順年間(890-891)初頭、朱全忠は太原の李克用を攻撃し、将の趙昌嗣を派遣して羅弘信に面会して糧馬を借りようとした。また邢州・洺州に駐屯すること、相州・衛州の通過を求めて議したが、羅弘信は受け入れなかった。朱全忠は丁会龐師古葛従周霍存らに一万騎を率いて渡河させ、羅弘信は内黄に立て籠もったが、およそ五戦してすべて敗北し、大将の馬武らが捕虜となり、そのため贈り物をあつくして講和を求めた。朱全忠は河北を版図に入れ、羅弘信との和議を受け入れることを望み、そこで兵を引き返した。

  朱全忠は兗鄆を攻撃し、朱宣李克用に救援を求め、李存信を派遣して兵を率いて救援させ、通過と莘州の駐屯を求め、その部下は魏に侵入して放牧したから、羅弘信は不満であった。李克用は鎮・定の兵を合わせて河曲に駐屯し、魏州・滑州間の道を抑えようとしたから、羅弘信は急いで朱全忠に告げ、船舶を禁じて往来を絶やすよう要請した。しばらくして、魏人はやって来ず、朱全忠はそれが偽りではないかと疑い、自ら軍を率いて滑州に到着した。羅弘信はやって来て「魏人がまだ動かないのは、まさにこれを緩めさせたいと図っているからだ」と告げ、朱全忠はついに曹州に駐屯した。太原の将の李瑭に朱宣を救援させ、また莘州に立て籠もったが、羅弘信はその横暴さを嫌い、李瑭は塹壕内に固守していた。朱全忠は使者を派遣して、「晋人の志は河朔を併合することだが、軍を帰してしまっては、公のために憂いとするところだ」と言ったから、羅弘信はそこで李瑭を攻撃し、朱全忠に軍の出動時期を伝え、朱全忠は滑州に急派して救援しようと、封丘に行ったが、羅弘信はすでに李瑭を打ち破っていた。李克用は怒り、兵で魏博を掠奪した。朱全忠の将の侯言が洹水に駐屯すると、李克用の兵はしばしば戦いを求めたが、侯言はあえて出撃せず、朱全忠は葛従周を代将とした。葛従周は暗くなると落とし穴をつくり、李克用が兵でやって来ると、たちまち精兵を出撃させて肉薄し、必ず勝利した。李克用は洹西北を越えて戦いを挑んだが、葛従周は大いにこれを破り、李克用の子の李落落を捕虜として、引き揚げた。しかし魏への侵攻はやまず、大いに白龍潭で戦って、羅弘信は敗れ、李克用は追撃して魏の門まで迫って帰還した。羅弘信はそこで援軍を朱全忠に要請し、朱全忠は将を派遣して洹水に立て籠もって魏を救おうとした。李克用は遊兵を出して相州・魏州を劫略させ、民で死ぬものは十人中九人にものぼり、羅弘信はその脅威に堪えられなかった。光化元年(898)、朱全忠に救援を要請した。朱全忠はまた葛従周を派遣して将兵で追跡し、洺州を陥落させ、その刺史の邢行恭を捕虜とした。また邢州を攻撃し、馬師素は自ら脱出して逃亡した。遂に礠州を包囲し、袁奉韜は自殺した。五日もしないうちに、三州を奪取し、斬首二万級であり、その将百人あまりを捕虜とし、これより李克用は兵を出さなかった。

  それより以前、朱全忠はしばしば兗鄆を攻撃しようとしたが、羅弘信の二心を恐れ、そのため毎年贈り物を送ること非常に手厚かった。羅弘信はそのたびに答礼の贈り物をし、朱全忠はその使者を召し寄せ、北面して拝受し、兄にように仕えたから、羅弘信は自分に手厚かったため、心を推し量った。

  検校太師、守侍中に昇進し、臨清郡王に移封された。光化元年(898)死に、年六十三歳で、太師を追贈され、北平王を追封され、諡を荘粛という。子の羅紹威が襲封した。


  羅紹威は、字は端己である。若くして英気があり、性格は精悍で、事務に明るかった。既に留後となり、昭宗は詔して父の節度使を継承させ、検校太尉を加え、「忠勤宣力致聖功臣」と号した。幽州の劉仁恭が兵を率いて鎮州・冀州を攻撃すると、遂に魏州を掠奪したから、羅紹威は緊急事態を朱全忠に告げ、朱全忠は自ら軍を率いて劉仁恭と内黄で戦うこと一日、大いに破り、斬首三万級を得た。葛従周が邢州を守り、またその軍を魏県で破った。劉仁恭は軍十万で貝州を陥落させ、朱全忠は李思安を内黄に駐屯させ、葛従周は全軍で魏に入った。劉仁恭が魏を攻撃すると、葛従周は五百騎で出撃し、門にいる者に「前に強敵がいる。たやすくはない」と言い、命じて扉を閉ざさせた。兵士は死にもの狂いで戦い、劉仁恭の将二人を捕虜とした。劉仁恭は別将に内黄を攻撃させたが、李思安のため敗北した。葛従周は勝利に乗じて八つの陣地を破り、北に追撃して臨清に到着した。劉仁恭はそこで滄州に帰り、李克用と魏について企てた。羅紹威は朱全忠とともに兵を連合して滄州を討伐し、葛従周は徳州を攻略し、進撃して浮陽に迫った。劉仁恭は兵で到着すると、監軍の蒋玄暉は敵を入城させて、食料が尽きたら攻撃するよう要請した。葛従周は「戦いには勝機があり、勝機は将軍の上にある。どうして監軍が知ることがあろうか」と言い、かえって老鵶堤で戦い、これを破り、斬首五万で、その将百人あまりを捕虜とした。また唐昌范橋で、六度戦って勝利した。劉仁恭が講話を約し、そこで撤退した。羅紹威は朱全忠を徳とし、そのため仕え奉ることいよいよ堅固であった。朱全忠が帝を洛陽に遷すと、諸鎮に命じて宮殿を修造させたが、羅紹威は太廟を造営し、侍中を加えられ、鄴王に封ぜられた。

  魏の牙軍は、田承嗣より軍中の子弟を募って形成されたもので、父子は世襲し、婚姻は相互盤石で、傲慢で法令を顧みず、史憲誠ら皆擁立されても、不満があれば、たちまち殺害されて生き残った者はいなかった。給与を厚くしても、その場しのぎで制することはできなかった。当時、「長安の天子、魏府の牙軍」と語られたのは、その強勢さを言ったのである。羅紹威は先の災いに懲り、表向きは寛容さを示したとはいえ、心の内では堪えられなかった。にわかに将校の李公佺が叛乱をおこしたが、勝てず、滄州に逃走した。羅紹威はそこで策を決めて殺し滅ぼそうとし、楊利言を派遣して朱全忠とともに謀した。朱全忠はそこで符道昭を派遣して将兵を魏軍と合わせて二万で滄州を攻撃し、李公佺を探し求め、また李思安を派遣して援軍としたが、魏軍はこれを疑わなかった。羅紹威の子は、朱全忠の婿であり、たまたま娘が卒すると、馬嗣勲を葬儀の助けとするために派遣し、長期の当直とするため千人を選んで副葬品を納めたが、実は甲冑が入れられていた。朱全忠は滑州より河を渡り、表立っては滄景の行営を監督するとしていた。羅紹威は出迎えようとし、精兵を借りて入れようとしたから、軍中は出ないよう勧めたから沙汰止みとなった。羅紹威は人を派遣して武器庫に潜入させ、弓の絃を断ち、甲冑を解体し、夜になると、奴客数百を率いて馬嗣勲とともに攻撃し、軍は武器庫に走って兵を得ようとしたが、戦うことができず、そのためおよそ八千族を皆殺しにし、城市は空となった。

  夜が明けると、朱全忠もまた到着し、事が定まったのを聞いて、馳せて軍に入った。魏兵で外部に行っていた者が変事を聞き、ここに史仁遇は高唐を保ち、李重霸は宗県に駐屯し、その他は貝州・澶州・衛州など六州にバラバラに点在していた。史仁遇は魏博留後を自称しており、朱全忠は滄州の兵を解体して高唐を攻撃し、史仁遇は軍を率いて逃走し、遊騎兵に捕らえられて四股を分断された。朱全忠は進撃して博州・澶州の二州を陥落させた。李重霸は敗走すると、にわかにその首を斬られ、相州・衛州はすべて降伏した。

  羅紹威はその脅威を取り除いたとはいえ、しかしながら勢力は弱体化し、朱全忠に牽制され、魏州のみの刺史となり、心の中では気鬱して後悔していた。朱全忠の兵は滄州にあって、羅紹威は糧食の運搬を司り、鄴から長蘆まで五百里、道は絶えることはなかった。朱全忠が帰還することになると、羅紹威は元帥行府を建設し、土木は壮麗を極めたから、朱全忠は大いに喜んだ。羅紹威は暇を見て「太原は全員狂妄な嘘つきどもで、唐室を復活すると言っています。王は自ら神器を取って、天下の望みを専らにすべきです」と説くと、朱全忠は帰還し、そこで受禅して帝位についた。

  羅紹威は多く書を集め、一万巻にもなった。江東の羅隠は巧みに詩をつくり、羅紹威は厚く金銭を送ってよしみを結び、系譜を通じて叔父甥の関係になり、そこで自分がつくったものだとして『偸江東集』といったという。


  賛にいわく、田承嗣は何度も捕虜となる危機があったが、李宝臣馬承倩に怒って魏を解き放ってしまった。建中年間(780-783)の時、三将軍(田悦田緒田季安)は精鋭を保って血をふみにじり、功績はならなかった。四人の叛徒が勢力を連ね、兵を結集してなしがたく、天子は宗廟を守ることができなかった。田弘正に伝えられると、汚れを去って入朝したが、数年して再び乱れ、唐はついに魏を得られなかった。竪刁が斉を乱したのと、どちらが軽重があろうか。

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最終更新:2024年05月18日 00:59
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