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李光弼

李光弼 りこうひつ

708-764
唐の安史の乱当時の武将。営州・柳城(遼寧省朝陽県)の人。諡は武穆、祖先は契丹の酋長。父李楷洛も武将で薊国公。左衛郎から756年(天宝15載)雲中太守河東節度副使、ついで魏郡太守河北道採訪使になり、郭子儀と協力して史思明を九門に破り趙郡を攻めた。また同年史思明・尹子奇らの3人を嘉山に破った。たまたま潼関の守りが破れ、玄宗が蜀にのがれ、粛宗が霊武に即位すると、彼は行在に行き、戸部尚書兼太原尹北京留守同中書門下平章事を授かった。757(至徳2)年史思明らの4賊帥の率いる兵10万が太原に迫ると、寡兵をもってこれを破り、その功により司空兼兵部尚書門下平章事となり魏国公となった。また758(乾元元)年入朝して鄭国公、761(上元元)年太尉兼中書令となり、郭子儀に代わって朔方節度兵馬副元帥となった。観軍容使魚朝恩の督戦により北邙山下に軍を進めて敗れ、入朝して罪を請うた。ついで太尉を拝し河南淮南東道荊南等副元帥となり、762(宝応元)年臨淮王となり鉄券図形凌煙閣を賜わった。広徳(763-764)の初め、吐蕃が入寇したが、程元振とあわないため防戦しなかった。吐蕃が退くと、徐州に掃り、江淮の租賦を収めてみずから給せんとした。彼は魚朝恩の害を恐れてあえて入朝せず、部下をつかわして遺表を奉って自陳し、徐州で没した。死後、太保を贈られた。

参考文献

参考文献『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』李光弼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%89%E5%BC%BC

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最終更新:2024年08月15日 12:32
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