吐突承璀

吐突承璀 ととつしょうさい

?-820
中唐の宦官・武将。字は仁貞。閩(福建)の人。幼い頃から宦官となって東宮に仕え、掖廷局博士となり、憲宗が即位すると、左監門将軍・左神策護軍中尉・左街功徳使に抜擢された。元和四年(809)成徳軍節度使王承宗が叛くと、憲宗は討伐の意思を示し、吐突承璀を行営招討処置使(討伐軍司令官)に任じ、左右神策および河中・河南・浙西・宣歙の兵を従わせ、趙万敵酈定進盧従史とともに出撃したが、酈定進が戦死し、盧従史も背信を疑われて逮捕されるなど戦況に利がなく、王承宗を討伐しきれず謝罪を受け入れるといったように、事実上の敗北となった。罷免されて軍器荘宅使となったが、憲宗の信認あつく、左衛上将軍、知内侍省となった。劉希光の収賄に連座して淮南軍の監軍に左遷されたが、憲宗は左神策中尉に復職させた。恵昭太子李寧が薨去すると、憲宗に澧王李惲を皇太子に推したが、聞き入れられず、遂王(後の穆宗)が皇太子となり、穆宗が即位すると殺害された。養子に吐突士曄がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百七 列伝第一百三十二 宦者上 吐突承璀
『旧唐書』巻一百八十四 列伝第一百三十四 宦官 吐突承璀

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最終更新:2024年08月20日 00:32
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