巻二百七 列伝第一百三十二

唐書巻二百七

列伝第一百三十二

宦者上

楊思勗 高力士 程元振 駱奉先 魚朝恩 竇文場 霍仙鳴 劉貞亮 吐突承璀 馬存亮 厳遵美 仇士良 楊復光


  唐制では、内侍省の官に内侍四名、内常侍六名、内謁者監・内給事がそれぞれ十名、謁者十二名、典引十八名、寺伯・寺人がそれぞれ六名あった。また五局あり、一は掖廷局といい、女官に関する一切の帳簿を司った。二は宮闈局といい、大小の門の戸締まりを司った。三は奚官局といい、宮中の疾病や死亡・喪送を司った。四は内僕局といい、出御の際の供奉・馬・燭の管理を司った。五は内府局といい、倉庫の出納を司った。局に令・丞があり、すべて宦官が就任した。

  太宗は詔して内侍省に三品官を立てず、内侍をその長とし、階は第四品までで、政治については任命せず、ただ門の守備・庭内の掃除・配膳のみであった。武后の時、やや増員し、中宗に到ると、黄衣はそこで二千人で、七品以上の員外に千人を設置し、しかし朱紫を着るものもなお少なくなっていった。玄宗は平和な時代を継承すると、財用して豊かとなり、志は大いに奢り、賞や爵位を賜うことについて愛惜しなかった。開元・天宝年間(713-756)、宮嬪は大いに大体四万人にもなり、宦官の黄衣以上で三千人、朱紫を着る者は千人あまりであった。その内使節として派遣された者はたちまち三品将軍となり、戟を門に並べた。その宮殿にあって供奉し、委ねて高貴な人々に任せ、節を持って命令を伝え、威光の光焰は大きな音が鳴り響いて四方を動かした。至るところの郡県は奔走し、献上したり派遣したのは一万にも至った。功徳を修し、市場で禽鳥を売り、一たびこの使いをなれば、なお数千緡があるかのようであった。監軍が権力を持ち、節度は返ってその下に出た。ここに一級の邸宅、名庭園、肥沃な田は宦官のために、所有者は半ば京畿に戻っている。粛宗代宗は庸弱で、権力者を頼って守りとし、そのため李輔国は尚父となって有名となり、程元振は援けて奮い立ち、魚朝恩は軍容の職で重じられたが、しかしなおもまだ常に兵を司ることができたわけではなかった。徳宗朱泚の賊を過去の教訓とし、そのため左右神策軍・天威軍などを分割して宦官に委ねてるのが大半となり、護軍中尉・中護軍を送って、分けて禁兵をひっさげ、これによって権威・権力は下に遷り、政治は宦官にあり、手をあげて伸縮させ、たよるに軽重があった。勇士・優秀な人材を集めて養って子とした。強大な藩鎮であっても、争そうように自門から出た。

  小人の情は、みだりに険呑となっていとおしんで大切にすることはなく、また昼も夜も天子に侍り、昵懇となって天子の権威がなくなり、宦官から習えば疑うことはなく、そのため暗君は昵懇となって覆い隠され、英主が出ると災いはたちまちにあらわれた。玄宗は遷されて崩じ、憲宗敬宗は弑逆されて命を落とし、文宗は憂憤となり、昭宗に至っては天下が滅んだのである。災いは開元年間(713-741)から天祐年間(904-907)まで、野蛮で固執する者が集まった。党類が殲滅されると、王室も宦官の命運に従って壊滅し、あたかも火を焚いて木の中にいる虫を焼き、虫が全滅して木もまた焼けるようなもので、なんと哀しいことではないだろうか。その残った気は弱く、温柔な感情は遷りやすく、あなどってお上などないも等しく、怖れると怨みが生じ、天子の権を借りて専横し、災いとなって迫って近づき、情勢が緩むと互いに攻め合い、急変になるとあれこれ一致し、これは小人のいつもの情勢である。ああ、梟雄や狐は神ではなく、天はこの暗いのを共にし、果ては乱のようになるのである。そのため唐の中葉以来の宦官で大物を集めて篇とした。


  楊思勗は、羅州石城県の人である。もとは蘇氏で、養父の姓を名乗った。若くして内侍省に給事し、玄宗に従って宮廷の難事を平定し、左監門衛将軍に抜擢され、帝は頼って爪牙とした。開元年間(713-741)初頭、安南の蛮酋の梅叔鸞が叛き、黒帝と号し、三十二州の衆をあげて、外は林邑・真臘・金隣などの国と結び、海南により、軍勢四十万を号した。楊思勗は派遣されることを願い、詔して首領の子弟十万を募り、安南大都護の光楚客とともに馬援の故道より不意をついて出撃し、賊は驚いて謀する余裕がなく、遂に大敗し、死体を封じて京観を築いて帰還した。開元十二年(724)、五渓の首領の覃行章が叛乱をおこすと、楊思勗に詔して黔中招討使とし、兵六万を率いて行かせ、覃行章を捕らえ、斬首三万級を得て、功績によって輔国大将軍に昇進し、俸禄・防閤(護衛の官)を給付された。泰山の封禅に従い、驃騎大将軍に昇進し、虢国公に封ぜられた。邕州封陵の獠の梁大海が叛き、賓州・横州などの州を破ったが、楊思勗がまた平定し、梁大海ら三千人を捕らえ、支党を討伐して斬り、皆殺しとした。瀧州の蛮の陳行範が天子を、その部下の何游魯は定国大将軍を、馮璘は南越王を自称し、州県四十を破った。楊思勗に詔して永州・道州・連州の三州の兵と、淮南の弩士十万を動員し、襲撃して何游魯・馮璘を敵陣で斬った。陳行範は盤遼の諸洞に逃走したが、楊思勗は全軍で猛追し、捕虜とし、その与党六万を穴埋めとし、馬や金銀を鹵獲は巨万であった。卒したとき、年八十歳ばかりであった。

  楊思勗は凶悪・残忍で、殺戮をあえてし、捕虜を得ると、必ず顔面を剥ぎ、脳を切り裂き、髪や皮膚を剥ぎ取って人に示し、将兵は恐れ従ったが、あえて見る者はおらず、これによってよく功績を立てた。内給事の牛仙童張守珪の賄賂を受け取り、詔して楊思勗にあずけて殺させた。楊思勗は牛仙童を格子に縛り付け、鞭打って痛ましさに耐えられず、心臓をえぐり、手足を切り、肉を削って食べ、肉がつきてようやく死ぬことができた。

  光楚客は、楽安の人で、後に桂州都督を経て致仕し、松滋県侯に封ぜられた。


  高力士は、馮盎の曾孫である。聖暦年間(698-700)初頭、嶺南討撃使の李千里が二人の去勢児を奉った。一人は金剛といい、もう一人は力士といい、武后はその明敏さから、勅して左右の給事とした。罪に連座して追放され、宦官の高延福の養子となり、そのためその姓を名乗った。武三思と親しく、一年ほどで再び宮中に入ることができ、司宮台で食事を給された。壮年となると、伸長六尺五寸で、慎重かつ緻密で、よく詔令を伝えたから、宮闈丞となった。

  玄宗が王子であったとき、高力士は心を傾けて結びつき、韋氏が平定されると、そこで奏上して内坊に属させ、内給事に抜擢された。先天年間(712-713)、蕭至忠岑羲らを誅殺した功績によって右監門衛将軍、知内侍省事となった。ここにあちこちから来る奏請はすべてまず高力士が閲覧してから後で上進し、小事はただちに専決された。休暇であっても宮中から出たことがなく、宮殿帷中で休息・睡眠し、稀なる幸運を願う者は一度でも高力士に面会したいと願うことは、天の人のようであった。帝は「力士が当直なら、私は寝る時に安心だ」と言っていた。この当時、宇文融李林甫蓋嘉運韋堅楊慎矜王鉷楊国忠安禄山安思順高仙芝らは才能によって寵遇されていたとはいえ、全員が厚く高力士と結びつき、そのためあとにくっついて将相となることができ、そのほかなびいて付会していたものは数えきれないほどであり、全員が望みを得られたのであった。宦官では黎敬仁・林昭隠・尹鳳翔・韓荘・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜朱光輝・郭全・辺令誠らのように、ともに宮中で供奉し、ある者は外で節度使の監軍となり、功徳を修し、鳥獣を買い求め、全員がその使となり、帰還すると、集め獲られたものは、ややもすれば巨万となり、京師の邸宅・池園・良田・美産で、占有するものは十のうち六にもおよび、寵は高力士と大体同じようなものであったが、しかし全員が高力士の側近の地位をかりて推し量った。粛宗が東宮であったとき、高力士を兄としてつかえ、他の王・公主は「翁」と呼び、縁戚の諸家では尊んで「㸙(とうさん)」と呼び、はある時は名で呼ばず「将軍」と呼んだ。

  高力士は幼なくして母麦氏と生き別れになり、後に嶺南節度使が母を滝州で探し出し、出迎えたが、覚えていなかった。母は「子どもには胸に七のホクロがあった」と言ったから、高力士は肌脱ぎになってみると、言った通りであった。母は金の環を出し、「子どもがつけていた」と言うと、お互いに同じのを持っていたから慟哭しあった。は高力士のために母を越国夫人に封じ、その父に広州大都督を追贈した。高延福と妻は、高力士が偉くなっても健在であり、侍って養うことは実母麦氏と同じようであった。金吾大将軍の程伯献が高力士と義兄弟となることを約束し、後に麦氏が亡くなると、程伯献は髪を被って弔いを受けた。河間の男子の呂玄晤は京師で役人となり、娘は国一番の美女で、高力士はこの娘を娶り、呂玄晤は一小役人から少卿に出世し、子弟は全員王傅となった。呂玄晤の妻が死ぬと、内外の人々は葬礼にやって来て、邸宅から墓へ至るまで、車馬の列が途切れなかった。

  それより以前、李林甫牛仙客が東都への行幸を嫌がっているのを知っていたが、京師への運送は給されていなかったから、そこで年貢をとりたてて運送を助け、和糴の法を用いるようになった。数年して、国庫は徐々に充実していった。帝は大同殿で祭祀を行い、高力士は近侍した。帝は「我々は長安を出ないことは十年になろうとしており、海内は無事で、朕は道家の養生の呼吸法を行い、天下の事は李林甫に預けようと思う。どうか」と言うと、高力士は「〝天子は順をもって動く〟と言いますように、古からの制度です。税収は常にあるから、人々には労いの言葉をかけていません。今年貢で運送物が満たされていますが、臣は国家には十か月の蓄えとてないことを恐れています。和糴を止めなければ、私蔵は尽き果て、商売する者が多くなります。また天下の権力は人に与えてはなりません。権力を威にして勢力を振るい、どうしてあえて議論することがありましょうか」と答えたが、帝は不快に思ったから、高力士は頓首して自ら陳謝して、「精神がおかしくなっていました。言い誤りは死に値します」と言った。帝は酒宴を設け、左右の者は万歳を叫んだ。これによって内宅に帰り、再び同じようなことはしなかった。驃騎大将軍を加えられ、渤海郡公に封ぜられた。来廷坊に仏寺を建立し、興寧坊に道観を建立し、美楼や宝閣で、国がもたらしたものは及ばないほどであった。鐘が完成すると、高力士は公卿と宴し、一度鐘を叩くと、礼銭十万を納め、高力士に阿諛追従する者は二十回叩き、少ない者でもまた十回を下回らないほどであった。都北の灃水の堰に五つの碾磑を並べ、毎日三百斛に対応した。

  袁思芸なる者がおり、はまた寵愛していたが、しかし傲慢で慎まず、士大夫は疎んじて恐れ、高力士は密かに巧みに人の名声を得た。帝は始めて内侍省監に二員を置き、秩三品とすると、高力士・袁思芸をそれに叙任した。安禄山の叛乱のため帝が蜀に逃れると、袁思芸は遂に賊の臣下となったが、高力士は帝に従ったから、斉国公に進封した。帝は粛宗の即位を聞いて、「我が子はまさに天に応じて人を従わせるだろう。至徳と改元したのは、孝を忘れないからだろうか。その上何の心配があろうか」と喜んだが、高力士は「両京は守りを失って陥落し、生ける者は流浪し、河南漢北は戦場となり、天下は心を痛めていますが、陛下は何の心配もないと考えられているようでしたら、臣はあえて聞かなかったことにします」と言った。上皇が帰還すると、開府儀同三司に昇進し、実封戸五百となった。

  上皇が西内(宮城・太極宮)に移ると、十日ほどして、李輔国に誣告され、除籍されて、巫州に長流となった。高力士はその時功臣閣におこりの発作のため席をはずしていたが、李輔国は詔によって召還し、高力士は走って宮殿の外に到り、太監から流謫の制書を授けられると、「臣は本来死ぬべき身でありますが、長い事行きながらえており、天子の哀憐は今日に至っています。願わくば、陛下の顔色を一見させていただければ、死んでも恨みません」と言ったが、李輔国は許さなかった。宝応元年(762)、赦免によって帰還したが、玄宗・粛宗二帝の遺詔を見て、北に向かって慟哭して血を吐き、「大行皇帝があの世に登られたのに、梓宮にすがることもできない。死んでも恨みが残る」と言い、慟哭して卒した。年七十九歳。代宗は先帝を護衛した労によって、その官位を戻し、揚州大都督を追贈し、泰陵に陪葬した。

  それより以前、太子李瑛が廃せられると、武恵妃は寵愛により、李林甫らは皆寿王に心を寄せ、は粛宗が年長であったものの、思いを決せず、居ながらにして気がふさいで食事ができなかった。高力士は、「旦那様がお食べにならないのは、食事に何か不具合がございましたか」と言うと、帝は「お前は、私の家老ではないか。私がどうしてこのようになっているのかわからないのか」と言うと、高力士は「後継ぎがまだ定まっていないからですか。年長を立てればいいのです。どうしてあえて言う事がありますか」と言うと、帝は「お前の言う通りだな」と言い、儲君の位は遂に定まった。天宝年間(742-756)、辺境の将軍が功績を争っており、帝はかつて「朕は年をとって、朝廷の細かい仕事は宰相にまかせ、蕃夷が恭順しなければ諸将にまかせている。どうして暇がないことがあろうか」と言うと、「臣が時間のあるときに宮中の門に行ってみると、奏事する者がいて雲南でしばしば軍を失ったと言上しており、また北兵は剽悍で強いのですが、陛下はどうやって抑えるのでしょうか。臣は災いがおこるのではないかとの心配をしないわけにはいきません」と答え、それは安禄山を指していたのだという。帝は「お前は言うことではない。朕の将軍が考えることだ」と言った。天宝十三載(754)秋に大雨となり、帝は左右を振り返ったが誰もおらず、そこで「天が災いしている。お前の考えを言ってみよ」と言ったから高力士は、「陛下が宰相に権力を与えてから、法令は行われず、陰陽は度を失い、天下の事はどうして再び安穏とすることがありましょうか。臣は口をつぐんで言いませんが、その時だからです」と言ったが、帝は答えなかった。翌年、安禄山が叛乱をおこした。高力士はよく時勢の上下を推し量り、昵懇となっているとはいえ、傾国敗亡にあたっても、救うことに力をつかうことをよしとせず、そのため普段からあきらかな大過がなかった。議する者は宇文融以来、権力と蓄財は賊と同じようなものであり、天下の禍いへの階段を登り、よいこともあったとはいえ、除くことがなかったことを非常に恨んだという。


  程元振は、京兆三原県の人である。若くして宦官となって内侍省につとめ、内射生使・飛龍厩副使に遷った。張皇后越王を即位させようと謀ると、程元振は太子に謁見して、その奸計を暴き、李輔国とともに助けて国難を討伐し、太子を即位させた。これが代宗となった。右監門衛将軍、知内侍省事を拝命した。帝は薬子昂を元帥行軍司馬に任じたが、固辞し、そこで程元振を任命し、保定県侯に封じた。再び驃騎大将軍・邠国公に遷り、ことごとく禁軍を統括した。一年後、権勢は天下を震わせ、李輔国の近くにあって、凶悪さはそれを上回るものであった。軍中では十郎と呼ばれた。

  王仲昇は、初め淮西節度使となり、襄州の張維瑾の部将と申州で戦ったが、捕虜となった。賊が平定されると、程元振は推薦して右羽林大将軍兼御史大夫とした。将軍が大夫を兼任するのは王仲昇から始まった。裴冕は程元振にさからい、そこで韓穎らの罪をひいて施州に貶した。来瑱は襄・漢を守って功績があり、程元振はかつて自分の功績とするよう求めたが、応じることはなく、そこで王仲昇とともに誣告して来瑱を殺した。同華節度使の李懐譲と関係が悪化し、李懐譲は非常に心配して自殺した。もとより李光弼を憎んで、しばしばサソリをとりもったとして嫌疑をかけた。来瑱らは上将で、裴冕・李光弼は元勲であったが、既に誅殺・排斥され、ある者は自ら反省せず、藩鎮らはこれによって心離れすることとなった。

  広徳年間(763-764)初頭、吐蕃・党項が領内に侵入し、詔して天下の兵を召集したが、一兵士とて命を捨てて参じる者はいなかった。敵は便橋に迫り、はあわてて嫠居・陝県に出て、京師は陥落し、賊は府庫を掠奪し、宮殿や街を焼き払い、騒然として空虚と化した。ここに太常博士・翰林待詔の柳伉が上疏して、「犬戎が数万の軍で関中を犯し隴西にわたり、秦州・渭州を経て、邠州・涇州を掠奪し、刃を血塗らずして京師に入り、謀臣は一言も奮わず、武士は一戦も力せず、兵卒をひっさげて大声をあげ、宮殿を掠奪し、陵墓を焼き払いましたから、これは将帥が陛下に叛いているのです。史朝義が滅んでから、陛下は智力のよくするところによっていますが、そのため元より功績のある者を疎んじ、近習に委ね、日月が過ぎるにつれ大禍となり、群臣は朝廷にあって一人とてあえて君主の威厳を侵すような者はおりませんが、これは公卿が陛下に叛いているのです。陛下は始めて都を出て、百姓は勢いづいて府庫を奪い、互いに殺戮しあい、この関中も陛下に叛いているのです。十月朔日より諸道の兵を召集して、四十日になろうとしていますが、一隻の輸送船とて関に入るものはなく、これは天下四方が陛下に叛いているのです。内外が離叛し、一人の魚朝恩が陝郡で力をつくしたといっても、陛下一人がこれによって社稷を守ることができるでしょうか。陛下は今日の勢いによって安んずることができるでしょうか。なんと危ういことでしょうか。もし危ういとわかっているのに、どうして高枕を得て天下の計とすることができましょうか。臣は良医が病気を治療するとき、病にあたって薬を飲み、薬で病にあたらないのは、なお無益だからだと聞いています。陛下は今日の病を見て何によってここに至ったのでしょうか。天下の心は、陛下が賢良を遠ざけ、宦官を任用し、将軍を離間して危うく滅ぼされかけたことを恨んでいます。必ず宗廟社稷を存続させようと思うのでしたら、一人程元振の首を斬って、天下に急告し、ことごとく内使を出して諸州に属させ、一人魚朝恩を留めて左右に備え、陛下は神策兵を大臣に授け、その後に尊号を削り、詔を下して咎を引き、率先して徳を励行させ、嬪妃を公の場から覆い隠し、将軍を任じるのです。もしくは「天下は朕が自ら新たに過を改めるのを許すだろうか。ただちに兵士を募って西は朝廷と合流すべきである。もし朕の悪行が改悛されなければ、帝王の大器は、あえて聖賢を妨げず、天下往くところを聴す」と仰せられるのです。このようにしても兵がやって来ず、人々は感じ入らず、天下が服さなければ、臣の一族を皆殺しにして謝してください」と述べ、帝は公議を共にしなかったことを反省し、そこで詔を下して程元振の官爵をすべて削り、田舎に放ち帰した。帝が帰還すると、程元振は三原から婦人の衣服を着て密かに京師に入り、司農卿の陳景詮の家に留まり、大それたことを意図した。御史の弾劾調査により、溱州に長流となり、陳景詮は新興県の尉に貶された。程元振は江陵に到着して死んだ。


  当時、また駱奉先なる者がおり、また三原の人で、右驍衛大将軍を経て、しばしばに従って討伐し、非常に寵遇された。広徳年間(763-764)初頭、僕固懐恩の軍の監軍となった。駱奉先は寵遇を恃んで非常に貪欲であり、僕固懐恩とは不仲で、僕固懐恩駱奉先の讒言を恐れて、ついに叛いた。平定されると、駱奉先を軍容使に抜擢し、畿内の兵を掌握させ、権勢はさらに燃え上がった。永泰年間(765-766)初頭、吐蕃がしばしば京師を脅かしたから、鄠(陝西省鄂県)に城塞を築き、駱奉先が使となり、ことごとく県外の家々を壊し、小さな小屋すら残らなかった。江国公に封ぜられ、鳳翔軍の監軍となり、大暦年間(766-779)末に卒した。


  魚朝恩は、瀘州瀘川県の人である。天宝年間(742-756)末、品官によって給事黄門となり、心の内は陰険かつ狡猾であったが、詔令の宣命をよくした。至徳年間(756-758)初頭、李光進の監軍となった。京師が平定されると、三宮検責使に任じられ、左監門衛将軍知内侍省事となった。九節度使が賊を相州で包囲すると、魚朝恩を観軍容・宣慰・処置使とした。観軍容使は魚朝恩から始まった。史思明が洛陽を攻撃すると、魚朝恩は神策兵で陝州に陣を敷いた。洛陽が陥落すると、史思明は長駆して硤石に到着し、子の史朝義を遊軍とした。粛宗は詔して精兵十万で渭水を迂回して東は軍を増援させた。魚朝恩は兵を陝州の東に留め、神策の将の衛伯玉に賊将の康文景らと戦わせ、破った。洛陽が平定されると、移動して汴州に陣を構えた。開府儀同三司となり、馮翊郡公に封ぜられた。宝応年間(762-763)、戻って陝州に駐屯した。代宗は吐蕃の侵攻を避けて東に行幸し、衛兵は離散したが、魚朝恩は全軍で華陰県にお出迎えし、乗輿の六軍はそこで勢力を立て直し、は恩義に感じ、改めて天下観軍容・宣慰・処置使と号し、神策軍を統括させ、賞や賜い物は数え切れなかった。

  魚朝恩の性格は小人で、功績をたのんでたちまち憚ることはなかった。僕固瑒が絳州を攻撃し、姚良に温県を根拠地として、回紇を誘引して河陽を陥落させた。魚朝恩は李忠誠を派遣して僕固瑒を討伐し、霍文場を監軍とした。王景岑に姚良を討伐させ、王希遷を監軍とした。僕固瑒を万泉で破り、姚良を捕虜とした。高暉らが吐蕃を誘引して侵攻し、劉徳信を派遣して討伐して斬った。そのため魚朝恩は麾下によってしばしば勝利を収め、心の中では次第に尊大になっていった。この当時、郭子儀が天下を定めた功績があり、人臣第一の功があり、心の中で妬み、相州の敗北に乗じて、醜聞を誣告し、粛宗は心の中ではその言葉を信じていなかったが、それでも郭子儀を軍から罷免し、京師に留めた。代宗が即位すると、程元振とともに一層讒言を加えたが、帝はまだ悟らず、郭子儀は非情に憂慮した。にわかに吐蕃が京師を陥落させると、ついに郭子儀の力を用い、王室は再び安泰となった。そのため魚朝恩は心の中で恥じ入り、そこで帝に洛陽への遷都を勧め、戎狄から遠ざかろうとした。百官が朝廷にあって、魚朝恩は十人あまりを従えて兵とともに出てきて、「敵はしばしば都の郊外を侵犯しているから、洛陽に行幸しようと思う。どうか」と言うと、宰相は答えなかったが、近臣がその雰囲気を断ち切って「勅使は叛かれたか。今防衛兵は敵の侵攻を防ぐのに充分であるのに、何を根拠にして天子を脅して宗廟を捨てようとするのか」と言うと、魚朝恩は顔面蒼白となり、郭子儀もまた反対意見を述べたから、沙汰止みとなった。

  魚朝恩は軽薄で浮ついた若年者を好んで門下に引き連れ、五経大義を講じ、文章をつくり、才能は文武を兼ねると自称し、寵遇を誤って伺っていた。永泰年間(765-766)、詔して判国子監、兼鴻臚・礼賓・内飛龍・閑厩使となり、鄭国公に封ぜられた。始めて太学に視学すると、宰相・常参官・六軍の将軍に詔してことごとく召集し、京兆府で食を設け、内教坊から音楽の俳優を出して宴会の補助とし、大臣の子弟二百人、朱紫の衣が雑然として学生に付し、席次ごとに廡に並んだ。また銭千万を賜い、子銭を取って秩飯に供した。視学するごとに、神策兵数百を従え、京兆尹の黎幹が従事する者に銭を与えていたから、一回あたり数十万を費やしたが、魚朝恩の顔色を伺ったからいつも不足していた。

  おおよそ詔があって群臣と会して事をはかると、魚朝恩は貴顕をたのんで、根拠のない妄言で議論のために着座している人を侮辱して、見下すような偉そうな態度をとり、元載のように弁論に秀でた人であっても押し黙らせ、ただ礼部郎中の相里造・殿中侍御史の李衎が問答を繰り返し、屈服せず、魚朝恩は喜ばず、李衎を斥け相里造を移動させた。また謀って宰相を代えて朝廷を震わせようとし、そこで百官を都堂に集め、そして「宰相は、元気(宇宙自然の気)を調え、一切の生き物を集めるものだ。今は思いがけず水は旱りとなり、軍は数十万もの駐屯し、運送は尽きて困窮している。天子が臥せって席を安んじておられないのに、宰相はどうやって輔弼するのか。賢人が仕える道を退避せず、黙々と何を頼っているのか」と言うと、宰相は蕭俛を筆頭に、着座している者は全員顔色が青ざめた。相里造は着座して従っていたが、そこで「陰陽が調わず、五穀の価格が上昇しているのは、すべて軍容閣下(魚朝恩)の政治で、宰相に何の関わりがありましょうか。また軍事力は分散しておらず、そのため天は澱みを降らせています。今京師は無事で、六軍は藩鎮に相連なることができています。また十万もの軍が駐屯して、兵糧が不足しているからといって、百官の年俸もないのは、軍容閣下が実行したことで、宰相は文書を作成したのみで、何の罪を帰するところがありましょうか」と述べたから、魚朝恩は衣を払って去り、「南衙(官人)の朋党もまた私を害している」と言った。釈菜となり、『易』をもって講座にのぼり、百官は全員居並んでいる中、「鼎」(『周易』下経)の餗(そく)を覆えすの象(君公からの贈り物である鼎中のご馳走をひっくりかえす重職者の無才徳)ありと言い、これによって宰相の尊厳をおかした。王縉は怒ったが、元載は笑っていた。魚朝恩は「怒った者は普通の精神であるが、笑った者は測ることができない」と言っていた。元載は心の中では恨んでいたが、発覚しなかった。

  魚朝恩は別荘を賜り、美しい沼は清新な立地であり、上表で仏寺とし、章敬太后の冥福を祈るため、そこでそこで章敬太后の諡から章敬寺と名付けるよう願い、許された。ここで費やした費用は莫大なものとなり、公のものは曲江の諸館・華清宮の楼榭・百官の官衙・将相のもと邸宅を取り壊し、その材料を収容して建造の補助とし、ざっと万億を費やした。すでにしばしば郭子儀を謗っていたが、聴かれることはなかったから、盗賊に郭子儀の先祖の墳墓を盗掘させた。郭子儀は本心を偽って自ら弁解し、これによって人々の疑いを静めた。しばらくして、判国子監・鴻臚礼賓等使を辞退して譲り、内侍監を加えられ、韓国公に移封され、実封百戸を増加された。にわかに検校国子監を兼任した。

  それより以前、神策都虞候の劉希暹はたくましく強くて騎射をよくし、最も魚朝恩と昵懇かつ信任を得ており、太僕卿となって交河郡王に封ぜられた。兵馬使の王駕鶴は一人謹み深く温厚で、同じく徐国公に封ぜられた。劉希暹は魚朝恩に仄めかして獄を北軍に設置し、密かに悪少年を勝手気まままにあつかって富裕者を捕らえて吏に渡して尋問し、そこで獄中では法によって、財産を記録して軍に編入し、全員を誣告して冤罪で死に追いやり、そのため市中の人々は「入地牢」と号した。また万年県の吏の賈明観魚朝恩の権勢をたのんで捕物を恣意的に実行し、巨万の財を積み、人々はその悪事をあえて暴くものはいなかった。朝廷の裁決で、魚朝恩がある時関与しなかったことがあり、たちまちに「天下の事は私を経ないものがあるのか」と怒ったが、帝は聞いて喜ばなかった。養子に魚令徽なる者がおり、まだ幼かったが、内給使(従五品相当官)となり、緑衣(六品・七品の衣)を着用し、同列と争って怒り、帰って魚朝恩に報告した。翌日帝に謁見して「臣の子の位は下で、願わくば金紫を得て、班位は上列にありたいのです」と言ったが、帝が返答する前に、役人がすでに紫服を御前に奉り、魚令徽は感謝の意を申し上げた。帝は笑って「小僧に章服とは、大いに適っているな」と言ったが、ますます喜ばなかった。

  元載はそこで左散騎常侍の崔昭を用いて京兆尹とし、厚く財力によってその与党の皇甫温周皓と結びついた。皇甫温は陝州に駐屯し、周皓は射生将であった。これより魚朝恩は密かに謀を企てたが、すべて帝の知るところとなった。劉希暹は帝の意図を悟り、密かに魚朝恩に報告し、魚朝恩はようやく恐れるようになった。しかし帝に謁見しても接待・待遇はいまだ衰えず、そのため安心して密かに大それたことを計画するようになった。帝は遂に元載をたより、魚朝恩を除こうと決意したが、恐れてできず、元載は「陛下はただ専ら臣の言う通りになされば、必ずうまくいきます」と言った。魚朝恩は宮殿に入った。かつて武士百人を従えて自衛していたが、周皓がこれを統括し、皇甫温が兵を掌握して外部にいた。元載はそこで鳳翔尹の李抱玉を移して山南西道節度使とし、皇甫温を代って鳳翔節度使とし、表向きは魚朝恩の権力を尊重し、実際には皇甫温を内部に引き込んで自らの助けとした。元載はまた議して鳳翔の郿県を分けて京兆に属させ、鄠県・盩厔県および鳳翔の虢県・宝鶏県を李抱玉に与えて、興平県・武功県・鳳翔の扶風県・天興県を神策軍に与え、魚朝恩はその土地を利して、自ら利財したが、欺かれているのを知らなかった。郭子儀は密かに「魚朝恩はかつて周智光と結んで外応しており、長らく宮中の兵を領しています。速やかに計画を実行しなければ、変事はまた大きくなりますぞ」と申し上げた。元載は皇甫温を京師に留め、まだ派遣できていなかったから、周皓と共に魚朝恩を誅殺することを盟約した。謀が定まると、上奏し、帝は「うまく計画を実行せよ。かえって災いを受けてはならんぞ」と言った。当時、寒食節で禁中では宴会が行われ、それが終わると将軍たちは軍営に帰っていったが、詔があって議事があるとして留めた。魚朝恩はもとより太っていて、そのたびに小車に乗って宮省に入っていた。帝は車の先触れの声を聞いてかしこまって座り、元載は中書省を守った。魚朝恩が到着すると、帝は魚朝恩の謀反計画を責めたが、魚朝恩は自ら弁明して非常識な言動をとって傲慢であったから、周皓は左右の者と共に捕らえて絞殺した。死んだ時、年四十九歳。外部に知る者はなかった。帝は隠蔽して、詔を下して観軍容等使を罷免し、実封戸六百を増やし、内侍監はもとの通りとした。外部では皆が「既に詔を奉って、自ら縊死した」と言っていたという。死体は家に帰り、銭六百万を賜って葬った。

  帝は軍乱を恐れ、劉希暹王駕鶴を昇進させてともに兼御史中丞とした。また詔を下して将兵を諭し慰めたが、ただ劉希暹は自らが同じく憎まれているのを知っていたから、言動は不遜であり、王駕鶴が暴いて言上したから、遂に死を賜った。しかし賈明観元載の厚遇も得ていたから、そのため元載は奏上して江西に赴任させ、功績を立てさせて自ら贖罪させようとしたが、路嗣恭は賈明観を杖殺してしまった。魚朝恩と親しかった礼部尚書・礼儀使の裴士淹、戸部侍郎判度支の第五琦は連座して貶された。


  竇文場霍仙鳴は、始めともに東宮に属し、徳宗に仕えたが、まだ名があがってなかった。魚朝恩が死んでから、宦官は再び兵を司らず、帝は禁衛をすべて白志貞に委ね、白志貞は多く富裕者から賄賂を納めて兵士を別に集めて補ったが、その賃金を自身に収めるだけで、兵士は実際に存在していなかった。涇州の軍が叛乱をおこすと、帝は近衛兵を召集したが、一人もやって来る者はおらず、ここに竇文場らは宦官および親王を率いて左右に従った。奉天に到着すると、帝は白志貞を追放し、あわせて左右軍を竇文場に授けて将とした。興元年間初頭(784)、詔して監神策軍左廂兵馬とし、王希遷を監右神策軍都知兵馬使とし、馬有麟を左神策軍大将軍とし、軍額はこれより始まった。

  帝は山南より帰還すると、両軍もまた完うした。しかし帝は宿将を嫌って制することが難しく、そのため竇文場・霍仙鳴に詔して指揮させ、天威軍を廃止して左右神策軍に編入させた。この時、竇文場・霍仙鳴の権勢は朝廷に振るい、諸地方の節度使は多くはその軍から出て、台省の要職にある者は門下をはしり、援助を願う者は相継いで足を運んだ。衛士の朱華なる者は按摩によって竇文場の厚遇を得て、計画に参与し、賄賂数万緡を求めて、藩鎮は巨万の額を贈り、兵士の妻女を奪って憚ることなかったから、詔して軍中で殺害した。その勢いが盛んであることはこのようであった。

  しばらくして、護軍中尉・中護軍をそれぞれ二人置き、竇文場に詔して左神策護軍中尉とし、霍仙鳴を右神策護軍中尉とし、焦希望を左神策中護軍とし、張尚進を右神策中護軍とした。中尉・護軍は竇文場らから始まった。後に霍仙鳴が病となると、帝は十馬を賜い、諸祠に快癒を祈らせた。後に少し癒えたが、にわかに死んだから、帝は左右の者が毒を飲ませたのではないかと疑い、小使を捕らえて尋問し、数十人が誅殺され、開府儀同三司を追贈され、内常侍の第五守亮に代わらせた。竇文場は驃騎大将軍となった。当時、監察御史の崔薳が軍に捕縛のために赴き、吏が崔薳に酒食を供すると、崔薳は媚びて喜ばせようとし、そのため供を拒まなかった。竇文場は弾劾奏上し、詔して崔薳を遠方に流した。竇文場は年老いて致仕して卒した。

  その後、楊志廉孫栄義が左右中尉となり、権力を弄んで驕り勝手にすることは、竇文場霍仙鳴とほぼ同じであった。帝は晩年、民間が禁中の事を流言するのを聞いて、北軍に太学生の何竦・曹寿を捕らえさせて尋問させ、人心は大いに恐れたから、司業の武少儀が「罪があるかどうかは判断しにくいので、全国に基準を明示していただきたい」と上書した。にわかに釈放された。この当時、宦官は再び盛んであった。


  焦希望は、涇陽の人で、明威将軍を経て、洪州都督を追贈された。張尚進は、河東の人で、忠武将軍を経て、開府儀同三司を追贈された。楊志廉は、弘農の人で、左監門衛大将軍に任じられた。孫栄義は、涇陽の人で、右武衛大将軍に任じられた。同じく揚州大都督を追贈された。


  劉貞亮は、本姓は倶氏で、名は文珍である。宦官であった養父の姓を名乗ったため、改名したのである。性格は忠義心が強く、義理を知った。吐蕃との平涼の盟約のとき、渾瑊の軍中にあったが、変事にあって捕虜となり、捕らえられて西に連行されたが、にわかに帰還できた。京師から出されて宣武軍の監群となり、自ら親兵千人を置いた。貞元年間(785-805)末、宦官が兵を領して従わせる者がますます多くなった。

  順宗が即位すると、長らく病に臥せって朝政をとることができず、ただ李忠言牛美人が侍るだけであった。牛美人は帝の意向を李忠言に授け、李忠言はこれを王叔文に授け、王叔文は柳宗元らとともに裁定し、その後に中書省に下した。しかしまた勝手気まままにしようとしてもできず、遂に神策兵を奪って自らの権力を強化しようとし、そこで 范希朝を登用して西北禁軍都将とし、宦官の権力を自身の手に収めようとした。しかし李忠言はもとより慎重で慎み深く、王叔文に会うごとに共に議論したが、あえて意見を異にすることはなく、ただ劉貞亮が王叔文と争ったのである。また朋党が強く結びつくことを嫌い、そこで宦官の劉光琦・薛文珍・薛尚衍・薛解玉・呂如全らとともに同じく帝に勧めて広陵王を立てて太子監国とするよう勧め、帝はその奏上を受け入れ、劉貞亮は学士の衛次公鄭絪李程王涯を呼び寄せ金鑾殿で詔の草稿をつくった。太子が即位すると、王叔文の党派をことごとく追い払い、政治を大臣に委ね、議する者はその忠義をよしとした。

  高崇文劉闢を討伐すると、また監軍となった。それより以前、東川節度使の李康が劉闢に敗北すると捕らえられた。高崇文がやって来ると、劉闢は李康を帰還させて自らの罪を雪ぐことを求めたが、劉貞亮は賊を防がなかったことを弾劾し、李康を斬り、そのため専断凶暴ぶりが恨まれた。右衛大将軍、知内侍省事に昇進した。元和八年(813)卒し、開府儀同三司を追贈された。

  憲宗が即位すると、劉貞亮は功績があったのに、死んでしまって恩寵によって地位を手にすることができなかった。呂如全は内侍省内常侍・翰林使を経て、勝手に樟材を伐採して邸宅に使ったのを罪とされ、東都の獄に送られるところを、閿郷に到着したところで自殺した。また郭旻は酔って夜間外出の禁令に触れ、杖殺された。五坊の朱超晏・王志忠は鷹匠を民家に入れたから、杖二百となり、職を奪い、これより恐れない者はいなかった。


  吐突承璀は、字は仁貞で、閩の人である。黄門となって東宮に仕え、掖廷局博士となり、細かいところまで見逃さないことに才能があった。憲宗が即位すると、左監門将軍・左神策護軍中尉・左街功徳使に抜擢され、薊国公に封ぜられた。

  王承宗が叛くと、吐突承璀はが征討の意思を先鋭にしていることを察して、そこで行くことを願った。帝はその果敢で自ら喜んでいるのを見て、任命すべきであると言い、そこで吐突承璀に詔して行営招討処置使に任じ、左右神策および河中・河南・浙西・宣歙の兵を従わせた。内寺伯の宋惟澄曹進玉を館駅使とし、河南・陝・河陽より宋惟澄の担当とした。京師・華州・河中から太原までを曹進玉の担当とした。また内常侍の劉国珍・馬朝江に詔して易・定・幽・滄等州糧料使を分領させた。ここに諌官の李鄘許孟容李元素李夷簡呂元膺穆質孟簡独孤郁段平仲白居易らは集まって延英殿で対面し、古より宦官を司令官の位にしたことはなく、全国に笑われるのを恐れると述べた。帝はそこで改めて招討宣慰使に任じ、彼らのために通化門に御してその行軍を慰めた。吐突承璀は軍を統率したが他に遠略とてなく、盧従史に侮られ、一年しても功がなく、宦官の持ってくる詔に頼り、暴いて盧従史を捕縛させ、合間に人を派遣して王承宗に上書を奉って罪を待つよう述べ、そこで詔して軍を帰し、戻って中尉となった。段平仲は吐突承璀を弾劾し、軽挙な謀で軍費を費やし、国威を損じたとして、斬首せずに天下に謝るような方法はないとした。帝はやむを得ず、罷免して軍器荘宅使とした。ついで左衛上将軍、知内侍省を拝命した。

  たまたま劉希光が羽林大将軍孫璹の銭二十万緡を納めて、孫璹の藩鎮の地位を求めたが、詔によって死を賜り、吐突承璀はその係累であったから、そのため京師から出されて淮南軍の監軍となった。纖人太子通事舎人の李渉が目安箱に投書を行って吐突承璀らの冤罪を訴え、ここに孔戣 は目安箱のことを司っており、その写しを閲覧したが受諾せず、そこで吐突承璀の邪まさを上表し、追放して峽州司倉参軍とした。しかし帝は吐突承璀に対してとくに厚いものがあったが、当時李絳が翰林にあって、非常にその過を論じたから、追放を決定して送り出すこととなったのである。帝は後に吐突承璀を戻そうとし、彼のために李絳の宰相職を罷免し、召還して内弓箭庫使とし、左神策中尉に復職させた。恵昭太子が薨ずると、吐突承璀は澧王を皇太子とするよう願ったが、聞き入れられなかった。常に一室に賜った詔勅を収蔵していたが、地面から毛が二尺ほど生えてきて、これを嫌って自ら清掃して埋めてしまった。一年後、帝が崩ずると、穆宗は先の皇太子に関する議を恨みに思い、吐突承璀を禁中で殺害した。敬宗の時、左神策中尉の馬存亮がその冤罪を論じ、詔して子の吐突士曄に埋葬を許した。宣宗の時、吐突士曄を抜擢して右神策軍中尉とした。

  この当時、諸道は毎年閹児(去勢した男児)を進上し、「私白」と号しており、閩(福建)・嶺(広東)が最も多く、後に皆朝廷に仕えたから、当時は閩を「中官区薮(宦官密集地)」と呼んだ。咸通年間(860-874)、杜宣猷が観察使となると、毎年吏を派遣してその先祖の祭祀を行い、当時は「勅使墓戸」と号した。杜宣猷はついに宦官たちの力を用いて宣歙観察使に遷った。


  馬存亮は、字は季明で、河中の人である。元和年間(806-820)、抜擢されて左神策軍副使・左監門衛将軍、知内侍省事となり、左神策中尉に昇進した。軍は登録されている人員でおよそ十万あまりいたが、馬存亮が掌握しているのは最も精兵を選り分けて、伍(分隊)に兵士を辞める者はおらず、部隊には余剰人員がいなかった。

  敬宗が即位した当初、染署工の張韶が占い師の蘇玄明と親しく、蘇玄明は「私はかつて君を占ったところ、君は御殿で食事をしようとしており、私と一緒だった。私はお上が昼夜狩猟をしていて、出入には際限がないと聞いているから、やるべきだ」と言い、張韶は染材を運ぶたびに宮中に入っていたから、衛兵は咎め立てしなかった。そこで密かに諸工百人あまりと結託し、兵を車中に隠して材料を運んでいるようにし、右銀台門に入り、闇夜に実行することを約束した。その荷物を積み込んでいる者に、張韶の謀が発覚したから、その人を殺し、兵を出して大声で整列するよう叫び、浴堂門を閉じた。その時、清思殿で撃毬しており、驚いて、右神策軍に行幸しようとした。ある者が、「賊が宮中に入っており、多いのか少ないのかすらわかりません。道は遠くて心配ですから、左軍に入るのにこしたことがありません。近くて迅速だからです」と述べたから、これに従った。それより以前、帝は常に右軍中尉の梁守謙を寵遇し、ことあるごとに行幸した。両軍が角力で競い合うと、帝は多くは右軍の勝利を望み、左軍は望みの通りにしていた。ここに至って、馬存亮は出迎え、帝の足にすがりついて泣き、背負って宮中に入った。五百騎で恭僖皇太后懿安太皇太后の二太后を迎えた。ここに至って、賊はすでに関を突破して清思殿に入り、御座にあがり、乗輿のあまりものの膳を盗み、蘇玄明を呼んで一緒に食事をし、「占いの通りだったな」と言った。蘇玄明は「これからどうするんだ」と言い、張韶は憎んで、ことごとく宝器をその徒に賜い、弓箭庫を攻撃し、儀仗兵が防御したから勝てなかった。馬存亮は左神策大将軍の康芸全、将軍の何文哲宋叔夜孟文亮、右神策大将軍の康志睦・将軍の李泳・尚国忠を派遣し、騎兵を率いて賊を討伐させ、日暮れに、張韶および蘇玄明を射て皆死んだ。始めて賊が入ると、宦官の倉庫番兵は望仙門から逃げ出し、宮中の内も外も行在がどこにいるかわからなかった。夜明けになると、ことごとく乱党を捕らえ、左右の神策軍は宮中を清め、車駕は帰還した。群臣は延英門に詣でて天子に謁見したが、しかしやって来た者は十人中、一・二人にすぎず、賊が侵入したとき、咎めて禁じなかった者数十人を罪に問い、杖に笞打ったが殺さず、馬存亮に実封戸二百を賜い、梁守謙を開府儀同三司に昇進させ、他の論功・賞はそれぞれ等級があった。馬存亮は同時代では功績が最も高かったが、そこで権勢を他人に任せ、自身は淮南軍の軍監とするよう求めた。交替して帰還すると、内飛龍使となった。大和年間(827-835)、右領軍衛上将軍の地位をもって致仕し、岐国公に封ぜられ、卒すると揚州大都督を追贈された。

  馬存亮は仕えたのは徳宗から、六人の帝にわたり、性格は端正で畏まり、兵士の訓練をよくし、始めて禁衛を去ると、軍は全員泣いた。唐代の宦官で忠謹で称えられた者は、ただ馬存亮・西門季玄厳遵美の三人であった。


  厳遵美の父の厳季寔は、掖廷局博士となった。大中年間(847-860)、宮人で宣宗を謀殺しようとした者がいた。この夜、厳季寔は咸寧殿の門下で宿直し、変事を聞くと、宮中に入って宮人を射殺した。翌日、帝は労って「お前でなければ、私は危うく免れないところであった」と言い、北院副使に抜擢され、内枢密使で終わった。

  厳遵美は左軍容使に任命された。かつて「北司(宦官)の供奉官は胯衫(ももばかま)で給事していたが、今、笏を持っているのはやりすぎだ。枢密使は政務を許されることはなく、ただ三本柱の家で書を隠しているだけであったが、今は堂で勅詔を決済しているようなものだ。これは楊復恭が宰相の権を奪って失われたのだ」と嘆き、思うに当時の宦官が専横していたのを憎んだのだという。後に昭宗に従って鳳翔に遷り、致仕を求め、青城山に隠居し、年八十歳あまりで卒した。


  仇士良は、字は匡美で、循州興寧県の人である。順宗の時、東宮に侍ることができた。憲宗が即位すると、再び内給事に遷り、京師から出されて平盧・鳳翔等の軍の監軍となった。かつて敷水駅に行き、御史の元稹と宿舎を争って上聞し、元稹を殴打して負傷させた。中丞の王播は御史・中使が先着によって正寝を利用できるとし、昔の制度の通りとするよう願った。帝は元稹を正しいとはせず、その官を斥けた。元和・大和年間(816-835)、しばしば内外五坊使に任じられ、秋は畿内の鷹を調査し、至るところで吏は迎えて食事を供えさせ、強盗よりもひどいものであった。

  文宗李訓とともに王守澄を殺そうとし、仇士良はもとより王守澄と険悪であったから、左神策軍中尉兼左街功徳使に抜擢し、互いに侵食しあった。その後李訓はすべての宦官を駆逐しようと謀ったが、仇士良はその謀を悟り、右神策軍中尉の魚弘志・大盈庫使の宋守義はを連れて宮殿に戻った。王涯舒元輿も捕縛されると、仇士良はほしいいままに脅かし辱め、反乱を自白させ、朝廷に示した。この時、その事情を弁護する者はおらず、全員は本当に背いたのだと言っており、仇士良はそこで兵を放って捕らえ、身分の上下なくことごとく両神策軍の手にかかり、公卿は半ば空席となった。事件が平定されると、特進・右驍衛大将軍を、魚弘志は右衛上将軍兼中尉、宋守義は右領軍衛上将軍となった。

  李石が宰相となると、気性などが厳しく角が立ってしまう性格で、仇士良は李石と論議してしばしば屈服させられたから、深く嫌い、賊に李石を親仁里で刺させようとしたが、李石の馬の足が速かったから免れた。李石は恐れ、宰相職を辞したから、仇士良はますます憚ることはなかった。

  沢潞節度使の劉従諌はもとより李訓鄭注を誅殺することを約束していた。李訓が死ぬと、仇士良が思い通りにしていることを憤慨し、そこで上書して、「王涯たち八人は全員声望のある博学の大臣で、富貴を保つことを願っているのに、何を苦しんで叛くのでしょうか。今大殺戮を加えられているのですから、さらに追い打ちをかけるべきではないのに、逆賊とされており、あの世で憤慨しているでしょう。そうでなければ、天下の節義ある者は、災いを恐れて身を隠し、誰があえて陛下とともに治めるというのでしょうか」と述べ、そこで李訓から送られた書簡を部将の陳季卿を派遣して上聞させた。陳季卿が到着すると、李石が盗賊に遭遇したところで、長安は騒動となり、疑ってあえて進上しなかった。劉従諌は大いに怒り、陳季卿を殺し、書簡を朝廷に進上した。また「臣は李訓と鄭注を誅殺しようとしましたが、鄭注はもとより宦官に支配されているところであり、聞き及ばせませんでした。今、天下は共に宦官を除こうとして、両軍の中尉が聞いて、自らを死から救ったものの、みだりに殺戮して、反逆としていると言っていると伝えています。大臣が謀反ではない謀をするようなことがあれば、自ら命じて役人に行わせるのですから、どうして勝手に侵犯掠奪して、死体を宮殿下に横たえることがありましょうか。陛下は実際に見ておらず、上奏も届いておりません。また宦官が支党を蔓延して宮中に根を張り、臣が謁見して陳述しようにも、殺戮されるのを恐れるのです。ですから謹んで封地を強くし、兵士を鍛錬して、陛下の腹心となります。奸臣は制御するのが難かったとしても、死をもって君側を清らかにすることを誓います」と上書し、このことを人々は手にとって回覧した。仇士良は恐れ、そこで劉従諌を検校司徒に昇進させ、その発言をやめさせようとした。劉従諌はこのような動きがあることを知って、また上言して、「臣が申し上げたところは、国の大礼につながるものであって、お聞きになられるのでしたら、ただちに王涯らの罪を寛大に赦免すべきです。お聞きになられないのでしたら、賞はみだりに出すべきではありません。どうして死んだ者の冤罪が申し上げられないのに、生きている者が禄を担えましょうか」と述べて固辞した。上書を重ねて、仇士良らの罪を暴いて指し示した。仇士良を除くことはできなかったとはいえ、その発言にたよっていくぶん自らの立場を強くできた。これより鬱々として楽まず、両神策軍では撃毬・狩猟・宴会が行われなかった。

  開成四年(839)、文宗は中風に苦しみ、しばらくして宰相を召集して延英殿で謁見し、退いて思政殿に御座して、側近に向かって、「直学士は誰がいるか」と言うと、「周墀がおります」と答えたから召し寄せた。帝は、「これより例えるなら、朕はどの主のようであるか」と尋ね、周墀は再拝して、「臣はよくわかっているわけではありませんが、しかし天下は陛下のことを堯・舜のような主であると言っています」と答えたが、帝は「尋ねた理由は、周の赧王・漢の献帝とはどちらが勝るだろうかということだ」と言った。周墀は驚いて、「陛下の徳は、周の成王・康王、漢の文帝・景帝でもまだ比べるには足りません。どうして自ら二主と比べられるのでしょうか」と言うと、帝は、「周の赧王、漢の献帝は強臣に制を受けているが、今朕は家奴に制を受けている。私は遠く及ばないのだ」と言い、涙を流したから、周墀も地に伏して涙を流した。後に再び朝廷に復することなく、重病になったといわれる。

  それより以前、枢密使の劉弘逸薛季稜、宰相の李珏楊嗣復太子を監国に任じ奉ろうとはかり、仇士良は魚弘志とともに議して改めて別人を立てようとしたが、李珏は従わなかった。そこで詔を偽って潁王を立てて皇太弟とし、仇士良は兵で迎え、太子を戻して陳王とした。それより以前、荘恪太子が薨ずると、楊賢妃安王を皇太子にしようと謀したが、うまくいかなかった。武宗が即位してから、仇士良はその事を暴露し、帝に彼らを除いて人望を絶えさせ、そのため王・妃は皆死んだ。仇士良は驃騎大将軍に遷り、楚国公に封ぜられ、魚弘志は韓国公に封ぜられ、実封戸三百となった。にわかに李珏・楊嗣復は罷免されて去り、劉弘逸薛季稜は誅殺された。

  は明敏かつ果断で、仇士良の援助によって即位した功績があったとはいえ、内心では嫌っており、表向きは尊寵していた。李徳裕が重用されると、仇士良はいよいよ恐れた。会昌二年(842)、尊号を奉り、仇士良は「宰相が赦書をつくっているが、禁軍の衣服・兵糧を減らした」と言い、恨みを揺り動かし、両神策軍に「詳細はどうなっているのか、楼前で抗議すべきだ」と語ったから、李徳裕はこの事を帝に申し上げ、使者に命じて神策軍に「赦は朕の意から出させたもので、宰相が何を預かり知ろうか。かれこれどうするのか」と諭したから、兵士はそこで落ち着いた。仇士良は疑惑で自ら安心することができなかった。翌年、観軍容使に昇進し、統左右軍を兼任したが、病によって辞職し、罷免されて内侍監、知省事となった。強く老のため辞職を願い、詔して裁可された。間もなく卒し、揚州大都督を追贈された。

  仇士良が老いると、宦官はこぞって邸宅へと見送りしたから、感謝して、「諸君はよく天子に仕えよ。よく老夫の言葉を聞くか」と尋ねると、皆が承諾した。仇士良は、「天子を暇にさせてはならない。暇になったら必ず読書して、儒臣に会う。そうするとまた諌言を受け入れて、深慮遠謀を知るから、遊びは減り、行幸しなくなり、我が部下の恩は薄いから権勢を振えなくなる。諸君のために計るなら、財貨を貯えず、盛んに鷹や馬をし、毎日撃毬・狩猟・狩猟・色ごとにその心を惑わせ、極めて贅沢にふけらせ、楽しませて休む暇を与えなければ、必ず政経の術を斥け、外の事に暗くなるから、万機は我々が差配すればよい。恩沢・権力はここに役目についてくるだろう」と言うと、全員が再拝した。仇士良は二王・一妃・四宰相を殺害し、貪欲かつ残酷であること二十年あまり、また術によって自ら将となり、恩礼は衰えなかったという。死の翌年、その家の兵物数千物を暴き、詔して官爵を削り、その家を没収した。

  それより以前、仇士良魚弘志文宗が李訓とともに謀ったことに憤慨し、しばしば帝を廃位しようと思った。崔慎由が翰林学士になると、夜に宿直してまだ半ばにもならないうちに、宦官に召され、秘殿にやって来ると、仇士良らが堂上に座って、帷帳に集まって、崔慎由に向かって、「お上は病気になられてから長い間となり、即位してから、政令は多く宮中を荒らしているから、皇太后の制があって、改めて嗣君を立てることとなった。学士(崔慎由)よ、詔の作成を担当せよ」と言ったから、崔慎由は驚いて、「お上の高明の徳は天下にあって、どうして軽々しく論議できましょうか。崔慎由に親族は男系女系で千人、兄弟・従兄弟で三百おりますが、どうして一族滅亡の事に関わることができましょうか。死んだとしても命令を承ることはありません」と言ったから、仇士良らは黙ってしまい、しばらくすると後の戸が開き、引き入れられて小殿にやって来ると、帝がここにいた。仇士良らは階を経て帝の過失を数え上げると、帝は首をうなだれていた。仇士良は帝を指さして「学士でなければ、改めてここに座ることはできなかったな」と言い、そこで崔慎由を送って出し、「漏らすなよ。災いはお前の一族に及ぶぞ」と戒め、崔慎由はその事を書いて、箱を枕の間に隠し、当時の人々は知らなかった。没しようとするとき、その子の崔胤に授け、そのため崔胤は宦官を憎んで、終に討伐して排除したのは、思うに仇士良・魚弘志が元となった災いであったのだといわれる。


  楊復光は、閩の人であり、本は喬氏である。武勇があり、若くして内常侍の楊玄价の家に養われ、非常に節誼によって自ら発奮し、楊玄价は優れた人物だと思った。宣宗の時、楊玄价は塩州軍の監軍となり、誣告して刺史の劉皋を殺した。劉皋は威名がある者で、世間ではその冤罪を訴えた。しばらくして左神策軍中尉に遷り、讒言して宰相の楊収を辞任させたから、権力・恩寵は同時代を震撼させた。

  楊復光には謀略があり、累進して諸鎮の監軍となった。乾符年間(874-879)初頭、平盧節度使の曾元裕を補佐して賊の王仙芝を討伐し、これを破った。招討使の宋威が王仙芝を江西で攻撃すると、楊復光も軍中にあって、部下の呉彦宏に賊の投降を約束するよう願い、王仙芝は将の尚君長を派遣して自ら縛って約束のようにした。宋威はその功績を憎んで、密かに僖宗に誅殺を要請し、そのため王仙芝は怨み、再び兵を率いて叛いた。後に天子は宋威が災いを引き起こしたことを悟り、罷免し、兵を楊復光に与え、そこで進撃して徐唐莒を捕らえた。王鐸が招討使となると、楊復光は監軍となった。王鐸が荊南を放棄するや、山南東道節度使の劉巨容がその地を平定し、忠武軍の別将の宋浩が荊南を領すると、泰寧軍の将の段彦謨が補佐した。楊復光の父楊玄价がかつて忠武軍の監軍であったとき、宋浩はすでに大将となっていたから、楊復光に会うと、若いと見て不礼であった。段彦謨もまた宋浩の部下として辱められたから、遂に関係が悪化した。楊復光は「どうして殺さないのか」と言ったから、段彦謨は勇敢な兵士を率いて宋浩を撃ち殺し、楊復光は客人の常滋を仮留後として、宋浩の罪を奏上し、段彦謨を推薦して朗州刺史とした。鄭紹業に詔して荊南節度使とし、楊復光を忠武軍の監軍とし、鄧州に陣を敷き、賊の右翼を遮った。帝が西に行幸すると、鄭紹業を召還して行在で謁見し、楊復光は改めて段彦謨を推薦して荊南節度使とした。段彦謨は辺境に行くと偽って、楊復光に詣でて、黄金数百両で謝礼とした。その後忠武軍の周岌が賊の任命を受け、かつて夜宴すると、楊復光を召還したが、側近に向かって、「彼はすでに賊に付したが、必ず公に利することはない。行かないのにこしたことはない」と言い、楊復光は行くことを拒み、酒席で時勢を語ると、楊復光は「漢たる者が感動するものは、ただ恩と義だけで、彼は恩義を顧みず利害をはかるのは、どこが漢なのだろうか。公は匹夫の侯を封じられるのに揺り動かされて、十八代の天子を捨て、北面して賊の臣下となるとは、どうして恩義・利害に対して深く暗愚なのだろうか」と言って泣くと、周岌は涙を流して「私には力不足で、表向きは迎合しているが心の中では離れようと思っている。だから公を呼んで謀ったのだ」と言い、そこで杯を持って盟して「酒のようにあれ」と言い、そこで子の楊守亮を派遣して賊使を伝舎で斬った。秦宗権が蔡州で叛くと、周岌・楊復光は忠武軍の兵三千人で蔡に入って会見した。秦宗権はそこで部将の王淑を派遣して兵一万人を率いさせて従った。楊復光は荊州・襄州を平定し、軍は鄧州に行き、王淑が逗留すると、楊復光は斬り、その軍を併合してから八部隊に分け、鹿宴弘晋暉張造・李師泰・王建韓建らをその将とし、南陽に進攻した。賊将の朱温・何勤が迎撃してきたが、大いに破り、遂に鄧州を収め、追撃して藍橋に逃走させた。その時、母の喪にあい、軍を帰還させた。にわかに天下兵馬都監に起用され、諸軍を総括し、東面招討使の王重栄ととともに力を合わせて関中を平定した。朱温は同州を守っていたが、楊復光は使者を派遣して戒めて説得したから、朱温は率いている部隊とともに投降した。その時賊が強くなり、王重栄はどうしていいかわからないから心配し、楊復光に向かって、「賊の臣下となれば、また国が敗北するだろう。戦って防いでも、兵が少ない。どうすればいいか」と言うと、楊復光は、「李克用は我らと代々苦難と共にしてきましたが、その人となりは、奮戦して身を顧みず、この頃しばしば召寄せてもまだ来ることがないのは、太原の道が不通だからだけであり、災いを忍んでいるわけではありません。もし上意を諭すならば、彼は必ず来るでしょう」と言ったから、王重栄は「よろしい」と言った。王鐸に申し上げて詔使を太原に派遣し、李克用の兵はそこで出撃した。京師は平定されると、功績によって開府儀同三司・同華制置使となり、弘農郡公に封ぜられ、「資忠輝武匡国平難功臣」の号を賜った。河中で帥し、観軍容使を追贈され、諡を忠粛という。

  楊復光は部下を御して恩があり、軍中はその死を聞いて、皆慟哭した。麾下で功績を立てる者が多かった。諸子で将帥となったのは数十人で、楊守宗もまた忠武軍節度使となった。


  賛にいわく、楚の鄖公闘辛は、あえて君主を仇とはせず、父の冤罪を忘れ、昭王・愍王の時代、両軍に寵遇されて厚かったり薄かったりした。ついに馬存亮を用いて難を平定し、功績は及ぶ者がいないほどであった。古より忠臣は疎外・排斥されて用いられない者が思うに多かったが、馬存亮はどうして儒家の諸書や道理に通じた人であったであろうか。どうして馬存亮が君臣の正道を知っていたのがはなはだ明らかなのであろうか。死体ほどに無様な寝姿を見せるほどの大労は無く、権力を恐れて外部にあるのも、またいよいよ賢者なのである。孔子と一緒に「龍蛇」の詩を書した者は、どうして功績が小さいといえるだろうか。


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最終更新:2025年02月13日 10:59
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