豊王李珙 りこう
?-763
盛唐の宗室。
玄宗の第二十六皇子。母は陳美人。初名は李澄。開元二十三年(735)豊王に封ぜられ、開元二十四年(736)李珙と改名された。天宝十五載(756)安史の乱にて、武威郡都督、河西、隴右、安西、北庭等路節度使に任じられたが、実際に赴任しなかった。広徳元年(763)吐蕃が長安を陥落させ、
代宗が陝州に逃れると、
王懐忠が諸王を手土産に吐蕃に投降しようとしたが、途中で
郭子儀の軍とあい、その際に皇位に関わる不遜な発言をしたため、死を賜った。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
『新唐書』
巻八十二 列伝第七 十一宗諸子 玄宗諸子 豊王珙
『旧唐書』巻一百七 列伝第五十七 玄宗諸子 豊王珙
外部リンク
最終更新:2024年12月28日 12:01