巻八十二 列伝第七

唐書巻八十二

列伝第七

十一宗諸子

奉天皇帝琮 太子瑛 棣王琰 鄂王瑤 靖恭太子琬 光王琚 潁王璬 永王璘 寿王瑁 延王玢 盛王琦 豊王珙 汴王璥 越王係 承天皇帝倓 彭王僅 襄王僙 嗣王熅 恭懿太子佋 昭靖太子邈 睦王述 舒王誼 通王諶 虔王諒 肅王詳 文敬太子謜 郯王経 恵昭太子寧 澧王惲 絳王悟 建王恪 懐懿太子湊 安王溶 悼懐太子普 陳王成美 荘恪太子永 通王滋 吉王保 徳王裕



  玄宗に三十子があった。劉華妃李琮・第六子の李琬・第十二子の李璲を生み、趙麗妃李瑛を生み、元献皇后粛宗皇帝を生み、銭妃は李琰を生み、皇甫徳儀李瑤を生み、劉才人李琚を生み、武恵妃李一・第十五子の李敏・第十八子の李瑁・第二十一子の李琦を生み、高婕妤李璬を生み、郭順儀は李璘を生み、柳婕妤李玢を生み、鍾美人は李環を生み、盧美人は李瑝を生み、閻才人李玼を生み、王美人は李珪を生み、陳才人は李珙を生み、鄭才人は李瑱を生み、武賢儀李璿・第三十子の李璥を生んだ。のこりの七子は夭逝し、母の氏について伝を失っている。

  奉天皇帝李琮は、景雲元年(710)、許昌郡王となり、真定郡王とともに同じく封ぜられた。先天元年(712)、郯王に進み、郢王とともに同じく封ぜられた。開元四年(716)、安西大都護・安撫河東関内隴右諸蕃大使を兼任した。開元十三年(725)、慶王に移封され、忠王棣王栄王光王儀王潁王永王寿王延王盛王済王の十一王とともに同じく封ぜられた。開元十五年(727)、他の十王とともに節度使を兼任したが、宮中から出なかった。李琮は涼州都督として河西諸軍節度大使を兼ねた。天宝元年(742)、河東節度使に改められた。天宝十載(751)に薨去し、太子を追贈され、諡を靖徳といった。
  粛宗が即位すると、詔して、「靖徳太子琮は、親族関係は朕の兄であり、優れて聡明であり、朕は昔皇太子となったが、思えば本当に順序ではなかったが、君主たる父の命があって、あえて違うこともできなかった。長らく心の底から辞退したいと申し上げていたが、もとの通りにはできなかった。諡を進冊して奉天皇帝とし、妃の竇氏を恭応皇后とせよ」と述べ、尚書右僕射の裴冕に詔して持節させて改葬し、群臣は素服で達礼門にて送別に臨み、帝は門に御して哭して葬列を見送った。墓は斉陵と号した。子がなかったので、太子李瑛の子の李俅に王を嗣がせた。
  李琮は始めの名を李嗣直といい、太子は李嗣謙といい、棣王は李嗣真といい、鄂王は李嗣初といい、靖恭太子は李嗣玄といった。開元十三年(725)、名をあらためて李潭といい、李鴻といい、李洽といい、李涓といい、李滉といった。のち十年して今の名に改めた。

  太子李瑛は、始め真定郡王となり、郢王に進んだ。開元三年(715)、立てられて皇太子となった。開元七年(719)、太子・諸王に詔して国学に入って歯冑の礼を行わせ、太常寺は日を選んで孔子に謁し、太子献とした。右散騎常侍の褚无量に詔して経を講義させ、群臣・学官・諸生に帛を賜うことは序列によった。翌年、李瑛は元服し、太廟に謁見した。開元十六年(728)、詔して九品官の息女で太子の配偶たるべき者を、役人が面接して立ち振舞を見て、これによって太常少卿の薛縚の娘を妃とした。は麦を禁苑中に種まきし、李瑛・諸王は近侍した。帝は「これは宗廟に奉ろうとするところであり、そのため自ら行ったのだ。またお前たちに農耕の難しさを知ってほしいと思う」と言い、そこで侍臣に分けて賜い、「春秋に「麦禾なし」と書かれているのは、昔は非常に重要視したからだ。この頃使者に詔して田原を調査させているが、結果は事実に基づいていないのだ。だから朕は自ら種まきしてその実りを見ているのだ」と言ったという。
  それより以前、李瑛のは芸妓として玄宗のもとに進められ、歌舞をよくしたから、は潞州にあっては寵愛した。即位すると、妃の父の趙元礼・兄の趙常奴を抜擢して二人とも大官とした。鄂王光王の二王の母もまた帝が臨淄王時代に容色によって選ばれた。武恵妃が寵愛を得て後宮を傾けると、寿王を生み、愛情は他の子らとは超越していた。しかし太子・二王は母のために職を失い、非常に心は晴れ晴れとしなかった。武恵妃の娘の咸宜公主の婿の楊洄は、武恵妃の意向を推し量って、太子の悪口をうかがってみると、喧しく暴言をはいていたから、武恵妃は帝に訴え、また泣いたから、帝は大いに怒り、宰相を呼び寄せて廃太子を議した。中書令の張九齢は「太子・諸王は日々聖訓を受け、天下はともに慶んでいます。陛下は国を祀ること久しく、子孫は繁栄していますが、どうして一日で三子を捨てるようなことをされるのでしょうか。昔、晋の献公は妾姫の讒言に惑わされて、申生は憂いて死に、国はそのため大乱となりました。漢の武帝は江充の巫蠱を信じて、禍は太子に及び、京師は血でそそがれました。晋の恵帝に賢い子がいましたが、賈后が讒言したので、そのため滅亡へと至ったのです。隋の文帝皇后の言う事を聞いたので、太子楊勇は廃され、遂に天下を失ったのです。今太子には過失がなく、二王は賢人です。父子の道は、天から授けられたものであって、失ったからといって、それでも覆うことができるのです。陛下、お許しくだしますように」と諌めると、帝が口をつぐみ、太子は廃されなかった。にわかに張九齢が罷免されると、李林甫が国政を専らにすると、しばしば寿王の素晴らしさを称え、これによって武恵妃の意向をくみとり、武恵妃は果たして李林甫に恩義を感じた。
  開元二十五年(737)、楊洄は再び李瑛・李瑤李琚が妃の兄の薛鏽とともに謀反を企てていると告発した。武恵妃は人に偽って太子と二王を呼び寄せて、「宮中に賊がいます。助けのために部隊を入れてください」と言ったから、太子はこれに従った。武恵妃はに「太子・二王が謀反を企んでいます。甲冑を持ち込んでいます」と言ったから、帝は宦官に調べさせると、言った通りであり、急遽宰相李林甫を呼び寄せて協議すると、「陛下の家の事です。臣の関わるところでありません」と言ったから、帝は決意して、そこで詔して「太子瑛・鄂王瑤・光王琚は悪事を同じくしており、罪は同罪である。三人とも廃して庶人とする。薛鏽には死を賜う」と述べ、李瑛・李瑤・李琚は相継いで殺害され、天下は無実であるとし、「三庶人」と呼ばれた。年内に武恵妃はしばしば三庶人が祟りとなったのを見て、重病となった。夜に占い師を呼んで祈らせ、改葬することを願ったから、三庶人の死刑を執行した者を射て埋めたが、それでも祟りは解けなかった。妃が死ぬと、祟りは消えた。宝応元年(762)、詔して李瑛を皇太子に追贈し、李瑤らを王に復した。
  李瑛に子が五人あった。李儼・李伸・李倩・李俅・李備である。李瑛が廃されると、帝は慶王に李儼らを養わせて子とした。李儼は新平郡王に、李伸は平原郡王に、李俅は嗣慶王に封ぜられ、李備は太僕卿となったが、李倩は伝を失った。

  棣王李琰は、開元二年(714)に始め鄫王となり、鄂王鄄王の二王とともに同じく封ぜられた。のちに棣王にうつされ、太原牧・太原以北諸軍節度大使を兼任した。天宝年間(742-756)初頭、武威郡都督となり、節度河西節度使・隴右節度使となった。ちょうどその時、妃の韋氏は罪のため別室に置かれ、二人の孺人が寵愛を争って仲違いし、呪いを求めた者は密かに護符を李琰の沓の中に置いて寵愛を求めた。その敵は李琰がお上を呪い殺そうとしていると告発したから、は朝廷に諮問すると、人に沓を取らせて調査させたから信じた。帝は怒って李琰を責めると、李琰は頓首して「臣の罪は死にあたります。しかし臣は妻とは二年会っておりませんし、二人の孺人がどちらが上かと争っており、臣はこの三人がそれを行ったのではないかと恐れています」と謝したから、そこで調査してみると、果たして事実であった。しかし帝はなおも李琰を疑い、怒はまだ解けず、太子以下が全員願ったから、そこで鷹狗坊に捕らえ、憂いによって薨去した。妃は、韋縚の娘で、子がなく、実家に戻った。
  李琰に合わせて五十五子があり、王となれた者は四人で、李僎は汝南郡王に、李僑は宜都郡王に、李俊は済南郡王に、李侒は順化郡王となった。李僚は太僕卿に、李侠は国子祭酒に、李仁は殿中監に、李僾は秘書監になった。宝応元年(762)、詔して李琰を王爵に復した。

  鄂王李瑤は、王に封ぜられると、幽州都督・河北節度大使を兼任した。開元二十三年(735)、栄王光王儀王潁王永王寿王延王盛王済王信王義王の十一王とともに開府儀同三司、実封二千戸を授けられた。詔によって東宮・尚書省に詣で、上日に百官を集め、役人は宴会用の帳を張って楽を設けた。この日、ことごとく王府の官属を授けられたが、まだ府がなかったから、選任は勝手に行い、当時の人はこれを栄誉とは思わなかった。

  靖恭太子李琬は、始め鄄王となり、栄王にうつされた。京兆牧となり、隴右節度大使を領した。また詔によって自ら隴右を巡察し、関内・河東の飛騎五万を選んで盛秋に防いだ。累進して単于・安北大都護を兼任した。安禄山が叛くと、李琬に詔して征討元帥とし、河・隴の兵を募集して陝州に駐屯し、高仙芝を副官としたが、たまたま薨去した。李琬の風格は秀でて整い、もとより人望があり、中外の士はこれに頼った。薨去すると、国で怨み嘆かないものはいなかった。詔して諡を贈られた。
  李琬の男女は五十八人で、王となった者は三人、李俯は済陰郡王となり、李偕は北平王、李倩は陳留王となった。李傆は衛尉卿、李僓は秘書監、李佩は鴻臚卿となった。


  光王李琚は、開元十三年(725)に始めて王となり、儀王潁王永王寿王延王盛王済王の七王とともに同じく封ぜられた。にわかに広州都督を兼任した。力が優れて騎射をよくしたから、に愛された。鄂王と同居し、友愛は深く、皆学を好んだ。王を廃されたが、後嗣がなかった。それより以前、李琚の名は李涺、儀王は李濰、潁王は李澐、永王は李沢、寿王は李清、延王は李洄、盛王は李沐、済王は李溢、信王は沔、義王は漼、陳王は李沚、豊王は李澄、恒王は李潓、涼王は李漎、汴王は李滔であったが、開元二十三年(735)になって、詔して全員今の名に改めた。

  夏悼王李一は、生まれつき眉目秀麗で、母の寵愛によって特別に愛されたから、これによって一と命名された。まだ三歳になる前に薨去し、王爵および諡を追贈した。当時は東都にあって、そのため龍門の東峰に葬ったが、宮中から望見したかったからだといわれる。

  儀王李璲は、封ぜられると、河南牧を授けられた。薨去し、太傅を贈られた。子の李侁は鍾陵郡王となり、李僆は広陵郡王となった。

  潁王李璬は、読書を喜び、文辞を好んだ。開元十五年(727)、安東都護を遙領した。安禄山が叛くと、詔して剣南節度大使を兼任し、楊国忠を剣南節度副使とした。が西に出発すると、御史大夫の魏方進を置頓使とし、剣南属郡に布告して、李璬の藩に託し、大いに貯蓄を設けた。李璬は鎮所に赴くのに先んじて、改めて蜀郡長史の崔円を副使とした。李璬は長江を渡り、舟中では綾絹で席や歩行路に敷かれていたが、命じて撤去させ、「これは寝るためのものだろう。どうして踏みつけにするのか」と言った。李璬が急遽出発したから、節を受けることができず、司馬の史賁が大槊を建てて、油囊をつけ、先駆けして道路に威儀をただすよう願った。李璬は「私はすでに真の王となっているのだから、どうして仮の節なぞ用いようか」と笑った。成都に到着しようとすると、崔円が迎えて馬前で拝礼したが、李璬は礼をなさなかったから、崔円は恨んだ。李璬は政務にあたること二か月で、人々には寛容さを頼りとされたが、崔円の奏上によって罷免されて内宅に住んだ。そこで詔して粛宗を彭原で宣慰し、粛宗に従って京師に帰還した。建中四年(783)に薨去し、年六十六歳であった。
  子の李伸は滎陽王となり、李僝は高邑王となり、李俔は楚国公となり、李僔は夔国公となった。

  懐思王李敏は、容貌は優れて絵画のようであり、に愛された。年一歳で薨去し、王爵および諡を追贈され、敬陵に葬られた。

  永王李璘は、若くして母を失い、粛宗は自ら養って見守った。成長すると聡明で学問を好んだ。容貌は非常に粗野で、正視することができなかった。封ぜられると、荊州大都督を兼任した。安禄山が叛くと、は扶風に赴き、李璘に詔して即日鎮所に赴いた。にわかに山南・江西・嶺南・黔中四道の節度使を兼任し、少府監の竇昭を副使とした。李璘が江陵に到着すると、兵士を募集して数万を得て、郎官・御史を任命した。
  当時、江淮の租税は億万の巨額で、在所に山のように積まれていた。李璘は宮中で生まれたから、政治には通暁しておらず、富でなおかつ強勢であるのを見て、遂に江で邪しようと窺い、薛鏐・李台卿・韋子春・劉巨鱗・蔡駉を参謀とした。粛宗はこのことを聞いて、李璘に詔して上皇を蜀で朝覲させようとしたが、李璘は従わなかった。その子の襄城王李㑥は、凶暴で謀が乏しく、また乱を楽しみ、李璘に金陵を奪取するよう勧めた。そこで水軍を率いて東下し、完全武装の兵士五千を広陵に急行させ、渾惟明・季広琛・高仙琦を将軍としたが、まだ江を奪取するという邪を明言しなかった。
  ちょうどその時、呉郡採訪使の李希言が李璘に平牒(藩鎮間の対等文書)を送ったから、李璘はそこで怒って、「私は上皇の子で、皇帝の弟で、地で尊く礼遇は隔絶している。今李希言がそこで平牒を送って権威に抗い、落筆署名しているのは、なぜなのか」と言い、そこで渾惟明に李希言を襲撃させ、季広琛を広陵に急行させて、採訪使の李成式を攻撃させた。李璘は当塗県に到着すると、李希言はすでに丹楊に陣を構え、将軍の元景曜らを派遣して防戦したが勝つことができず、李璘に降伏したから、江淮は震撼した。
  翌年、粛宗は宦官の啖廷瑤らを派遣して李成式とともに李璘を招諭させようと謀った。当時、河北招討判官の李銑が広陵にいて、兵は千名以上いたから、啖廷瑤は李銑を迎えて揚子に陣を敷き、李成式もまた裴茙を派遣して広陵の兵士三千で伊婁埭を防衛し、旗幟を掲げ、大閲兵した。李璘は李㑥とともに城壁に登って望見し、恐れを抱いた。季広琛はこの事を知って李璘のもとに集合せず、諸将に向かって、「君らと一緒に王に従ってきたが、どうして叛こうと思うのか。上皇は彷徨われ、道路は通じず、諸子で王より賢い者はいない。もし江淮の精兵を統率して、雍・洛を長駆すれば、大功はなるだろう。今はそうではなく、我らのせいで名は叛逆に留まらせているが、後世の者はなんというだろうか」と言ったから、軍は許諾し、遂に肘を割いて盟約した。ここに渾惟明は江寧に逃げ、馮季康は白沙に逃げ、季広琛は兵六千で広陵に逃げた。李璘は騎兵に追跡させたが、季広琛は、「私は王に恩義を感じている。だから決戦するのに忍びなく、命を逃して帰国するだけだ。もし私を追ってくるのなら、死を決しよう」と述べたから、追跡した者は停止し、そこで免れた。
  この夜、李銑は江北に陣を敷き、夜に束葦を燃やし、一人あたり二つの松明を持たせ、光は乱れて水上を照らし、見た者は倍の数を報告し、李璘の軍もまた火を挙げて対応した。李璘は王師がすでに渡河したのではないかと疑い、子女および麾下とともに逃げ去った。夜明けにそれが偽りであることが発覚したから、再び城に入り、舟を用意して、李㑥に軍を急行させて晋陵に逃げた。間諜が「王が逃げました」と報告したから、李成式は兵を進撃させ、先鋒が新豊県に到着すると、李璘は李㑥・高仙琦に迎撃させた。李銑は合流して、左右の翼を張り、李㑥を射て肩にあて、軍は遂に敗れた。高仙琦は李璘と鄱陽に逃げたが、司馬は城を閉ざして拒み、李璘は怒り、城門を焼いて侵入し、倉庫の武器を手に入れ、余干県を掠奪し、南は嶺外に逃げようとした。皇甫侁の兵が追撃して捕捉し、大庾嶺で戦い、李璘は矢にあたって捕らえられ、皇甫侁は李璘を殺した。李㑥は乱兵に殺害され、高仙琦は逃げ去った。
  李璘がまだ敗北する前、上皇は制誥を下して「降して庶人とせよ。房陵に移し置け」と述べたが、李璘が死ぬと、皇甫侁はその妻子を蜀に送り、上皇は長いこと嘆き悲しんだ。粛宗は幼い頃から自分が育てたから、その罪を宣言することはなかった。側近に向かって、「皇甫侁は私の弟を捕らえたのに、蜀に送らず勝手に殺した。どうしてなのか」と言い、これによって再び任用されることはなかった。薛鏐らはみな処刑された。
  子の李儹は余姚王となり、李偵は莒国公となり、李儇は郕国公となり、李伶・李儀はそろって国子祭酒となった。

  寿王李瑁は、母の武恵妃が頻繁に妊娠していたから育てられず、李瑁が生まれると、寧王が邸中で養うことを願い出たから、元妃が自ら乳をあたえ、自分のことしていたから、諸王の中で最後に封ぜられた。開元十五年(727)、益州大都督を遥任した。それより以前、帝は永王らが幼かったから、詔して謁見に入れなかった。李瑁が七歳になると、諸兄たちとともに謝辞を願い、拝舞に儀法にかない、は優れた人物だと思った。寧王が薨去すると、喪服を着て私恩に報いることを願い出て、詔して裁可された。大暦十年(775)に薨去し、太傅を追贈された。
  子の王たる者は三人、李僾は徳陽郡王となり、李伓は済陽郡王となり、李偡は広陽郡王となり、李伉は薛国公となり、李傑は国子祭酒となった。

  延王李玢は、が尚書右丞の柳範の孫であり、はそれが家であることを重んじ、李玢もまた仁愛があって学問に優れた。封ぜられると、安西大都護を遥任した。帝が蜀に入ったが、李玢には三十六人の子がいて、棄てるのに忍びなく、そのため進むのがゆっくりとなり、数日して行在所で謁見したが、帝は怒り、漢中王李瑀が弁護したから怒りが解け、霊武に帰ることを許された。興元元年(784)に薨去した。
  子の李倬は彭城郡王となり、李侹は平陽郡王となり、李倞は魯国公となり、李偃は荊国公となり、李优は太僕卿となった。

  盛宣王李琦は、王に封ぜられると、揚州大都督を兼任した。安禄山が叛いたため帝が西に向かうと、詔して広陵大都督・淮南江東河南節度大使とし、劉彙を副使とし、李成式を副大使としたが、李琦は行かなかった。広徳二年(762)に薨去し、太傅を追贈された。
  子の李償は真定王に、李佩は武都王に、李俗は徐国公に、李係は許国公に封ぜられた。

  済王李環は、その薨去した年が失われた。子の李傃は永嘉郡王となり、李俛は平楽郡王となった。

  信王李瑝は、開元二十一年(733)に始めて王となり、義王陳王豊王恒王涼王汴王の六王とともに同じく封ぜられた。子の李佟は新安郡王に、李倜は晋陵郡王に封ぜられた。

  義王李玼は、信王とともに薨去した年が失われている。子の李儀は舞陽郡王となり、李僇は高密郡王となった。

  陳王李珪は、二十一子があり、王たる者三人をえた。李倫は安南郡王となり、李佗は臨淮郡王となり、李佼は安陽郡王となった。

  豊王李珙は、封ぜられると、左衛大将軍となった。が普安郡に到着すると、李珙を武威都督・河西隴右安西北庭節度大使に任命し、隴西太守の鄧景山を副使としたが、李珙は行かなかった。
  広徳年間(763-764)初頭、吐蕃が京師に侵入し、代宗は陝州に逃れ、将軍の王懐忠は苑門を閉じ、五百騎で諸王を拐って西に敵を迎えようとしたが、郭子儀に遭遇した。王懐忠は「お上は東に遷られ、宗社に主はいなくなりました。今僕は諸王を奉じて西に走り、天下の望みを繋ごうと思います。公は元帥ですから、廃立を行えますぞ」と言ったが、郭子儀は答えなかった。李珙はすぐに「公はどうか」と言ったから、司馬の王延昌は李珙を責め質して「お上は都落ちされたとはいえ、まだ徳は失われていない。王は藩屏であるのに、どうして非常識な言動をするのか」と言い、郭子儀もまた責め、そこで行在所に護送した。は赦して責めなかった。李珙の語は不遜で、群臣は乱を恐れ、排除を願ったから、死を賜った。
  子の李佻は斉安王となった。

  恒王李瑱は、方士を好んで、常に道士の服を着用した。が蜀に行幸するのに従って、帰還した。代宗の時に薨去した。

  涼王李璿は、が高平王武重規の娘で、宮中では小武妃と呼ばれていた。李璿は代宗の時に薨去した。子の李仂は瀘陽郡王となった。

  汴哀王李璥は、諸子の中で最も年少で、始めて王に封ぜられた時はわずかに数歳であった。容貌は眉目秀麗で澄み切っており、成人の風があったから、に愛された。開元二十三年(725)、右千牛衛大将軍に任ぜられた。翌年、薨去した。

  唐の制度では、親王の封戸は八百戸で、増えて千戸となった。公主は三百戸で、長公主でも六百戸止まりであった。高宗の時、沛王英王豫王の三王・太平公主武后が生んだところであったから、戸は始めて制度を超えた。垂拱年間(685-688)、太平公主は千二百戸に到った。聖暦年間(698-700)初頭、相王・太平公主は二人とも三千戸となり、寿春王ら五王はそれぞれ三百であった。神龍年間(707-710)初頭、相王・太平公主は五千戸に到り、衛王は三千戸、温王は二千戸、寿春王らは皆七百戸となり、嗣雍王衡陽王臨淄王巴陵王中山王は五百戸、安楽公主は二千戸、長寧公主は千五百戸、宣城公主宜城公主・宣安公主(定安公主)はそれぞれ千戸、相王の娘を県主とし、それぞれ三百戸であった。相王は増えて七千戸となり、安楽公主は三千戸、長寧公主は二千五百戸、宜城公主以下は二千戸となった。相王・太平公主・長寧公主・安楽公主は七丁(封戸の封丁七人までの租庸調を封家に入れること)を限度とし、水害・旱魃であっても除かず、国の租・庸によって満たされた。中宗は遺詔して、雍王・寿春王を進めて親王とし、千戸とした。開元年間(713-741)以降、天子は兄弟と仲良く、そのため寧王の戸は五千五百戸に到り、岐王薛王は五千戸で、申王外家の衰えのため、四千戸となり、邠王は千八百戸、帝の妹は千戸、中宗の娘たちは以前の通りで、通常は三丁(封戸の封丁三人までの租庸調を封家に入れること)を限度とした。皇子が王に封ぜられると、二千戸となり、公主は五百戸であった。咸宜公主は母が武恵妃であったから、封は千戸に到り、これより諸公主の例は千戸止まりであった。

  かつて、文徳皇后が崩ずると、晋王は最も幼く、太宗はこれを憐れみ、宮中から出させなかった。豫王もまた武后の幼子であったから宮中から出ず、嗣聖初年(684)、が即位し、相王は降封されると、そこで宮中から出た。中宗の時、譙王は寵愛を失い、外藩に遷され、温王は年十七歳であったから、まだ宮中にいたが、遂に立って帝となった。開元年間(713-741)以降、皇子が幼なければ、多くは禁中の内にいて、成長すると、詔によって苑城に付して大宮とし、分院して居場所とし、「十王宅」は、所謂慶王忠王棣王鄂王栄王光王儀王潁王永王延王盛王済王らの王で、十であったから、全数をあげたのである。宦官は彼らを抑え、夾城を通って天子のおられる場所に参じた。家令は毎日膳を進めた。詞学の士を引き入れて書籍を教え、これを侍読といった。寿王信王義王陳王豊王恒王涼王の七王が封ぜられたが、また十宅にいた。鄂王光王が廃せられて死に、忠王が立てて太子となり、慶王棣王が相継いで薨去し、ただ栄王儀王の十四王が院におり、幕府を外坊に置いても、歳時に名前が記録されるだけであった。また諸孫が多くなると、宅外に改めて「百孫院」が設置された。天子は毎年華清宮に行幸し、また十王・百孫院を宮の側に置いた。宮人は院ごとに四百人以上、百孫院もまた三・四十人であった。禁中に維城庫を設置し、諸王の月俸を給付した。諸孫が妃を娶ったり、嫁ぐには、十王宅に出向いた。太子は東宮にはおらず、乗輿の所にいて別院に行っていた。太子・親王・公主の婚姻および宴会は崇仁坊礼院にて行われた。これは平時の制であったという。


  粛宗に十四子があった。章敬皇后代宗皇帝を生み、宮人孫氏は李係を生み、張氏は李倓を生み、王氏は李佖を生み、陳婕妤は李僅を生み、韋妃李僩を生み、張美人は李侹を生み、後宮は李栄を生み、裴昭儀は李僙を生み、段婕妤は李倕を生み、崔妃は李偲を生み、張皇后李佋李侗を生み、後宮は李僖を生んだ。

  越王李係は、開元年間(713-741)に生まれた。玄宗の末年、ことごとく太子の子を王とし、そのため李係は南陽郡王となった。が即位し、至徳二載(757)十二月、趙王に進封し、彭王兗王涇王鄆王襄王衛王召王興王定王の九王と同じく封ぜられた。
  乾元二年(759)、九節度使の軍が河北で壊滅し、朝廷は震撼し、そこで李光弼郭子儀に代わらせ兵を関東に統べさせたが、李光弼は賢王を軍帥とするよう求め、ここに李係に詔して天下兵馬元帥として、李光弼を司空兼侍中・薊国公として副将とし、知節度行営事に任意、李係は京師に留めた。史思明が洛陽を陥落させると、李係は行くことを願ったが、聴されなかった。翌年、越王に移封した。
  が病で伏せると、皇太子が監国となったが、張皇后は宦官の李輔国と関係が悪く、そこで皇太子を召寄せて入らせると、「李輔国は禁軍を掌握し、政務も長いこと用いられ、天下の詔令はすべて彼の口から出ており、天子の命令を偽り、聖皇を力ずくで移し、天下は直視していません。今上は病でいよいよ滞り、李輔国は常に満ち足りておらず、私とお前を嫌っています。また程元振は宦官と密かに結びつき、謀反を図っています。もし許して誅殺されなければ、災いはもはや猶予がありません」と言ったが、太子は泣いて、「この二人は、陛下の勲旧の臣下で、お上のお体が起き上がれないのに、重ねてこの事を伝えれば、驚かないでいることができましょうか。外に出しておもむろに計られますように」と言い、張皇后は「これとは一緒に事にあたることはできないな」と言い、そこで李係を召寄せて、「お前はできるか」と尋ねると、李係は許諾した。そこで内謁者監の段恒俊を派遣して勇猛な宦官二百人を選抜し、長生殿で甲冑を授け、帝の命だとして皇太子を呼び寄せた。程元振はこのことを李輔国に報告し、そこで協力して兵を凌霄門に集め、皇太子を迎え、変難を告げた。皇太子は「お上の病が重くなったから、私は死を恐れて赴かないなんてことをすると思ってか」と言うと、程元振は、「行けば災いに遭います」と言い、そこで兵で太子を守って飛龍厩に行き、兵を集めて夜に三殿に入り、李係および段恒俊ら百人あまりを収容して捕縛し、張皇后を別殿に幽閉した。張皇后および李係は全員李輔国に殺害された。李係には三子がいた。李建は武威郡王となり、李逌は興道郡王に、李逾は斉国公となった。

  承天皇帝李倓は、始め建寧郡王となった。英俊かつ豪気で才略があり、騎射をよくした。安禄山が叛くと、親兵をまとめ、車駕に扈従した。渭水を渡ろうとすると、百姓は道を遮って太子を留め、太子は「至尊は遠くさすらわれているのに、私は左右の者とは離れるわけにはいかない」と諭させたが、李倓は進み出て「謀反人のえびすども反乱をおこし、全国は崩壊・分裂し、人情によって復興を図らなければ、お上に従って蜀に入ろうと思っても、大散関より東は国家の支配が及びません。大孝するならば社稷を安んずるにこしたことはありません。殿下は豪桀を募り、河西に赴き、牧馬を収容すべきです。今辺境防衛で駐屯している兵士は十万を下らず、李光弼郭子儀の全軍は河朔にありますから、ともに復興を謀れることは上策なのです」と説き、広平王もまた賛同し、ここに議は定まった。太子は北は渭水を通過し、兵士の武器は劣悪で、士気は崩壊に瀕し、一日に数十戦していた。李倓は勇敢な騎兵数百を従えて、接敵するごとに、常に自身は先頭に立ち、血で胸元を赤く染めたが、報告しなかった。太子はあるいは食事すべき時間になっても食事を得られず、李倓はたちまち涙が流れて止めることができず、三軍は全員が帰服した。
  霊武に到着すると、太子は帝位に即位し、議して李倓を天下兵馬元帥としようとしたが、側近が厳しく広平王に任ずるよう願った。は「広平王は既に後継ぎではないか。どうして元帥に登用するのか」と尋ねると、「太子は従うのを撫軍といい、守っては監国といいます。元帥は、撫軍なのですから、広平王以外に適任はおりません」と答えがあり、帝は従い、改めて詔して李倓に親軍を司らせ、李輔国を府司馬とした。当時、張良娣に寵愛があり、李輔国と結託し、皇嗣を変更しようとしていた。李倓には忠義があり、しばしばにこの事を申し上げ、これによって張良娣・李輔国に謗られ、「李倓は兵を統べることができなかったことを恨み、鬱々として二心を抱いています」と言ったから、帝は一方的な言葉に惑わされ、李倓に死を賜い、にわかに悟って後悔した。
  翌年、広平王は長安・洛陽の二京を回復し、李泌に勝利を報告させた。李泌と平素から親しく、従容として会話が李倓の事に及ぶと、帝は様子を変えて、「倓は艱難の時に本当に自ら力をつくし、つまらない者に仲を裂かれ、その兄を害しようとしたから、私は社稷のことを考えて、愛を裂いてなすべきことをしたのだ」と言ったが、李泌は、「その時、臣は河西におり、その詳細を知っています。広平王は兄弟とは仲睦まじく、今でも建寧王(李倓)について語ると、すぐに嗚咽してどうすることもできません。陛下のおっしゃられたことは讒言であっただけです」と言うと、帝は涙を流し、「事はすでにこうなってしまった。この先どうすればいいのだろうか」と言うと、李泌は「陛下は「黄台瓜」のことを聞いたことがありますか。高宗には八人の子があり、武后が生んだのは四人でしたが、自らの行いのため、睿宗が最も幼なかったのです。長子を李弘といい、太子となり、真心があって親に孝行で弟には友愛がありましたが、武后が臨朝しようとすると、鴆毒で殺されました。次子の李賢が立てられました。李賢は毎日心配となり、お上に侍るごとに、あえて何も言いませんでしたが、そこで楽章をつくり、奏者に歌わせ、これによってお上および武后に感じ悟らせようとしました。その文句は、「黄台の下に瓜が植えられており、瓜の実が蔓にたくさん熟している。瓜を一つ摘むと他の瓜はよりよく育つ。二つ摘むと瓜は稀となり、さらに三つ選べば瓜が出ることもあるが、四つ全部摘むと蔓だけが残る」とあって、李賢はついに武后に排斥され、黔中で死にました。陛下は今一つ摘んだだけなので、二つ目がないよう慎んでください」と言うと、帝は愕然として、「君はどうしてこの言を得たのか」と言った。この当時、広平王に大功があり、また張皇后に誣告されており、そのため李泌は対面したときにこのことを述べたから、広平王は遂に安泰となった。代宗が即位すると、李倓に斉王を追贈した。大暦三年(768)、詔があって李倓が艱難の時にあたって、率先して大謀を定め、衆議を廃し、国家の中興に功績があったから、そこで諡を進めて承天皇帝とし、興信公主の末娘の張氏を恭順皇后とし、冥婚させ、順陵に葬り、奉天皇帝廟に祀り、同殿異室としたという。
  それより以前、李泌は李倓に加贈することを願うと、代宗は、「李倓の性格は忠孝であったが、讒言に苦しめられた。帝号を追贈のではどうか」と言うと、「開元年間(713-741)、上皇の兄弟は全員太子を追贈されました」と答えたが、帝は「これは特に宗族の友愛だけであって、どうして李倓のように功績があっただろうか」と言い、ここに帝号を追贈された。使者を派遣して彭原に葬列を迎えさせたが、城門に到着すると、葬列の霊柩車は動かなかった。帝は李泌に向かって「どうして恨みがあるというのだろうか。君が行って祭り、朕の意を伝えよ。また君が李倓の艱難を定める策がある者だと知っている」と言った。李泌は挽詞を二解つくり、追って李倓の志を述べ、命じて兵士に挽詞を唱えさせ、李泌はそこで酒を地に注いで死者を祭った。霊柩車はそこで進むようになり、見る者は全員涙を流した。

  衛王李泌は、始め西平郡王となった。早く薨去した。宝応元年(762)五月、鄆王とともに同じく追封された。

  彭王李僅は、始め新城郡王となり、彭王に進封された。史思明が河・洛を陥落させると、人心は震撼して騒動となったから、群臣は諸王に方鎮の兵を統率させ、遠隔地を鎮めようと願った。ここに李僅に勅して河西節度使に任じ、兗王を北庭節度使に、涇王を隴右節度使に、𣏌王を陝西節度使に、興王を鳳翔節度使とし、全員を大使とした。この年に李僅は薨去した。子の李鎮は常山郡王となった。

  兗王李僩は、始め潁川郡王となり、兗王に進んだ。宝応元年(762)に薨去した。

  涇王李侹は、始め東陽郡王となり、涇王に進んだ。興元元年(784)に薨去した。

  鄆王李栄は、始め霊昌郡王となった。早く薨去し、追封された。

  襄王李僙は、至徳二載(757)に始めて王となり、𣏌王召王興王定王の四王とともに同じく封ぜられた。貞元七年(791)に薨去した。子の李宣が伊吾郡王となり、李寀が楽安王となった。李宣の遠孫が李熅である。

  李熅は、性格は温和で謹み深かったが、才能はとくに人に勝ったところがあるわけではなかった。光啓二年(886)、田令孜僖宗に迫って興元府に行幸し、邠寧節度使の朱玫は五千騎で乗輿を追跡したが及ばなかった。李熅は病によって僖宗に従うことができず、朱玫は李熅をさらって、鳳翔に駐屯し、台省の官百名あまりを得て、そこで宰相の蕭遘らを脅して群臣を率いて石鼻駅で盟し、李熅を奉って嗣襄王、監軍国事とし、そこで京師に帰還し、官吏属官を任じた。それより以前、蕭遘は執政することを不可とし、ここに蕭遘を罷免して、朱玫は自ら侍中となり、号令は自身が行った。裴澈を門下侍郎、鄭昌図を中書侍郎とし、二人とも平章事(宰相)とした。柳陟ら十人ばかりを分派して天下に嗣襄王が監国となった理由を諭し、全員が昇進できた。朱玫はまた太子太師の裴璩らを脅し、書を奉らせて勧進し、李熅は五度謙譲して即位し、建貞と改元し、僖宗を尊んで太上元皇聖帝とした。河中節度使の王重栄は諸藩を率いて貢奉し、藩鎮で帰順する者は十人中八・九人に及び、蔡州の秦宗権は自ら皇帝を僭称しており、ただ太原の李克用のみ従わなかった。その時、は使者を派遣して王重栄・李克用を諭し、そのため二人は命令を聴いた。枢密使の楊復恭らは檄文を関中一帯に伝え、朱玫を斬ることができる者を募り、邠寧節度使の地位を賜うものとした。その偽将の王行瑜は鳳州から京師に入って朱玫を殺し、李熅は裴澈・鄭昌図および官人職員とともに東渭橋に逃げた。王重栄は偽って迎えさせ、李熅は官人職員と別れ、また泣いて、「朕は王重栄と会見し終わったなら、交換する衣服を備えて、公らを迎えさせよう」と言った。蒲州に到着すると、捕らえられて殺された。そこで裴澈を獄に捕らえ、偽官を誅殺し、李熅の首を函に入れて行在所に到着した。李熅が偽皇帝に即位してからおよそ九か月で敗れた。それより以前、李熅の首が到着すると、群臣は白帝に興元府の南門に御して受け取るよう申し上げ、百官が祝いの詞を述べた。太常博士の殷盈孫が奏上して「礼(『尚書』文王世子)では、公族に罪があれば、役人は「某の罪は重罪です」と述べ、君主は「赦してやれないか」と述べます。このようなことを三回して、走り出て、処刑されることになると、君は素服を着て音楽を催さないこと三日となっています。今、李熅は皇族で、固く節を守ることはできませんでしたが、迫り脅されてこうなったのですから、廃して庶人とし、宗属の籍を絶って、葬は庶人の礼で行うべきです。大勝利の喜びは、朱玫の首が到着してから祝賀すべきです」と申し上げた。詔して裁可された。


  代宗に二十子があった。睿真皇后徳宗皇帝を生み、崔妃李邈を生み、貞懿皇后李迥を生んだ。十七王は、その母の氏と位について記録が失われている。

  昭靖太子李邈は、好学で、賢人として知られた。上元二年(761)始めは益昌郡王に封ぜられた。が即位すると、宝応元年(762)鄭王に進封され、韓王とともに同じく封ぜられた。淄青節度使の牙将の李懐玉がその軍帥の侯希逸を追放し、李邈に詔して平盧淄青節度大使とし、李懐玉を知留後とした。大暦年間(766-779)初頭、皇太子に代わって天下兵馬元帥となった。大暦八年(773)に薨去し、遂に元帥府は廃止された。

  均王李遐は、早く薨去した。貞元八年(792)に追封された。

  睦王李述は、大暦十年(775)、田承嗣が臣従せず、しかも昭靖太子が夭折して、強力な王がおらず、はそこですべての王子たちを、諸鎮軍に兼任させ、天下に威信を示そうとした。ここに李述を睦王として、嶺南節度大使とし、李逾を郴王として、渭北鄜坊節度大使とし、李迥を韓王として、汴宋節度大使とし、李造を忻王として昭義節度大使とし、全員が大使となった。李連を恩王とし、李遘を鄜王とし、李暹を韶王とし、李遇を端王とし、李遹を循王とし、李通を恭王とし、李逵を原王とし、李逸を雅王とし、全員を開府儀同三司としたが、宮中から出なかった。
  徳宗の建中年間(780-783)初頭、全国に太后の所在を訪ねることを周知させ、李述が諸王で最年長であるから、奉迎太后使を拝命し、工部尚書の喬琳を副使とした。貞元七年(791)に薨去した。

  丹王李逾は、始め郴王となり、建中四年(783)、簡王とともに同時に移封された。元和十五年(820)に薨去した。
  恩王李連は、元和十二年(817)に薨去した。
  韓王李迥は、始め延慶郡王となり、の寵愛によって、鄭王とともに韓王に移封された。貞元十二年(796)に薨去した。
  簡王李遘は、始め鄜王となり、簡王に移封された。元和四年(809)に薨去した。
  益王李迺は、大暦十四年(779)に始めて王となった。薨去した年が失われている。
  隋王李迅は、興元元年(784)に薨去した。
  荊王李選は、早く薨去し、建中二年(781)に追封されて王となった。
  蜀王李遡は、もとの名は李遂、大暦十四年(819)に始めて王となり、建中二年(781)に今の名に改めた。
  忻王李造は、元和六年(811)に薨去した。
  韶王李暹は、貞元十二年(796)に薨去した。
  嘉王李運は、貞元十七年(801)に薨去した。
  端王李遇は、貞元七年(791)に薨去した。
  循王李遹は、薨去した年が失われている。
  恭王李通は、薨去した年が失われている。
  原王李逵は、大和六年(832)に薨去した。
  雅王李逸は、貞元十五年(799)に薨去した。


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最終更新:2025年07月22日 01:38
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