仇甫

仇甫 きゅうほ

?-860
晩唐の盗賊・農民反乱の指導者。裘甫とも。浙東(浙江省)の人。宣宗のころには、唐朝の財政困難がはなはだしく、遠く後年までの租税を徴収して常費をまかなうほどで、したがって最も重要な財源地である江南の民衆の負担はきわめて重く、かつ超過徴収、進奉(羨余)によって栄達をはかろうとする藩帥の搾取が加わったから、農民は流亡・群盗化し、藩鎮下の軍人の不安と不平が爆発して反乱を起こした。855-858(大中9-12)年までの浙東、嶺南、湖南、江西、宣州等における一連の江南諸藩鎮にはまれな軍人の反乱は、自己の資産をかくして収奪を免れようとして藩鎮下の軍将となった在地有力の土豪層の指導によるものが多かった。このように江南地方が動揺している859(大中13)年、貧窮・流亡の民衆を背景としてたちあがり、象山をおとしいれたのが「浙東の賊帥」仇甫である。江南諸藩の兵力は超過徴収、進奉のためいちじるしく弱少化し、急募の新兵は惰弱であったから、反乱軍の勢力は急数に拡態の新兵は剡県を奪って根拠地とし、2月浙東軍をその西部で粉砕して、浙東地方を大混乱におとしいれた。この形勢に山海の諸盗や諸地方の無頼・亡命の徒が四方より集まってその兵力は3万に達した。仇甫はこれを32隊に編成し、みずから、天下都知兵馬使と称し、羅平と改元し、資糧を集め武器を整え、唐朝との対決を明らかにした。これより衢、婺、明、台、越の各州の諸地域を襲い、ときに県令、丞尉を殺し、貴族官僚にたいする激しい憎悪を示すとともに、饑民には穀物を与えて彼らの支援を得ようとした。これに驚いた唐朝は、安南都護経略使として威名のあった王式を浙東観察使に起用して、その平定に当たらせた。王式は財源地としての江淮の重要性を論じ、強力な軍隊による速戦即決策を上奏して、裁可をえ、忠武、義成、淮南、昭義の軍兵のほか、江淮にいた吐藩・ウイグル(回鶻)を用いて騎兵とし、土団軍をも編成してこれに対した。仇甫らの反乱軍は動揺し策士劉暀が越州、浙西、福建を占領して、唐朝の財源地をおさえ、揚州を襲撃して軍費を充実し、浙江にそって防御線を構築し、江西地方の農民蜂起を待とうと力説したが、軍中にあった進士王輅の、要害に拠って自守しようとする消極策にはばまれて実現されず、その間たちまち王式は越州に入り、仇甫の別将をくだし、諸県の倉を開いて民衆に食糧を与え、建物の焼焚や平民の殺害を禁じ、脅従者や越人の捕虜を釈放するなど、人心の獲得をはかり、水軍をもって反乱軍の海上への逃走路を断って急追した。劉暀は自己の策をさまたげた緑衣の進士たちを青虫とののしって斬り捨て、王式の追撃をのがれて黄罕嶺から6月剡県に入り、ここで3日83戦、女軍をも繰り出して壮烈な抵抗を試みたが、力つきて降伏し、劉暀らは腰斬され、仇甫は京師に送られ、8月東市で斬られた。残党は、劉従簡に率いられて険に拠ったが、相互に猜疑して自滅してしまった。仇甫の反乱は、唐末の王仙芝黄巣らの没落農民反乱の先駆であった。『旧唐書』『新唐書』ではあまり重視されないが、『資治通鑑』では委細記されている。

年号

羅平 860

史料

『資治通鑑』巻第二百五十 唐紀六十六 懿宗上 咸通元年

参考文献

『アジア歴史事典2』(平凡社,1959年)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』裘甫の乱
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最終更新:2025年01月20日 23:46
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