崔義玄 さいぎげん
585-656
初唐の武将・官人・儒者。貝州武城県(河北省衡水市故城県)の人。唐代に「七姓十家」と称された名門・清河崔氏の分家・南祖崔氏の出。隋末の戦乱で
李密に仕えようとしたが用いられず、
黄君漢に唐への降伏を進言して、懐州司馬となった。
王世充配下の
高毘が河内に侵攻すると撃退した。
太宗の王世充を討伐ではしばしば進言し、隰州都督府長史に転任した。永徽年間(650-655)婺州刺史となり、
陳碩真が挙兵するとこれを鎮圧して御史大夫に任じられた。儒教経典解釈に秀でた。
長孫无忌と対立し、
高宗が武氏(
武則天)を皇后にたてることを望むと賛意を示し、長孫无忌の死に大きく関与した。子に
崔神基・
崔神慶がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2025年06月29日 08:48