段文楚 だんぶんそ
815-878
晩唐の官人・藩鎮。
段嶷の子。
段秀実の孫。字は永錫。蔭位により京兆府倉曹参軍、咸陽県令を歴任。
宣宗即位以前の側近であったため、殿中丞、鴻臚少卿を経て邕管経略使、御史中丞に任じられた。天徳軍防禦使となり、咸通二年(861)邕管経略使に再任したが、この時兵力寡少のため募兵を行なったが、不評で解任された。結局南詔の侵攻に対処できなかったため、邕管経略使に三任した。しかし防備変更に関する弾劾によって威衛将軍分司に左遷された。乾符三年(876)が代北水陸発運・雲州防禦使に任じれたが、凶作となったのを節税のため兵士の糧食を減らしたのを怨みに持たれ、
李克用の襲撃に遭って、捕らえられて凌遅刑で殺害された。『新唐書』に伝がある他、墓碑に詳細な伝がみえる。
列伝・史料
『新唐書』
巻一百五十三 列伝第七十八 段秀実 文楚
「唐故大同軍防禦使金紫光禄大夫検校吏部尚書兼御史大夫上柱国武威郡開国伯食邑七百戸段公墓誌銘並序」
外部リンク
最終更新:2025年07月25日 23:58